第十話:迷子の大人たち
火曜、午後三時。 店内には、まどろむような午後の光が差し込み、スピーカーからは微かな音量で『イパネマの娘』が流れている。 平和だ。あまりに平和すぎて、私の胃が「何か来るぞ」と警鐘を鳴らしている。
私、店長・佐藤は、一八五センチの視点から店内を巡回していた。 すると、精肉コーナーと鮮魚コーナーの中間地点、いわゆる「生ものの交差点」で、一人の初老の男性が立ち尽くしているのが見えた。 手には買い物カゴ。中には、なぜか「使い捨ての割り箸(一袋)」と「パイプ洗浄剤」だけが入っている。
男性は、まるで広大な砂漠の真ん中に放り出された旅人のように、茫然とした表情で天井を見上げていた。
「……失礼ですが、お客様。何か、お探しでしょうか?」 私が一八五センチの影を落とすと、男性はハッとして私を見た。その瞳は、深海のように澄み渡り、そして何も映していなかった。
「……店長さん。私はね、ここに来た理由を……今、この瞬間に、完全に紛失してしまったんだよ」
紛失。 財布でも、鍵でもなく、己の「行動原理」を失ったという告白。 私は、脚本家としてのインデックスを脳内でめくる。 これは単なる物忘れではない。スーパーという場所が持つ、独特の「ゲシュタルト崩壊」だ。
「……よくあることでございます、お客様。当店の棚の配置は、時として人の記憶を書き換える魔力を持っておりますので」 私は、落語の導入のように穏やかに語りかけた。 「ちなみに、家を出る際、奥様やご家族から何か言伝はございませんでしたか?」
「それがだね……。妻からは『今日の夜は、あれにするから』と言われたんだ。『あれ』だよ、店長。私はその『あれ』を具現化するためにここへ来たはずなのだが……気がついたら、なぜかパイプ洗浄剤を握っていたんだ」
あれ。 日本における、最も広義で、最も難解な代名詞。 私は男性のカゴの中を分析する。 割り箸と、パイプ洗浄剤。 ……共通点がない。いや、強引に結びつけるなら「詰まりを解消する」ということか。
「……なるほど。『あれ』の正体を探るべく、店内を少しご一緒しましょうか。一八五センチの私から見える景色は、案外、記憶の呼び水になるかもしれません」
私と男性は、ゆっくりと「お豆腐コーナー」へと向かった。 すると、そこにはもう一人の「迷子」がいた。 三十代半ばと思われる、パリッとしたスーツ姿の女性。 彼女は、絹ごし豆腐のパックを凝視したまま、彫像のように動かない。
「……お客様。そちらの豆腐、何か不備でもございましたか?」 「……いえ。そうじゃないんです」 女性は、震える声で答えた。 「私、プロジェクトの資料を買い足しに来たはずなのに……なぜ、豆腐を三丁もカゴに入れているのか、自分でも説明がつかないんです。私のキャリアは、豆腐でできているのでしょうか?」
迷子が、二人になった。 一人は「あれ」を失い、一人は「自分」を豆腐に投影している。
「店長、どうなってるんすか、これ。今日、磁場か何か狂ってます?」 品出し中の田中が、怯えた顔で近寄ってくる。 「田中くん、これは磁場ではない。スーパーの『魔の時間帯』の仕業だ。人は、棚の間を三往復すると、自分が何を買いに来たかではなく、自分が誰であったかさえ怪しくなることがあるんだよ」
私は、二人の大人の迷子を従え、店内の中心部へと歩を進めた。 一八五センチの私の背中が、彼らにとっては砂漠の灯台のように見えているに違いない。
「いいですか、お二人とも。記憶とは、パズルのようなものです。まずは、お二人が今日、何時に起きて、何を考えたか。そこから紐解いていきましょう」
だが、その時。 背後の冷凍食品コーナーから、さらに「第三の迷子」の叫び声が響いた。 「……ない! 私の『昨日』が、どこにもないのよ!」
スーパー『エブリデイ』。 午後の穏やかな静寂は、いつの間にか「自分を見失った大人たち」の叫びが交差する、奇妙な迷宮へと変貌を遂げようとしていた。
