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本日、胃痛につき。〜185センチ店長のバックヤード寄席〜  作者: ジェミラン
第1週:現場は戦場、店長は中間管理職

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第一話:月曜の『1ポイント夫人』

週の始まり、月曜日。 スーパー『エブリデイ』の朝は、シャッターが上がる金属音と共に、戦いの火蓋が切って落とされる。


「おはようございます、いらっしゃいませ」 私は自動ドアの傍らに立ち、腰を折り曲げて頭を下げる。身長一八五センチ。この色白でひょろ長い体が、深くお辞儀をすると、まるで巨大な折りたたみナイフが閉じるようだ。


「店長、今日も顔色が真っ白ですね。豆腐コーナーの在庫と間違えられちゃいますよ」 レジの準備をしていた大学生バイトの田中が、クスクスと笑いながら声をかけてくる。 「田中くん、軽口を叩く暇があるなら、レジ袋の補充を。それから、その茶髪。昨日より三ミリほど明るくなっていないか? 校則ならぬ店則違反だぞ」 「へいへい。店長、言葉のリズムだけは相変わらずキレキレっすね」


そんなやり取りを交わしながら、私は店内のパトロールを開始する。 朝一番の空気は、まだ少し冷えていて、野菜たちの呼吸が聞こえてくるようだ。鮮やかな緑のほうれん草、土の香りを纏った泥付きゴボウ、そして宝石のように並ぶ真っ赤な林檎。陳列棚の乱れは、心の乱れ。私は一ミリの狂いもなく、商品の面を揃えていく。


しかし、その平穏は、わずか五分で破られた。


「納得いかない。いかないわ。私の計算、狂ってる!」


レジの方から、妙に響く、それでいて粘り気のある声が聞こえてきた。私は背筋を伸ばし、首をクレーンのように伸ばして現場を確認する。 そこにいたのは、全身を鮮やかな紫色のコーディネートで固めた、通称「一ポイント夫人」だ。彼女は我が店の常連であり、同時に、一ポイントの誤差も許さない「数字の鬼」でもある。


「どうなさいました、お客様」 私はスルスルと人混みを縫い、夫人の前で足を止めた。一八五センチの私がそのまま立てば、彼女を完全な日陰に入れてしまう。私は膝を柔らかく使い、視線を彼女の眉間のあたりに合わせた。


「あら、店長さん。いいところに。聞いてもちょうだい、この不条理。昨日買った卵は百九十八円。今日買った豆腐は百二円。足せばぴったり三百円。当店のポイントは二百円で一点。なら、合わせて一点。それなのに、レシートには『本日付与:0』。これは詐欺よ、電子的な窃盗よ、あるいはレジの反抗期かしら?」


夫人の言葉は、淀みがない。 まるで稽古を積んだ演者のように、言葉の語尾が跳ねている。


「奥様、まずは深呼吸を。お気持ちは痛いほど分かります。九百九十九ポイントまで溜まったあとの『あと一点』は、フルマラソンのゴール直前で靴紐が解けるような絶望感でしょう」 「そうなのよ! あと一点で、五百円のクーポンが出る。今日、私はそのクーポンで、少し高いお出汁を買うつもりだったのよ」


私は夫人が差し出したレシートと、その横に置かれたカードを手に取った。 指先を滑らせ、数字の列をスキャンする。 卵、百九十八円。豆腐、百二円。 計算は合っている。レジが壊れているわけでもない。


私は、夫人がカウンターに置いた「カード」に目をやった。 そこには、見慣れた我が店のロゴ……によく似た、けれど決定的に違う、青い鳥のマークが描かれていた。


「奥様……。大変申し上げにくいのですが」 私は、喉の奥で言葉を転がす。落語のサゲ(落ち)に向かうときのような、緊張と緩和のバランスを整えながら。 「このカード、お隣の駅にある『スーパー・ブルースカイ』さんのものではございませんか?」


静寂が、レジ周辺を包み込んだ。 夫人の動きが止まる。紫色の帽子が、わずかに震えた。 しかし、彼女は並の客ではなかった。


「……それがどうしたっていうの? 同じスーパー、同じ食材、同じ一ポイント。空の青さと、この店の白。混ぜれば綺麗なパステルカラーじゃない。共通ポイントという言葉を知らないの?」


無茶苦茶だ。けれど、その強弁には、不思議と人を惹きつけるリズムがあった。 私は、店長としての正論と、元落研としての「乗っかりたい欲求」の間で揺れる。


「あいにく当店とブルースカイさんは、パステルカラーになるほど仲睦まじい関係ではございませんで。いわば、赤の他人、あるいは宿命のライバル。他校の学生証で、うちの試験は受けられないのと同じでございます」


「いいえ、認めたくないわ。私の財布の中のビッグデータが、この一点を欲しているのよ!」


夫人は引き下がらない。 後ろには、ジリジリとした視線を送る他のお客様たちの列。 店長・佐藤、一八五センチの巨体。 この窮地を、いかにして「笑い」と「納得」で切り抜けるか。


