34.ぜんぶ秘密基地のせいだ
その日の朝は、空一面が薄い雲に覆われていました。
どんよりと重たい気配が、屋根の上にまで垂れこめているようでした。
ジメッとした空気が肌にまとわりついてきます。
部屋に置いてある水桶の残りが少なくなっていることに気づいて、水瓶へと向かったところ、両手に桶を持ったザンマがいました。
どうやら井戸まで水を汲みに行ってくれた帰りのようです。
インゲニウムがないと神殿騎士になれないと伝えたあの日以来、なんだかちょっと気まずくて、ほとんど会話をしない日が続いていました。
いつまでもこのままではいけない。
そう思った私は、小さく頭を下げてお礼を伝えます。
「お疲れさま。いつもありがとうございます」
ザンマはその声で私に気がついたらしく、ハッとした表情を見せます。
「あっ、エリシア。ううん、気にしないで。これが僕の仕事だから」
幾分かマシになった彼の表情を見て、私は少しだけホッとしました。
水がたっぷりと入った重たい桶を持ち上げているザンマを手伝って、水瓶に中身を移していきます。
「……ありがとう」
「いいえ。これくらい、なんでもありません」
特別な会話は何もありません。
ですが、なんとなく彼の隣にいると心が安らぎます。
水を移し終わったあと、私は静かにザンマの袖を引っ張りました。
彼ともう少し話をしたいと思ったから。
「少し、休憩しませんか?」
ちょっとだけ驚いた表情を見せたザンマでしたが、小さく頷いて私についてきてくれました。
教会の広い中庭の、木々に囲まれた陰。
建物の中からは死角になっているこの場所は、こっそり休憩するときの秘密基地。
「ここがエリシアの特別な場所なんだね」
「そうですよ。ここを知っているのは私とあなただけ、誰にも言ってはいけませんからね」
「修道女が隠し事なんてしていいの?」
「いいんですよ。修道女だって人間です。こんな小さな隠し事くらい、神さまも目をつぶってくださいます」
私が口をとがらせて言うと、目を丸くしたザンマがおかしそうにプッと吹き出しました。
「あはっ。エリシアってもっとまじめな人なのかと思ってたよ」
「不真面目だと思われるのも心外ですけど、私は普通ですよ。どこにでもいる普通の、修道女になるしかなかった15歳の娘です」
「選択肢が……なかった?」
ザンマからの問いに、私の心がザラリとしました。
彼に他意がないことは分かっています。
ただ、本当に何も知らないだけ。
「私の両親は敬虔な神の信徒ですから。娘を修道女として神に仕えさせることこそが、娘にとって一番の幸福だと信じてるんです」
「エリシアは、修道女になりたくなかったの?」
そんな無垢な質問に、思わず「ふふっ」と苦笑が漏れます。
そのせいか、つい意地悪なことを言ってしまいました。
それが大きな過ちでした。
普段はしっかりとせき止めているはずの私の中の澱が、少しだけ漏れ出してしまったのです。
「なりたいとか、なりたくないとか、……考えたこともありません。さっき言ったとおり『なるしか選択肢がなかった』のですから。でも、あなた達も似たようなものではないですか」
不意に自分に矛先が向いたことに、「……え?」とザンマが戸惑いを見せます。
「あなた達は教会の庇護のもとで生活を保障される代わりに、将来は神に仕えることが決められているのでしょう? 孤児院で育てられた男子のほとんどは侍者になる、と聞いています」
「………………あ」
ザンマの中でも何かが繋がったようです。
でも、まだまだ。彼は私の置かれている立場を理解していません。
「私は……あなた達が少しうらやましい」
「…………」
黙って話を聞いてくれているザンマに甘えるように、私はこれまで胸に秘めていた思いを口からこぼしました。
「さっきも言いましたが、別に修道女になりたくないというわけではないんです。でも、それしか選択肢がないという現実は……なんだか息苦しく感じるのも本当です」
私の弟には、神殿騎士になるという未来がありえた。
もし彼にインゲニウムが発現していれば、というほんのわずかな可能性ではあったが決してゼロではなかった。
私には絶対にありえない未来。
「修道女になった女の進む先は、修道院長というゴールだけです。多くの者たちは生涯を修道女として過ごします。
でも、あなた達は違うではありませんか。侍者の先には神父から、宣教師となる道もある。もちろん神殿騎士になれる可能性だって。それどころか、平民から司教になった人も――」
息せき切って言葉を発しておきながら、私はふと我に返りました。
2歳も年下の男の子に、何を愚痴っているのだろう。
「ごめんなさい……私」
顔が熱くなって、どんどん恥ずかしくなってきました。
急にこんな話を、八つ当たりのように聞かされて、ザンマはどう思ったでしょう。私のことを嫌いになったでしょうか。面倒な女だと思ったでしょうか。
恥ずかしい。恥ずかしい、恥ずかしい。
その場から逃げ出そうとした私の袖と、今度はザンマが引っ張りました。
「謝らないで。教えてくれてありがとう、エリシア」
「……え?」
まっすぐに私を見つめるザンマの瞳。
なぜでしょう。私はその瞳が別のものに見えました。
この村に来る前、私を助けてくれた紫色のスライムの、無機質な核。
ザンマの瞳の奥で、あのときの核が放っていた光がちらりと揺れた気がしました。
でも、不思議と怖いとは思いませんでした。
むしろ安心感と、頼もしさを感じたのは……、私が不真面目な信徒だからでしょうか。
いいえ。――きっとあのとき私は、神への信仰よりも彼の瞳を信じたのです。
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