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本日、胃痛につき。〜185センチ店長のバックヤード寄席〜  作者: ジェミラン
第2週:混沌は加速する

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第十一話:深夜の賞味期限・審判員

木曜、午後九時四十五分。 閉店間際のスーパーは、まるで祭りのあとの静寂と、残された者たちの熱気が混ざり合う、奇妙な時間帯だ。


私、店長・佐藤は、一八五センチの長身を折り曲げ、値引きシールの貼り残しがないか確認していた。そこへ、あの「足音」が響いた。 コツ、コツ、コツ……。 規則正しく、一分の狂いもないメトロノームのような歩調。


「店長。また会ったな。……時間の番人(ウォッチマン)として、問いたいことがある」


振り返ると、そこには三つ揃えのスーツを完璧に着こなした、あの初老の紳士が立っていた。 手には、前回の懐中時計。そしてカウンターに置かれたのは、一本の「缶詰」――サバの味噌煮であった。


「……お久しぶりでございます。賞味期限の魔術師、もとい、時間の審判員殿。今夜はサバでございますか」 私は一八五センチの背筋を伸ばし、受けて立つ構えをとった。胃の奥で、小さな火花が散る。


「店長。君は以前、牛乳の期限を『熟成のピーク』と呼んだ。私はその言葉を信じ、最高のカフェオレを楽しんだよ。……だが、今夜の議題は、この『賞味期限:二〇二八年』だ」


紳士は、缶詰の底に印字された数字を、検察官のように指し示した。 「二〇二八年。今から二年以上も先だ。……店長、君に問いたい。二年後の私は、果たしてサバの味噌煮を欲しているだろうか? 二年後の世界は、このサバを笑って受け入れるだろうか? この長すぎる『猶予』は、食に対する緊張感を欠くとは思わないかね」


……なんと。 「期限が短すぎる」と怒っていた男が、今度は「長すぎる」ことに哲学的な疑義を呈してきたのだ。


「お客様。サバの缶詰にとって、二年という歳月は『眠り』でございます」 私は、喉を整え、低く響く声を出した。 「この缶の中で、サバは大豆の味噌と出会い、時間をかけてゆっくりと語り合い、骨まで解け合うような深い絆を築き上げている最中なのです。二〇二八年という数字は、いわば『結婚記念日』のようなもの。それまで、彼は静かに時を待っているのです」


「結婚記念日だと? 冗談ではない。私は、今日、この瞬間の『真実』が知りたいのだ。このサバは今、缶の中で何を考えている? 二年後の自分を、どう夢見ている? ……店長、君ならこの『空白の二年間』をどう演出する」


紳士の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。 彼は、スーパーの商品一つ一つに、人生という名の重みを見出そうとしている。 私は一八五センチの視界を巡らせ、店内に流れるクラシック音楽に耳を澄ませた。


「……承知いたしました。それでは、このサバの『二年の旅路』を、今ここで証明してみせましょう」


私は、サバの缶詰を恭しく手に取った。 さて、ここからが店長・佐藤の、時間をも欺く「脚本家」としての正念場である。


「……お客様。このサバの缶詰に刻まれた『二〇二八年』という数字。これは確かに、気の遠くなるような未来に見えるかもしれません」


私は一八五センチの長い指先で、冷たい金属の円筒をゆっくりと回した。 「ですが、想像してみてください。二年の月日とは、このサバが『ただの食材』から『人生の保険』へと昇華するために必要な、沈黙の修行期間なのでございます」


「保険だと?」 紳士は片方の眉を上げ、懐中時計の鎖を指に絡めた。


「左様。たとえば、二〇二八年の冬。お客様がふと、人生に少しだけ疲れ、外は冷たい雨が降っている夜を想像してください。買い物に出るのも億劫で、冷蔵庫も空っぽ。……そんな時、棚の奥でじっと出番を待っていたこのサバと、目が合うのです」


私は、そこにあるはずのない棚を指し示すように、虚空に手をかざした。 落語の「仕草」だ。


「彼は言います。『旦那、お久しぶりです。私は二年前から、今日この日のために、味噌のコクを深め、脂を馴染ませて待っておりました。今日、あなたが私を必要とする瞬間のために、私は二年間、呼吸を止めていたのです』と。……お客様、これは単なる賞味期限ではありません。二年後のあなたへ宛てた、このサバからの『予約席』なのです」


紳士の表情から、険しさが消えた。代わりに、遠い未来を夢想するような、どこか柔和な光が宿る。


「……予約席。私が二歳、年を重ねた時のための、安らぎの予約か」


「そうでございます。二年前の自分が、二年後の自分を救う。このサバを今買うということは、未来の自分へ『贈り物』を届けるという、時空を超えた演出なのでございます。……今すぐ食べる必要はございません。むしろ、この『時間の重み』を寝かせることこそが、真の贅沢ではないでしょうか」


紳士は、サバの缶詰を再び手に取り、その重みを確かめるように手のひらで転がした。 「……店長。君は相変わらず、商品の原価ではなく『情景の原価』で商売をする男だな」


「恐縮でございます。脚本家としては、ハッピーエンドの伏線は早めに張っておきたい性分でして」


紳士は、パチンと懐中時計を閉じた。 「よかろう。二〇二八年の冬、私がこのサバと対面する時、君のこの『口上』を思い出させてもらおう。……もし味が落ちていたら、その時はまた、時間の不始末を問いに来るぞ」


「承知いたしました。その時は、最高級の梅干しを添えて、私がお詫びの口上を申し上げます」


紳士は満足げに頷き、サバの缶詰をカゴに入れ、ゆっくりとした足取りでレジへと向かった。 私はその背中を、一八五センチの視界で見送った。 深夜のスーパー。 蛍光灯の下、売れ残った商品たちが、それぞれ自分たちの「出番」を待って静かに息を潜めている。


「店長、またあのおじいさん、納得して帰っちゃいましたね」 レジを打ち終えた田中が、不思議そうにこちらを見る。 「あぁ。彼はただ、自分の買ったものが『無駄』ではないという証明が欲しかっただけなんだよ」


「でも、二〇二八年って……店長、その時まだここで働いてるんすか?」


「……田中くん。それを考えるのは、脚本の範疇を超えているよ。私の胃が、そこまで持つかどうかは神のみぞ知るだ」


私は苦笑いし、店長室へ戻ってノートを開いた。 胃の痛みは、波が引くように静まっていた。 夜の静寂の中で、ペンの音だけがリズムよく響く。


タイトルは……『二〇二八年の約束、あるいはサバの冬ごもり』。


脚本の中の佐藤店長は、賞味期限が「一万年後」の缶詰を売りつけられ、人類滅亡後の地球でたった一人の客を待っている。 そんなシュールな物語を書きながら、私は確信していた。 物にはすべて、期限がある。 けれど、それを誰かに手渡す瞬間の「言葉」には、期限などないのだと。

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