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本日、胃痛につき。〜185センチ店長のバックヤード寄席〜  作者: ジェミラン
第2週:混沌は加速する

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第十三話:深夜の賞味期限・完結編

土曜、午後十時。 閉店作業を終え、最後のお客様を送り出した店内に、静寂が染み渡る。 私、店長・佐藤は、レジを閉め終えた田中に「先に上がっていいよ」と告げ、一人、薄暗い店内に残っていた。


一八五センチの私の影が、磨き上げられた床に長く伸びている。 そこへ、三度、あの規則正しい足音が響いた。


コツ、コツ、コツ……。 もはや私にとって、それは時計の秒針と同じ、安心と緊張を同時に運んでくるリズムだった。


「店長。今夜は、買いに来たのではない。……君の『期限』を確認しに来た」


振り返ると、そこにはいつもの完璧な三つ揃えのスーツに身を包んだ、あの紳士が立っていた。 だが、今夜の彼の手には、懐中時計も缶詰もなかった。彼はただ、私の目を、その深い知性の宿る瞳でじっと見つめていた。


「……私の、期限、でございますか」 私は一八五センチの体を丁寧に折り曲げ、挨拶をした。胃の奥が、静かに、けれど激しく疼く。


「そうだ。私は君の言葉を聞き、牛乳の『昇天』を味わい、サバ缶の『二年後の約束』を買い取った。君の脚本は、確かに私の食卓を豊かにしたよ。……だが、店長。君自身はどうなのだ? このスーパーという狭い舞台で、毎日胃を痛め、誰かのトラブルを処理し、物語を消費する日々。君という人間の『賞味期限』は、いつまでだ?」


紳士の問いは、深夜の店内に、鋭いメスのように突き刺さった。 私は、店長室に積み上げられた自作の落語台本を思い出した。 客のため、売上のため、平和のため。 私はいつの間にか、「店長」という役柄を演じ続けることに必死で、中身の「佐藤」という人間が、どれほど磨り減っているかに気づかないふりをしていた。


「……私という人間は、いわば『非売品』でございます、お客様。期限など、あってないようなものかと」 私は精一杯の虚勢を張り、軽妙な口調で返した。


「逃げるな。非売品とは、価値がないということではない。誰にも売らず、自分だけで使い古し、ボロボロになって廃棄されるのを待つだけの存在か? 店長、君の目は、かつて見た時よりも少しだけ、濁っているように見える」


紳士は、カウンターに静かに手を置いた。 「人間にも、賞味期限はある。それは肉体の衰えではない。心が、『驚き』を失い、日常を『ルーチン』として処理し始めたその瞬間に、人間の鮮度は失われるのだ。……君は今、美味しいかね? 自分という素材を、楽しめているかね?」


私は、言葉を失った。 一八五センチの巨体が、まるで空気の抜けた風船のように、その場に崩れ落ちそうになる。 胃の痛み。それは、ただのストレスではなかった。 「佐藤」という人間が、内側から「もっと面白い物語を、自分自身のために書け」と、悲鳴を上げている音だったのだ。


私は、カウンターの下から、あの一冊のノートを取り出した。 第一話から書き留めてきた、この店の「おかしな日常」の記録。


「お客様。……私は、確かに少し、鮮度を失っていたかもしれません」 私は、震える手でノートの表紙を撫でた。 「ですが、私はこの店で、最高に『腐りかけ』で、最高に『熟成』した人々に出会いました。一ポイントに命を懸ける夫人、愛を叫ぶ豆腐、AIのような新人、そして……時間の価値を問い続ける、あなたに」


私は顔を上げ、紳士を真っ直ぐに見据えた。 「私の期限は、私がこの『劇場』の幕を下ろすと決めたその時です。それまでは……たとえ胃が千切れても、私はこの場所で、新しい脚本を書き続ける。それが、私という素材の、一番美味しい食べ方なのです」


紳士は、一瞬だけ目を見開き、そして、今日一番の深い笑みを浮かべた。


「……よかろう。合格だ、佐藤店長」


紳士は懐から、一通の小さな封筒を取り出し、カウンターに置いた。 「これは、私からの『予約』だ。二〇二八年のサバ缶を開ける時……私は、より熟成した君の新作落語を聞きたい。それまで、君の鮮度を、私が保証してやろう」