私の頭の中で、月曜朝の心理戦が、加速していく。


レジ周辺の空気は、まさに一触即発の茹で上がった鍋のようだった。 夫人の「他店のカードでもポイントを付けろ」という理不尽な要求。背後に並ぶ客たちの、無言の圧力。「早くしてくれ」という時計の針の音。


私は、一八五センチの体をさらに数センチ折り曲げ、夫人の持つ「青い鳥」のカードを、まるで国宝でも扱うかのようにうやうやしく指し示した。


「奥様、お言葉ですが。このブルースカイさんのカード、実に見事な使い込み、いや、使いこなしですね。端々が擦り切れているのは、奥様がこの街の経済を、その細い指先で回してこられた(あかし)でございます」 「……あら、分かる? この傷は、去年の大売り出しで、タイムセールの鮭を勝ち取ったときの名誉の負傷よ」 夫人の声が、わずかに揺れた。虚勢の中に、少しばかりの誇らしさが混じる。


私は、ここぞとばかりに言葉のアクセントを強めた。 「その誇り高き『青い鳥』を、我が『エブリデイ』の無機質なレジに読み込ませるなど、言ってみれば、名馬に農耕用の鞍を置くようなもの。鳥は空へ、卵は巣へ。そして、ポイントはそれぞれの聖域へ。それが、この街の調和というものではございませんか?」


「調和、ねぇ……。でも店長、私の『九百九十九』はどうなるのよ。このままじゃ、今夜のお出汁が買えない。お出汁がなければ、我が家の煮物は完成しない。それはつまり、家庭崩壊の序曲よ」


家庭崩壊。一点のポイントから、ずいぶんと壮大な話に飛躍したものだ。 私は、レジの横に置かれた「本日のおすすめ」のポップに目をやった。 そこには、私が今朝、リズムを整えて書き上げたばかりの文句がある。


『月曜の朝は、心に余裕と、もう一品。小松菜、一束、九十八円』


「奥様。崩壊を食い止める『(くさび)』は、意外と身近にあるものです。ほら、あちらを。本日、朝採れの小松菜が、一束九十八円。これを一束、追加されるのはいかがでしょう?」 「小松菜? 今、お出汁の話をしてるのよ?」 「左様。ですが、この小松菜をお買い上げいただければ、お会計は三百九十八円。当店のポイントカードをお出しいただければ、ちょうど二ポイント。端数の余りも、わずか二円。これほど美しい数字の収まりが、他にあるでしょうか?」


夫人の瞳が、計算機のように高速で回転し始めた。 九百九十九に、二を足す。 千一ポイント。 「……千を、超えるわね」 「超えます。大台突破。お出汁どころか、お買い物券でお釣り……は出ませんが、心にゆとりが生まれます。ブルースカイさんのカードは、次回の『鮭の日』まで大切に温めておかれては?」


夫人は、ハッと息を呑んだ。 彼女にとって、ポイントとは単なる値引きではない。数字を完璧にコントロールしたという「勝利の記録」なのだ。 私はその自尊心を、優しく、かつリズミカルに撫でてやる。


「さあ、田中くん。奥様を野菜コーナーの特等席へ。一番、筋の通った、男前の小松菜をお持ちして」 「へいっ、小松菜一丁、お待たせしました!」 空気を読んだ田中が、鮮やかな手つきで小松菜をレジに持ってきた。


夫人は、しばらく小松菜と私の顔を交互に見ていたが、やがてフッと口角を上げた。 「……負けたわ。店長さんのその、無駄に長い背丈と、お喋りに」 「光栄でございます」


レジ袋に小松菜が収まり、夫人のスマホ画面には、ついに念願の「一〇〇一」という数字が躍った。 彼女は満足げに、紫色のストールを翻して去っていく。去り際、自動ドアの前で一度だけ振り返り、 「店長、次は『ブルースカイ』で会いましょう。私、あっちでも暴れるつもりだから」 と、物騒な予告を残して。


嵐が去ったレジに、再び月曜の穏やかな(といっても忙しいことに変わりはないが)日常が戻ってきた。


「店長、お見事。心理戦っていうか、ただの言いくるめっすね」 田中がニヤニヤしながら、次の客のレジを打つ。 「言いくるめるのではない。納得していただくんだ。言葉にはリズムが必要なんだよ、田中くん。不協和音を、心地よい旋律に変える。それが接客業の醍醐味だ」


私は白衣の襟を正し、再び店内のパトロールへと戻る。 背筋を伸ばし、一八五センチの視界から売り場を眺めれば、まだ見ぬトラブルの種が、あちこちで芽吹こうとしているのが見える。 豆腐コーナーでは、補充中の学生たちが、またコソコソと私語に耽っている。


さて、次はあっちの「二重奏」を片付けるとするか。 私の胃は少しだけ痛んだが、頭の中では、次の物語の「サゲ」が、小気味よい拍子と共に形を成し始めていた。

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