兄離れいたしますので、そちらは妹離れをお願いいたします。
私の記憶にある“リアン・ローベルト”は、
誰にでも優しくて正義感が強くて困っている人を見過ごせない、まさにヒロインそのものだった。
まさに王道の愛されヒロイン。
……の、はずだったのに。
「アリアはいつも良い匂いがするね。焼きたてのクッキーみたいな匂い」
「そんな香ばしい匂いはしません。それが本当なら私は今すぐお風呂に行かねばなりません」
くんくんと隙あらば私の匂いを嗅ごうとするリアンを押し退ける。
本当にどうしてこうなってしまったのか。こんな変態じみたことを言うヒロインがどこにいるというの。
私の抵抗など、リアンの力なら簡単に封じ込めてしまえるだろうがあえてしないところをみると本気で嫌がっているのが伝わったようだ。
手を緩めてくれている内に私はリアンの腕の中から逃げ出す。
肌に残るぬくもりがなんだか怖くて、慌てて自分の頬を撫でた。兄妹のはずなのに、心臓が落ち着かないなんて──やっぱりどこかおかしい。
「逃げられちゃった」
「そりゃあ俺でも逃げるよ」
私たちのやり取りをいつものことだとでも思っていそうなルクルの後ろに隠れて、盾にする。
リアンは残念そうに言いながらも顔は笑っていて、楽しげな様子が少しも隠せていない。
これがまた腹立たしい。
こんな私とリアンの日常。
本当に、何がどうバグってこうなったのか。
未だに理解できない。
幼い頃はこれでも良かった。
仲がいい兄妹ね、で許されていた。
しかし、もうその年齢はとうに過ぎたと思う。
いい加減お互い、こんな溺愛状態は卒業すべきだ。
兄妹という関係の仮面の下に、別の何かが芽生えてしまう前に。
「このままでは良くありません」
私は意を決して、リアンに告げる。
「何が良くないのかな?」
「義理の妹をこんなに溺愛しているなんて、兄様の未来のお嫁さんが泣くでしょう! 私は義姉をそんな目に合わせたくはありません!」
「大丈夫だよ。そこらへんはちゃんと”考えてる”から。気にしないでいいんだよ」
リアンの言い方にちょっと引っ掛かりを覚えるものの、反論のため私は言葉を続ける。
なぜか、あの言葉が“もう準備はできている”と聞こえた気がして、背筋に冷たいものが走った。
けれど今は、それよりも自分の意思を貫かなければならない。
「わたっ、私が気にするのです! そろそろ私も相手を見つけねば!!」
「まぁまぁ……そこもちゃんと”考えてる”からそんなに心配しないで」
「な、なんで兄様が私の相手を考えるんですかっ!?」
このままではいけない。
あまり口が上手くない私は簡単に丸め込まれてしまいそうだった。
いけない。
このままだとまた、兄様のペースに呑まれてしまう。
私は、ちゃんと“自分の意思”で立たなければならない。
その時、その場に軽いノックの音が響く。
返事をすれば、ローベルト家に仕える私付きのメイドが声を掛けてきた。
「ご歓談中失礼いたします、お嬢様。お客様がお見えになりまして……いかが致しましょう?」
タイミングが良過ぎると思ったら、どうやら様子を伺ってくれていたようで私が困ったタイミングで助け舟を出してくれたみたいだった。
さすが出来るメイドさん。
「今行きます!」
私は間髪入れずにそれに乗ってメイドへと駆け寄ると最後にリアンたちの方へ向き直り、
「私、そろそろ兄離れいたします!!」
と、堂々と兄に宣戦布告したのだった。
*****
「……あんなこと言ってるけど、良かったの?」
ルクルがアリアが去った後のドアを指差しながら俺に問いかけた。
「ん? 別に構わないよ。俺もそろそろ兄をやめようかなと思っていたところだからね」
そう、別に全然構わない。
兄妹ごっこもなかなか面白かったけれど、そろそろ潮時だろう。
「それってもしかして、さっき姉様に言ってた”考えがある”って話に繋がってきたりする……?」
「…………」
「……やめてよ、その無言。背筋が寒くなる。邪魔はしないってば。手伝いもしないけど」
引き攣った顔のルクルに邪魔したら分かってるよね?と、無言の圧力を与えておく。
ルクルは賢い子だからこれくらいしておけば察してアリアに余計なことは言わないだろう。
「姉様も可哀想に……」
「そうだね。アリアは可哀想だし、だからこそ可愛いよね」
それでも彼女がそう望むなら、形だけでも望みを叶えてあげよう。たとえそれが、檻の中の自由だとしても。
(──俺から逃げられると思ってるなんて、本当にアリアは可愛い)
「ほんと、お手柔らかに頼むよ? 兄様」
「さぁ、それはアリア次第かな。俺が最終手段を使わなくてもいいように祈っといてあげて」
「……祈っとく」
気の毒そうに呟くルクルに、俺は笑いながら頷いた。
(祈ってもいいよ。でも、届くわけないけどね──)