紳士がカウンターに置いた一通の封筒。 私は一八五センチの長い指を震わせながら、それを手に取った。 中には、一枚のカード。そこには流麗な筆致で、一つの日付と、この街に新しくできる劇場の名前、そして『予約席:佐藤店長殿』とだけ書かれていた。


「……お客様。これは、私を客席に招くということでしょうか?」


「いや、違うな。店長、君はまだ気づいていないのか」 紳士は、懐中時計をパチンと閉じ、コートの襟を正した。 「私は君の『管理者』ではない。私は、君の物語の最初の『観客』に過ぎん。……その席は、君が店長という白衣を脱ぎ、一人の表現者として、その劇場の高座に座るための予約だ」


私は息を呑んだ。 一八五センチの視界が、急激に揺らぐ。 スーパーの店長として、客のトラブルを脚本化し、それを心の拠り所にしていた。だが、それはどこか「安全な場所」から他人を眺めているだけの、臆病な逃避でもあったのだ。


「君は、期限を恐れるあまり、自分という商品を棚の奥に隠し続けてきた。だが、熟成には限界がある。発酵と腐敗は紙一重だ。……店長、君の書いたそのノート。それは、この店の売上管理表ではないはずだ。それは、君の魂が、ここではないどこかへ飛び出したがっている証拠ではないかね?」


紳士の言葉は、私の胃の底にある一番重たい(おり)を、鮮やかに掬い上げた。 私は、店内の高い天井を見上げた。 そこには、二十四時間休むことなく働き続ける蛍光灯の列。 一八五センチの私は、常にこの光に照らされ、何者かであるように振る舞ってきた。 だが、心の奥底では、一ポイント夫人の執念や、一条くんの純粋なまでの完璧さに、誰よりも嫉妬していたのかもしれない。彼らは、自分の賞味期限を一切疑わず、その瞬間を全力で「生きて」いたからだ。


「……分かりました。お客様。私は、この予約、確かに承りましょう」


私は、封筒を胸のポケットに深く収めた。 一八五センチの背筋が、今までで一番誇らしく、そしてしなやかに伸びた気がした。 「二〇二八年。サバの缶詰が最高潮に熟成するその時。私は、今よりもずっと『美味しい』人間になって、その席へ向かいます。……もちろん、手土産には、このスーパーで拾い集めた、最高の『笑い』を携えて」


「期待しているよ、佐藤店長。……いや、佐藤先生、かな」


紳士は、満足げに一度だけ頷くと、音もなく自動ドアの方へと歩き出した。 「閉店です」の札が掛かったドアの向こう側には、深夜の街が、星を散りばめたベルベットのように広がっている。


「店長、まだいたんですか? 戸締まり、僕がやっておきますよ」 事務所から、おにぎりの包み紙を丸めた田中が顔を出した。 「……田中くん。私に、期限はあると思うかね?」 「はあ? 意味わかんないっすけど。店長の賞味期限なら、あの真っ白な顔色を見る限り、とっくに切れてるんじゃないっすか?」


田中の容赦ない言葉に、私は思わず吹き出した。 腹の底から、震えるような笑いが込み上げてくる。 胃の痛みは、消えていない。だが、それはもう、不快な圧迫感ではなかった。 それは、新しい物語が生まれるための、産声のような痛快な刺激だった。


私は店長室へ戻り、ノートの新しいページを捲った。 そこには、これまで出会ったすべての人々の顔が、音となって、リズムとなって溢れていた。


タイトルは……『審判員の遺言、あるいは熟成する店長の魂』。


脚本の中の佐藤店長は、ついにスーパーを飛び出し、世界中の賞味期限を「笑い」に書き換える旅に出る。 そんな壮大な結末を書き込みながら、私は、明日から始まる第三週(最終章)に向けて、ペンを強く握りしめた。


一八五センチの私。 色白で、胃が弱くて、少しだけ頭でっかちな私。 私の本当の物語は、この深夜の静寂から、今まさに始まったのだ。


「……さて。明日からは第十四話か。いよいよ、この店の『大掃除』が始まるな」


私は事務所の明かりを消した。 暗闇の中、胸のポケットにある「未来の予約券」が、微かな熱を持って私の鼓動を支えていた。

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