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翻訳作業----苦闘の日々

デヴァーナーガリー文字の基礎を押さえたアニヤは、いよいよ本格的な翻訳作業に取り掛かった。まず手始めに選んだのは、太宰治の『斜陽』だった。


『斜陽』の語り手である「かず子」の言葉——それは非常に繊細で、複雑な女性の内面を表現していた。原文の一節を彼女はじっと見つめる。


「私は、いまが、苦しい。でも、こうして生きていることが、なんだか恥ずかしいような気がするのです」


これをヒンディー語で、しかも女性語尾を使ってどう表現すべきか。アニヤは考え込んだ。単に意味を伝えるだけでなく、かず子の内なる苦悩と繊細さを、この土地の女性が使う自然な言葉で再現しなければならない。


何度も書き直し、試行錯誤を重ねた末に、彼女はこう訳した。


「मैं अभी दुखी हूँ। पर ऐसे जीते जाने में मुझे कुछ शर्म सी आती है。」


ここでは、女性話者を明確にするため「हूँ」(~です、女性形)と「आती」(感じる、女性形)を使用した。しかし、原文の「なんだか恥ずかしいような」という微妙なニュアンスを「कुछ शर्म सी」で表現できているのか、確信が持てない。


次に挑戦したのは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』だった。こちらはさらに難易度が高い。ナオミの官能的でわがままな言葉遣いを、ヒンディー語の女性語でどう表現するか。


「あなた、私のこと、どう思ってるの? 本当のところを教えてよ」


というナオミの甘えた台詞。アニヤは、ヒンディー語で自然な女性の甘え方を表現するために、村の若い女性たちの会話を注意深く観察した。そして、こう訳してみた。


「तुम मेरे बारे में क्या सोचते हो? सच-सच बताओ ना!」


最後の「ना」は、親しい間柄での甘えや依頼を表す終助詞で、女性が使うと特に可愛らしい響きになる。しかし、これでナオミの危険な魅力まで伝わっているかどうか。


長老との対話


数日後、アニヤは翻訳した原稿を手に、老教師の元を訪れた。老教師は細めた目でページをめくり、時折深く頷いた。


「ふむ……『斜陽』のこの一節、『मैं अभी दुखी हूँ』——確かに女性の哀しみは伝わってくる。しかし、もう少し『苦しみ』の深さを出せないか? 例えば『दुखी』の代わりに『पीड़ित』(苦しめられた)を使ってはどうだろう」


老教師は指さしながら言った。

「そして、谷崎氏の作品のこの台詞——『सच-सच बताओ ना』——確かに女の子の甘えは出ている。しかし、この女主人公はもっとずるがしこいのではないか? お前の説明によれば、彼女は単純に甘えているだけではないはずだ」


アニヤははっとした。老教師は文学作品の深層まで読み解こうとしている。

「おっしゃる通りです。ナオミは甘えるふりをしながら、実は男性を操っているのです。ですから、もっと計算された甘え方にすべきかもしれません」


「そうだな」老教師はゆっくりとうなずいた。

「例えば、『बताओ ना』を『बताओ ना, ज़रा』(ちょっと教えてよ)とすると、よりわざとらしく、そして誘惑的に聞こえるかもしれない」


アニヤは目を輝かせた。老教師の助言は、単なる言葉の置き換えではなく、文学的な深みを翻訳に加えるものだった。

「長老、ありがとうございます! このように細かいニュアンスまでご指導いただけるとは」


老教師は優しく微笑んだ。

「アニヤ、お前はただの翻訳者ではない。二つの世界の架け橋だ。この仕事を軽んじてはいけない。それぞれの言葉の持つ色合いを、丁寧に、慎重に移し替えていくのだ」


アニヤは深く頷き、原稿をしっかりと抱きしめた。翻訳とは、単なる言葉の変換ではなく、文化の本質を伝える行為なのだ——老教師の教えは、彼女の胸に深く刻まれた。道は長いが、確実に一歩ずつ、前に進んでいる実感があった。

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