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本日、胃痛につき。〜185センチ店長のバックヤード寄席〜  作者: ジェミラン
第2週:混沌は加速する

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第十二話:バックヤードの出口、あるいは店長の遭難

金曜、午後八時十五分。 スーパー『エブリデイ』の店内は、週末の解放感に満ちた客たちの熱気で溢れていた。だが、その喧騒を一枚の重い防火扉で隔てた先、バックヤードの空気は、湿った静寂と段ボールの匂いに支配されていた。


私、店長・佐藤は、新しく導入された「自動在庫管理システム」のハンディ端末を片手に、バックヤードの最深部へと足を踏み入れていた。 そこは、通称「魔の三番倉庫」。 店舗の増築を繰り返した結果、設計図からも忘れ去られたような歪な空間であり、歴代の店長たちが「判断に迷うもの」を放り込み続けた結果、一種の地層を形成している場所だ。


「……おかしいな。山崎さんの言っていた予備の『お買い得』ポップは、この十五年産ボルドーの空き箱の裏にあるはずだが」


私は端末のライトで暗がりを照らした。 一八五センチの長身は、この迷宮においては致命的な弱点となる。天井からぶら下がる古い配管や、不規則に突き出した棚の角が、執拗に私の額と胃を狙ってくるのだ。


私は身を屈め、蜘蛛の巣をストールのように首に巻きつけながら、蟹のような横歩きで奥へと進んだ。 右手に「十年前のクリスマスのトナカイ(首がもげ、虚空を見上げている)」。 左手に「一昨年の恵方巻キャンペーンで使われた、巨大な方位磁石(針はなぜか南を指したまま動かない)」。


「……やれやれ。これではスーパーの倉庫というより、歴史のゴミ捨て場だ」


私は自嘲気味に呟き、さらに狭い隙間へと体を滑り込ませた。 一八五センチの骨組みが、ミシミシと悲鳴を上げる。 だが、目的のポップは見当たらない。代わりに目に入ってくるのは、「平成二十年・大創業祭」ののぼり旗や、「たまご一パック一円」という、今では考えられない狂乱の時代の価格表だ。


ふと、足を止める。 私は、自分が今、どの角をいくつ曲がってきたのかを思い出そうとした。 振り返れば、そこには天井まで積み上げられた、重力を無視したような段ボールの壁。 前を見れば、そこには「新春大売出し」の文字が書かれた、色あせた横断幕がカーテンのように垂れ下がっている。


私は、防火扉の方角へ戻ろうと、体を反転させた。 だが、そこに道はなかった。 あるのは、いつの間にか崩れ落ちたのか、あるいは最初からそこにあったのか、私の腰の高さまで積み上がった「返品用空き缶」の山だけだった。


「……遭難、したかな」


一八五センチ。高い視界。 普段は店内のレジの行列から、万引きの予兆、棚の乱れまで、すべてを神の視点で見渡しているはずの私が、自分の店の「裏側」で、座標を完全に見失った。 これこそ、脚本家としての私が最も恐れていた「舞台袖での迷子」だ。


私は端末を操作して、事務所にいる田中に連絡を取ろうとした。 だが、画面に表示されたのは、無機質で無慈悲な『圏外』の文字。 この三番倉庫は、電波さえも「不良在庫」として貯蔵し、外部への放出を拒んでいるらしい。


「おーい、田中くん! 山崎さーん! 誰かいないか!」


私は声を張り上げた。 だが、その声は吸音性の高い大量の段ボールと、古びた毛布の山に吸い込まれ、一八五センチの孤独を強調するような静寂だけが返ってくる。


私は、その場に崩れ落ちるように腰を下ろした。 膝を抱えると、一八五センチの巨体は驚くほど小さく、惨めにまとまる。 周りを見渡せば、そこには「役目を終えた物語」の残骸が山積みにされていた。 消費期限が切れたわけではないが、時代の賞味期限が切れてしまった演出の数々。


ふと、ライトの光が、埃を被った古い木箱を照らし出した。 その中には、現在の私の胃痛の原因とも言える、「あの男」に繋がるような、奇妙な遺物が眠っていた。



暗闇と埃の匂いの中で、私は膝を抱えて座り込んでいた。 一八五センチの巨体がこうも小さくまとまると、自分自身が「サイズ間違いで返品された大型商品」になったような気分だ。


