兄が消えた日。
私を見つめるリアンの瞳は相変わらず澄んでいて、どこまでも優しくて──いつもと、なんら変わりは無い。
だけど変わらないその笑顔こそが、何よりも恐ろしかった。
その奥に、私が目を背けてきた“何か”が、確かに潜んでいた。
リアンの心の奥底に沈んでいたそれが今、表に出てこようとしている。
「……お願いだから。閉じ込めないで」
震える声で、それでも懸命に絞り出した言葉だった。
けれど──
「無理だよ」
穏やかすぎるその声音が、逆に絶望を際立たせていた。
「だって、アリアにそばにいてほしいんだから」
「い、いますよ……! 昔からずっと、私は兄様の側に──」
「じゃあこれからは?」
「……っ」
言葉に詰まる。
心の奥を的確に突かれたようで、何も言えなくなってしまった。
「“兄離れ”するんでしょう?」
優しい声。
しかしその意味は、どこまでも鋭い。
私は、
「……」
何も、否定できなかった。
だって本当のことだったから。
私がリアンから離れようとしたのは、れっきとした事実だから。
私のその沈黙をリアンは答えとして受け取ったようだった。
「ごめんね、意地悪するつもりはないんだよ」
少し困ったような表情を浮かべながら、頬に当てていた手を今度は私の頭の上へと運ぶ。
そのまま、まるで幼い子を宥めるかのように優しく撫でた。
「俺も……俺もね、いつまでも“兄”の座にいるつもりはなかったから。丁度いいといえば、そうなんだけどね」
「え……?」
その一言が、胸の奥にじわりと重く沈んだ。
「俺ね、ずっと“兄”なんてやめたかったんだよ、アリア」
リアンから一番聞きたくなかった言葉。
冗談でも言ってほしくなかった。
けれど、ターコイズブルーのその瞳はただ真っ直ぐで、あまりにも綺麗で──今の言葉が冗談なんかではなく本当の事を言っているんだとはっきり語っていて……だからこそ、残酷だった。
「どうして……?」
搾り出すように問う。
答えを聞くのが怖かった。
でも私はこの答えを聞かなければならない。
「単純な理由だよ。ただ単に、その方が都合が良かっただけ」
「都合が……良い……?」
「“兄”でいれば、アリアの側にいられるからね」
瞬間、心臓が跳ねた。
「他の理由じゃ、俺は君のそばにいられない。だから“兄”だった。──それだけの話だよ」
表情も、話し方も、声色も──何一つ、変わっていないのに。
(どうして──こんなにも遠く感じるの)
ずっと一緒にいたはずなのに。
なのに、目の前にいるリアンは知らない誰かみたい。
(胸が苦しい……)
今のリアンは知らない誰かみたいに、遠い。
締め付けられるような胸の痛みに耐えるように私は手を握り込んだ。
「だから──あの王子なんかは大嫌いだよ」
今の今までずっと頭を撫で続けていたリアンの手がピタリと静止する。
「何度消してやろうと思ったことか。……ねぇ知ってた? 俺がこんなにもアイツに対して醜い嫉妬心を抱いてたこと」
誰かに聞かれたら反逆者として捕らえられてしまいそうな物騒な言葉を吐き捨てながら、自虐気味にリアンは笑う。
「……兄様……」
嘘だ、と思いたかった。
けれど、その声には誤魔化しも冗談もなかった。
兄様は今本気で心の内を吐き出している。
「……兄様は、ずっと……我慢してたんですか?」
ようやく絞り出した問いは、まるで私の心そのもののように震えていた。
リアンの表情が少しだけ歪む。
それは、私が初めて見る兄様の姿で恐らく“弱さ”だった。
「そうだよ。ずっとずっと、我慢してた」
リアンは、いつだって完璧な兄様だった。
誰にでも優しくて、義理の妹である私を大切にしてくれる、理想の兄様。
(元ヒロインだった兄様だから。優しくしてくれるのは、当然のことだと、思っていた)
誰にでも優しいのが当然で、私に愛を注いでくれるのも“そういう役割”だからだと──
愚かにもそんなふうに思い込んで、その愛情を当たり前のように享受していた。
──でも違った。
兄様の中にずっと押し込められていた何かが、今、音もなく零れ始めていた。
私、全然わかってなかった。
自分の愚かさにいたたまれなくなる。
「アリアが笑っていれば、それで良かった。何かを欲しがっても、叶えてあげればいい。側にいられるなら……例えこのまま“兄”のままでもって、思ってたんだ」
「……」
兄であったリアンの“兄”としての仮面が剥がれていく。
私は目を逸らせなかった。
「でも──君は、”兄離れ”をしたいと言った」
そこまで言ったところで、リアンの声が、わずかに掠れる。
「──それは、“俺がいらない”って意味だよね?」
(違う……兄様、そんなふうに受け取らないで。私は──私は……)
心の中では何度も叫んでいた。
この人を、こんなふうに傷つけたいわけじゃなかったのに──!
「俺ね、アリアが他の誰かに手を引かれる未来が、何より怖いんだ」
私はどんな表情をしていたのだろうか、分からないけれどそれはきっと酷い表情だったのだろう。
そんな私を見てリアンは、悲しそうに笑った。
そんな表情をするのを、私は初めて見た。
「例えそれが幸せな未来であっても。アリアが笑っている相手が自分ではないのなら……絶対に、許せないんだよ」
その言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さった。
息が詰まるほどに強く、熱を孕んだ想いに、思考が追いつかない。
それは──愛の形をした狂気だった。
「だからもう、優しい“兄”でいるのはやめた」
私は、ただ兄様の──いえ、もう“兄様”ではなくなろうとしているこの人の瞳を見つめ返すことしかできなかった。
「君が“家族”を捨てるのなら──
俺も“兄”を捨てて、君を手に入れるよ」
目の前の兄様が、もう兄様ではないのだと──本能が告げていた。




