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アニヤ、翻訳作業に入る。

いよいよ、アニヤは翻訳の世界に一歩を踏み出します。

これから、日本語とインドの現地語との翻訳の世界に入るのですが、著者は現地語をその文字まで含めて書いた方が良いのか(現地語の候補としてはヒンディー語とデヴァーナーガリー文字若しくはウルドゥー語とアラビア文字を考えています)、それとも現地語の日本語訳を書いた方が良いのか迷っています。その解答はこれから書き進めるにつれて明らかになって行くでしょう。

第3章 谷崎潤一郎と太宰治、そして源氏物語への道筋


アニヤが七歳になった頃、彼女の頭の中には明確な青写真が描かれていた。「いきなり『源氏物語』はハードルが高すぎる。まずは近現代の作品で、この世界の読者の心を掴む必要がある」


かつての田中一郎としての読書経験が、鮮明に蘇る。その中で、異性の心理描写に鋭く、かつ官能的でさえある谷崎潤一郎の世界観は、このインドの地においても強い衝撃を与えるに違いない。一方、破滅へと向かう退廃的な美しさを描く太宰治の作品は、どこかこの土地の宗教哲学が説く「輪廻」や「諦観」と通じるものがあるかもしれない。


問題は、どうやって原書を手に入れるかだった。幸い、彼女の家族は彼女の「神がかった博識」を誇りに思い、彼女が「学問のために必要」と主張するものには、可能な限り応じようとしていた。インターネット環境は限られていたが、都市部まで出向けば国際通販を扱う書店が存在した。


「お父さん、この……『日本の知恵が詰まった書物』を手に入れたいの」

幼い声で、しかし確かな意志を持って頼み込むアニヤ。父親は少し驚いた様子だったが、やがて深く頷いた。

「わかった。アニヤがそう言うなら、きっと大切なものなのだろう」


数週間後、小さな包みが村に届いた。開けると、そこには文庫本の『痴人の愛』と『斜陽』があった。日本の匂いがする紙質、慣れ親しんだ漢字の並び。アニヤは、まるで旧友と再会したかのように、その本を胸に抱きしめた。


「さあ、始めよう……」


彼女の作業場は、家の片隅に設けられた小さな机だ。まずは『斜陽』に手を付ける。現地の言葉でノートを用意し、日本語の原文を読み、その意味とニュアンスを徹底的に咀嚼する。そして、彼女が最も苦心したのが、「女言葉」による翻訳だった。


太宰治の作品でありながら、語り手は「私」――女性である。原文の持つ繊細で、時に危ういほどの情感を、この土地の「高貴な女性の話法」でどう表現するか。


『私はこのごろ、わざと、美しいものばかり見つめている。』という一節を、彼女は何度も書き直した。


「直訳ではダメだ。この『わざと』という諦めと意志が入り混じった感覚、『美しいもの』への執着を、この世界の女性が使う言葉で再構築しなければ……」


時には、かつての商社マンとしての交渉術や、相手の心情を読み取る力を駆使して、村の女性たちの会話に耳を傾け、自然な言い回しを盗み聞きさえした。


やがて、最初の一章が完成する。彼女はためらいながらも、村で最も教養があるとされる老教師に見せた。老教師は黙ってページをめくり、やがて目を大きく見開いた。


「これは……なんという深い哀しみだ。没落していく家の女の嘆きが、これほどまでに切実に迫ってくる……アニヤ、これはお前が書いたのか?」


「いいえ……これは、私の故郷……かつて夢で見た遠い国『日本』という地の、『太宰治』という作家の物語です。私はただ、その言葉を移し替えたに過ぎません」


老教師は震える手でノートを握りしめ、深く感嘆の息を吐いた。

「ふむ……『日本』か。その地の文学が、これほどまでのものとは……。アニヤ、君はただ者ではない。まさしく、二つの世界をつなぐ者だ」


その言葉を聞いた瞬間、アニヤの胸に熱いものがこみ上げた。「よし……これで第一歩は踏み出せた」


彼女はこっそりと膝の上で拳を握りしめる。谷崎潤一郎の『痴人の愛』へ、そしていつかは谷崎訳の『源氏物語』へ――。道筋は、確かに彼女の眼前に開かれ始めていた。小さな体に宿った大きな野望は、静かに、しかし確実に動き出そうとしていた。


(続く)

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