端末のライトが照らし出した古い木箱。その中に眠っていたのは、色あせた一冊のノートだった。 私は、蜘蛛の巣を払い、その表紙をめくった。


『エブリデイ・日誌 佐藤』


それは、私がこの店の店長に就任した、まさに初日の日誌だった。 そこには、今の私が見れば赤面するほど青臭く、それでいて鋭い、若き日の私のリズムが刻まれていた。


「本日、店長として第一歩。スーパーとは、食卓という名の劇場の楽屋である。客の一人一人が抱える物語に、最高の『サゲ』を用意するのが私の使命だ。胃が痛む。だが、この痛みは期待の鼓動である」


……期待の鼓動、だと? 今の私にとって、胃痛は単なる「業務上の職業病」であり、ストレスのバロメーターに過ぎない。いつの間にか私は、物語を「楽しむ」側から、物語を「処理する」側に回ってしまっていたのではないか。


その時だ。木箱の奥、さらに暗い隙間から、カサリと音がした。 ネズミか、あるいは私の幻聴か。 私は這うようにしてその隙間に顔を寄せた。一八五センチの体が、隙間に挟まってミシミシと軋む。


「……あ」


隙間の向こう側に、小さな、けれど確かな「光」が見えた。 それは、倉庫の壁に空いた、換気口の隙間から漏れる事務所の明かりだった。 光は、埃の舞う空気の中で一本の筋となり、私の目の前にある「あるもの」を照らし出した。


それは、埃を被った古い手書きのポップだった。 そこには、かつての私が、震える手で精一杯書いたであろう文字が躍っていた。


『店長のおすすめ:真心。プライスレス。……お釣りは笑顔で。』


あまりにベタで、あまりに恥ずかしい。 今の私なら、即座にシュレッダーにかけるような「素人臭い」脚本だ。 だが、そのポップの裏側には、当時のパートさんたち――今はもう引退してしまった山崎さんの前任者や、若い頃の伊藤くんたちが書いた、寄せ書きが残っていた。


『佐藤店長、背が高すぎて雲の上を見てるみたいだけど、頑張って!』 『私たちが、店長の足元を支えますから』


私は、そのポップを胸に抱きしめた。 一八五センチの私の視界は、いつの間にか「高い場所」からの管理ばかりを優先し、一番大切な「足元にある温もり」を見失っていた。 ここが出口だ。 物理的な出口ではなく、私の心が迷い込んだ迷宮の出口が、ここにあったのだ。


私は、渾身の力を込めて、段ボールの壁を押し除けた。 「……ぬんっ!」 一八五センチのリーチをフルに活かし、障害物をなぎ倒し、光の筋が差し込む方へと体をねじ込む。 古びた横断幕を潜り抜け、クリスマスのトナカイの首を飛び越え、私はついに、三番倉庫の重い防火扉の裏側に辿り着いた。


「……開け、胡麻(ゴマ)! いや、特売日!」


扉を力任せに押し開けると、そこには蛍光灯の眩い光と、カップラーメンの匂いが漂う、いつもの事務所があった。


「あ、店長。お帰りなさい。……って、うわっ! ボロボロじゃないっすか! 蜘蛛の巣だらけだし、何を抱えてるんですか、その古臭いポップ」 田中が、驚きで箸を止めてこちらを見ている。


私は、埃を払い、一八五センチの背筋を、今までで一番真っ直ぐに伸ばした。 「田中くん。私は今、自分の『賞味期限』を更新してきたところだよ」


「はあ? また店長の脚本病が重症化した……」


私は笑って、その古いポップを店長室のデスクの一番目立つ場所に置いた。 胃の痛みは消えていない。だが、その痛みはどこか、舞台の幕が上がる直前の「心地よい緊張」に近いものに変わっていた。


私はノートを開き、新しいページにペンを走らせる。


タイトルは……『倉庫の遭難者、あるいは真心という名の在庫(ストック)』。


脚本の中の佐藤店長は、倉庫の中で迷子の神様に出会い、神様に「特売チラシ」の書き方を教えることになる。 そんな荒唐無稽な物語を書きながら、私は確信していた。 一八五センチの私の視界は、明日からもっと広くなる。 地面に咲く小さな喜びも、棚の隅にある小さな物語も、すべてを拾い上げることができるはずだ。


「……さて。田中くん、残りのポップを書くぞ。今夜は徹夜だ。最高のリズムでな!」


スーパー『エブリデイ』の夜は更けていく。 一八五センチの店長の影が、事務所の壁に長く、力強く伸びていた。

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