雨降って地ぬかるむ Aパート
「……それじゃあ、もう元には戻らないんですか?」
ふわふわと、光のない世界。たゆたう水の中を漂っている。沈むでもなく、浮かぶでもなく、ただ、ふわふわと。
音も匂いも、全部が遠い。世界が、眠っているみたいだった。
遠くで誰かが喋っている。この声は……糸尾?
仰向けに浮かぶ私が、少しずつ浮上していく。水面が近づいているのか、浮かぶ先がだんだん明るくなってきた。
「少なくとも私には無理ね。諦めなさい」
「諦めるって、そんな……! 久具津に何て言えば……」
話している相手は、保健の山本先生かな。てか、そんな不穏な話、私に関係あるの?
そして私は、ついに水面へと浮上した。
「う……こ、ここは?」
かすむ視界に映るのは、白い天井と、私を囲むように吊るされた白いカーテン。そうか……ここは保健室か。
ベッドで毛布を掛けられて寝ていた私が目を覚ました事に気づいた糸尾が、枕元までやってきた。
「久具津、大丈夫か? 痛いところはない?」
妙に優しい声。夢うつつで聞こえたあの会話が、頭の中で反響する。
「えっと、うん。たぶん大丈夫……だと思う」
聞きたいような、聞きたくないような……私はゆっくりと身を起こす。
「そうか。山本先生も、脳震盪だけで他に異常はないって。少し休んだら帰っていいそうだ」
本当に? ちらりと糸尾の肩越しに、デスクからこちらを見ていた山本先生に目をやると、小さく頷いていた。そして――
「さて、久具津さんも目覚めたし、私は職員室に戻るよ。少し休んだら帰りたまえ。……糸尾くん、エッチなことはするなよ?」
「あ、それいいですね」
「え……? コホン。そっか、ほどほどにな。では気をつけてお帰り」
笑いながら手をひらひらと振って、保健室を出ていく山本先生。いや待って、私、貞操の危機なんですけど!?
「さて、冗談はさておき……」
「冗談? 本当に冗談だよね!?」
「当たり前だろ。ところで久具津、何があったか覚えてるか?」
「……倒れたってことは分かる。何かが顔に当たった感覚しか覚えてないよ」
頬に手を当て擦ると、少しだけ痛みが残っていた。
「サッカーボールだよ」
「え?」
「誰が蹴ったか分からないサッカーボールが当たったんだ」
そっか、あの衝撃はサッカーボールだったのか。しかも、誰が蹴ったか分からない?
「先に謝っておく。すまん。あれはうちの部のボールだ。蹴ったのはサッカー部の誰かだと思う」
馬鹿だな。お前の責任じゃないだろうに。変なところで真面目なんだな……でも、それが糸尾らしいのかも。胸の奥にじんわりとした熱が広がって、なんだか安心した。――倒れる瞬間に見えた糸尾の顔。あんな顔はもう見たくない。
「大丈夫だよ。あれはただの事故さ。部外者がのこのこグラウンドに入ってきたんだ。仕方ないよ」
「そう言ってもらえると助かる。でも、蹴った本人が分かったら謝罪はさせる。それでいいか?」
「もういいって言ってるのに……分かったよ。ところで、QPは?」
「ああ、白井なら教室にお前のカバンを取りに行ったぞ。しばらくしたら戻ってくるんじゃないか?」
QPにも心配かけちゃったかな。あとで謝ろう。……そっか、糸尾と二人きりか。今なら、さっきからモヤモヤしてる話を聞けるかも。
「あ、あの……」
コンコン。
糸尾にさっきの不穏な会話のことを聞こうとした瞬間、ノックの音とともに引き戸が開き、高橋が入ってきた。それまで、ほのぼのとした保健室の空気が一変した。
「お、久具津さん、気がついたんだね。よかった。ちょっと糸尾を借りていくよ。糸尾、いいか?」
険しい顔で入室して来た高橋だが、私の顔を見て一瞬安堵の笑みを浮かべた後、真剣な表情で糸尾に声をかける。なんか、ピリピリしてる?
「分かった、行こう。久具津、白井さんが戻ったら今日は無理しないで帰れよ。じゃあな」
「あ……」
手を伸ばす私に背を向けて、二人は保健室から去っていった。静かな保健室に、ピシャリと引き戸の閉まる音だけが響き渡る。
あの、私、聞きたいことが……
伸ばした手が、パサリと掛け毛布の上に力なく落ちた。
「聞きそびれちゃった……」