「……ない! 私の『昨日』が、どこにもないのよ!」 冷凍食品コーナーで叫んでいたのは、近所に住む常連の主婦、山下さんだった。 彼女は「さぬきうどん(五食入り)」の袋を抱きしめたまま、霜の降りたガラスケースの前で震えていた。
「山下さん、落ち着いてください。一八五センチの私が来ましたよ。……昨日、何があったんですか?」 「店長……私、昨日の晩ごはん、何を作ったか思い出せないの。思い出せないってことは、私の昨日は存在しなかったことにならない? 私、一日分、損してないかしら?」
迷子が三人。 「目的」を失った紳士、「キャリア」を豆腐に投影した女性、そして「昨日」を失った主婦。 私は、胃の奥で小さく鳴った音を聞きながら、脚本家としてのペンを脳内で走らせた。この三人の迷走には、一つの共通した「リズム」がある。
「皆様、お聞きなさい」 私は、レジ横の踏み台にひょいと乗り、一八五センチの身長を二メートル近くまで嵩上げした。見下ろす視界には、不安げな三つの顔。
「ここはスーパー『エブリデイ』。日常のすべてが集まる場所です。だからこそ、情報の洪水に飲まれ、ふと己の『座標』を見失うのは、無理からぬこと。ですが、ご安心を。答えはすべて、皆様のカゴの中に、あるいはその手の中に、すでに提示されているのです」
私はまず、紳士の「パイプ洗浄剤」を指差した。 「お客様。『あれ』の正体は、パイプではございません。その隣にある『割り箸』です。割り箸が必要な夕食……。そして、洗浄剤が必要な場所……。奥様は今日、台所の大掃除をされていたのではないですか?」 「……あっ! そうだ! 妻は掃除に熱中するから、今日は『出前』にするから、割り箸だけ買ってきて、と言われたんだ! 洗浄剤は、それを見て私が気を利かせたんだ!」
紳士の目が、パッと輝いた。座標の復元、一件。
「次に、豆腐のキャリアウーマンさん。あなたはプロジェクトに行き詰まっている。真っ白で、柔らかくて、形を変えやすい豆腐。……あなたが求めているのは、資料ではなく、その豆腐のような『柔軟な発想』、あるいは、ただ単に『冷たくて喉越しの良い癒やし』ではないでしょうか?」 「……癒やし。そう、私、昨夜から一睡もしてなくて。豆腐……冷奴が食べたかったんだわ。資料なんて、会社に腐るほどあるのに」 女性の肩から、スッと力が抜けた。座標の復元、二件。
「そして、山下さん」 私は、うどんを抱える主婦に向き直った。 「思い出せないのは、昨日が幸せだった証拠です。本当に辛い昨日は、嫌でもこびりついて離れないもの。うどんを抱えたあなたの手が、昨日も家族に温かい食事を出したことを覚えています。昨日は消えたのではありません。あなたの血肉となって、今日を支えているのです」
山下さんは、うどんの袋をまじまじと見つめ、「……そうね。私、昨日も笑ってた気がするわ」と小さく微笑んだ。
三人の迷子たちは、それぞれの「現実」という名のレジへと向かっていった。 私は踏み台から降り、一八五センチの日常へと戻る。
「店長、マジですげえっすね。人生相談所でも開けますよ」 田中が感心したように、空いたカゴを片付けている。 「よせ。私はただ、彼らの物語の『ミッシングリンク』を繋いだだけだ。……さて、次は私の番だな」 「え、店長も迷子っすか?」
「あぁ。私はさっきから、自分がどこに『特売のポップ』を置いたか、完全に忘れてしまっているんだ。……一八五センチあっても、自分の足元だけは見えないものだね」
私は苦笑いしながら、店長室へと戻り、ノートを開いた。 胃の痛みは、温かいお茶を飲んだ後のように、穏やかに引いていた。
タイトルは……『座標を失くしたカゴ、あるいは白昼のレム睡眠』。
脚本の中の佐藤店長は、店ごと迷子になってしまい、気がつくと火星で営業している。 そんな馬鹿げた物語を書きながら、私は確信していた。 明日もまた、誰かがこの店で自分を失い、そしてほんの少しだけ、新しい自分を見つけて帰っていくのだ。




