4
クマくんはその名の通り、熊のような大男だった。
中学生だというのに、身長は百八十センチ以上。体格もさながらプロレスターのようにがっしりとしていて、制服を着て教室に座っているよりも、斧を持って森に住んでいる方が似合っている。
そんな彼はクラスでも一際目立つ存在だった。もちろんその外見のせいもあるけれど、それ以外に、学校ではある噂が出回っていた。
――クマくんって、小学生のときにクラスメイトに大怪我させたんだって。
あまり風説の類に明るくない私でも、そんな話くらいは聞いたことがあった。
詳しいことはわからないが、どうやら同級生に暴力を振るったらしい。あの巨体から繰り出される攻撃を受ければ、悲惨なことになるのは想像に難くない。形式としては喧嘩両成敗だとしても、実態は一方的な破壊になることだろう。
みんなそれを知っているからか、露骨に彼を恐れ、避けていた。私以上に友達がおらず、学校で誰かとまともに話しているのを一度も見たことがない。
だから私は彼がどんな人物なのかよく知らなかった。せいぜい授業などで発言するのを見るくらいで、その体躯に似つかわしくないほど頼りない小さな声でぼそぼそと話すのが薄っすら印象に残っていた。
ちなみに「クマ」というのはあだ名ではなく、本名が球磨壮介という名前だった。時折クラスメイトがまるであだ名みたいなその名前を呼ぶと、妙に親しげに見えるのがおかしかった。
その日の帰り道、私は通学路の途中でクマくんを見かけた。
遠近感が狂ってしまいそうなほど大きな身体のおかげで、すぐにそこにいるのがクマくんだとわかった。
「クマくん」
私は少し小走りで彼に追いつくと、腕の辺りを軽く叩いて名前を呼んだ。
すると、彼はこちらが目で見てわかるほど激しく身体を強張らせると、驚いた顔で私の方を振り返った。
「驚かせちゃってごめんね。どうしてもお礼が言いたくて」
「……お礼?」
「うん。クマくんが佐倉さんのことを追い払ってくれたおかげで助かったから」
「……あ、あれは、ただぼーっとしてただけだから」
私が昼間のお礼を言うと、クマくんは語尾に向かって萎んでいくように小さい声で答えた。まるで身体の大きさに見合わないおどおどとした様子で、決して視線をこちらに合わせようとしない。
こうして目の前にすると、確かに威圧感があった。腕や太ももは制服がはちきれそうなくらいパンパンで、きっと私の身体など簡単にへし折ってしまえるだろう。分厚い身体は大きな岩壁のようで、そのまま押し潰されてしまいそうな圧迫感がある。自分とは明らかにかけ離れた姿を目の当たりにして、本能的に彼を恐怖している感覚があった。
しかし、私はそれ以上に彼の細かな挙動の一つ一つから滲み出る人間味に目が行った。地面を見つめて目を泳がせ、何か言いたげな様子で口を中途半端に開き、肘を右手で押さえているせいで肩と背が小さく縮こまっている。
きっと彼は私と同じだ。普通に生きたいけれど、普通に生きられない。たぶんそういうところに親近感を覚えたのだと思う。
それからというもの、私はクマくんとよく話すようになった。
人付き合いが苦手で友達もいないぼっち同士、何となくウマが合った。あるいは、私がそう思っているだけで、クマくんはただ避けようとしなかっただけかもしれないけれど、いずれにしても私は彼と一緒に過ごすことが多くなった。
仲良くなってみると、みんなが恐れているような人間ではないことがすぐにわかった。
基本的にクマくんは心優しく温厚な人間だった。
誰かの悪口を言うのを聞いたことがなかったし、たとえ自分と正反対の意見だとしても絶対に否定せず、優しく包み込むようにそれを受け入れていた。
暴力なんかもってのほかで、小石を蹴っているところも見たことがない。むしろ相手を傷付けてしまうことを過剰に恐れているように見えた。何を触るにしても、花を愛でるような丁寧さが手つきに表れていた。
「クマくんってさ、空が好きなの?」
一緒にお昼ご飯を食べているとき、箸を止めて空を眺めている姿が気になって、私は彼に尋ねた。
「よくそうやって空を見てるよね」
「……うん。青い空を見てると、どこか全然違う場所にいる気分になるんだ」
彼は時折そんな風に浮世離れしたようなことを口にした。もちろん衒っているわけでもなく、自然と思ったことを言葉にしようとすると、彼の思考が上手く言語されないのだろう。
そういう独特な感性を含んだ言葉を耳にすると、彼の声がとても透き通っていて、柔らかい春風のように心地よいことに気付く。
「ふーん、そっか。私には全然わかんないや」
試しに私もしばらく青い空を無心で眺めてみるけれど、ただ目が少しちかちかとしただけで、特に何も感じなかった。私がつまらなそうに口を尖らせて言うと、彼は「そうだよね」と言って照れ臭そうに笑った。
クマくんと過ごした日々はとても穏やかで、たぶん幸せだったのだと思う。
何か特別な話をするわけでもなく、二人でただ静かに過ごすだけのことも多かった。学校では一緒にいても、休日にどこかへ出かけたことは一度もない。それでも不思議と彼の隣では自然体でいることができて、そんな時間が私にとっては心地よかった。
でも、だから私は唐突に不安になることがあった。
こうやって二人だけの世界に引きこもって、社会からあぶれてしまってよいのだろうか。たとえ上手く馴染めないとしても、社会の一員であるふりはしなくてはいけないのではないだろうか。そうしないと、もう一生『普通』にはなれないような気がした。
「クマくんはさ、普通になりたいって思ったことはない?」
前の晩、私は何となく眠れなくて、重たくのしかかる偏頭痛を誤魔化すために、明かりを消した自室の机で黙々と『創作活動』に励んだ。
夢中でノートを文字で埋め尽くし、それを真っ黒く塗り潰し終えた頃にはもう朝日が昇り始めていた。使い切ったノートがカーテンの隙間から差し込んだ光に照らされるのを見て、白けた視界が歪んでひどく虚しさを覚えた。右手は夜通しペンを握り続けていたせいで、痺れるような鈍い痛みが指先を小刻みに震わせている。
しかし、確かな満足感が私の心を満たしているのも事実だった。自分の欲しているものを得られた充足感。それはこの『創作活動』でしか味わうことのできないものだった。だからたとえどんなに虚しい行為だとわかっていても、きっぱりとやめてしまうことはできない。
黒光りするスクリーンに、あの日の母の顔が映る。このノートたちを目にしたら、彼女は一体どんな顔をするのだろう。頭がおかしくなったと思われて、病院に連れていかれるかもしれない。
「え、僕は結構普通だと思うけど……」
そんな私の苦悩が詰まった質問に対し、クマくんの答えはあまりに間の抜けたものだった。
「勉強もスポーツもできないし、話すのも得意じゃないし、何か特別な才能があるわけでもない。強いて言うなら、ちょっと身体が大きいとか、それくらいしか特徴ないから……」
「それくらい、って……」
彼は自分の身体が大きいとか、そのせいでみんなから避けられているとか、そんなことは全く気にしていなかった。あまりの無頓着さに、私は思わず呆れてしまう。その鈍感具合に羨ましさすら覚える。
「いや、クマくんは変だよ。めっちゃ変」
私はおかしくなってしまって、笑いを堪えながら言う。
「そうかなあ……?」
納得しかねる表情で頭を掻く彼は確かにひどく平凡に見えて、それが外見とちぐはぐなせいで、より一層彼が変わっているということを顕著に表していた。