イード
彼はゴロツキどもを無造作に引っ張って、表通りに放り投げると、フェリチェの元に戻ってきた。
「君は……フェネット?」
品定めするように見つめられ、フェリチェは我に返る。どんなに顔が良い王子様だったとしても、相手は人間のオス……警戒しなければならないと学んだのだ。
ふいと顔を背けるも、眼前に手を差し伸べられた。
「大丈夫? 立てる?」
「寄るな、人間! どうせお前もフェリチェの毛が欲しいだけだろう! 人間の助けなどなくても、自分で立つくらい造作もない……っ」
威勢よく立ち上がってみたものの、ふらついてすぐに転んでしまった。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「うるさい! 大丈夫ったら大丈夫だ!」
「そう、それならいいけど」
青年は手を引っ込め、懐を探る。警戒するフェリチェに、青銅の鍵を揺らして見せた。
「まぁ、動けるようでよかったよ。何しろ君が寄りかかっていたところ、俺ん家の玄関だったからさ。中に入れなくて困ってたんだよね。だから別に、君を助けたってわけじゃないんだ」
「お、おう……?」
「何か困ったことがあったら、そこらへんを見回っている自警団を頼るといいよ。――それじゃ」
「えっ、ちょ……」
鍵を回すや、青年はさっさと木戸の内側へと消えた。
あまりに呆気なく閉ざされた扉に、フェリチェは拍子抜けするとともに、何か釈然としない思いで立ち上がる。
「ちょっと待てええええ!!」
勢いよく扉を開け、青年を呼び止める。
「わっ、びっくりした……何?」
「こういう時は普通、ほとぼりが冷めるまでどうとか言って、傷付いたフェリチェを匿ってくれるものじゃないのか!」
「えええ、そうでもないと思うけど」
青年は迷惑そうでこそないが、困惑している様子だ。
「それに君、人間が苦手そうなこと言ってなかった? いいの、ここ人間の家だよ?」
「はっ。そうだった! ……ちょっと待て。フェリチェは何だかおかしいぞ……? 体もふわふわしてるし、頭もぼーっとする」
「もしかして、さっきの奴らに酒でも飲まされた? なるほど。その様子じゃあ、表を歩くのは危ないね。なら正気に戻るまで、ここでゆっくりしていきなよ。もちろん、君がいいならだけど……ね?」
彼には、フェリチェを無理に引き留める気はないらしい。あくまで自分の意志で決めるよう、回答を待っている。
「くっ……見知らぬ街をこのままうろつくのは、フェリチェも賢明とは思えん。背に腹はかえられぬ……。しばし世話になるぞ……」
「どうぞ、ごゆっくり」
戸を開けた時と打って変わり、フェリチェはおずおずと敷居を跨いだ。
青年の住まいは居間の壁のほとんどが棚で埋められており、小難しい書物が整然と並んでいる。
作業台には家庭では見慣れない器具の他、薬草や薬品の類が置かれているのを、鼻のいいフェリチェは離れていても判別できた。
「空いてる椅子にてきとうに座って。寒ければ毛布も出そうか。安心して。物は多いけど、掃除と洗濯はまめにしているから、清潔は保証するよ」
「……お前、学者か? こういうの、人間の学校で見たことあるぞ」
一口の覗き穴の下に、数種類のレンズが取り付けられた器具を指差しフェリチェは問う。
「顕微鏡。ものをより精密に視るためのものだよ」
今は芋のデンプン質を調べていると器具を覗かせてくれたが、フェリチェには何のことかさっぱりだ。
「人間の学校っていうのは、アンシアのかな?」
「そうだ。フェリチェはアンシアから来た。アンシアのフェネットで、その長フェリクスの長女だ」
「そう」
希少種の姫と告げても、彼の態度に変化は見られない。
「俺はイェディェル。ご覧の通り、学者あるいは研究者で通ってる」
「イ……エ……」
「発音が難しい? イードでいいよ。みんなそう呼ぶ」
「イード」
「そう、上手上手」
褒められて心なしか気を良くしたフェリチェは、大きな耳が勝手にぴこぴこと動いた。
「あのな、フェリチェはな、仲のいい娘たちからはチェリと呼ばれているぞ」
「チェリ? 人族語の桜桃に似た響きで、可愛いね」
不意に微笑みかけられ、フードの奥に覗く瞳と視線が絡んだ途端、フェリチェは急に頬が熱くなるのを感じた。
「か、可愛いだとっ……? ふ、ふんっ。そんなことを軽々しく言うオスは信用しない!」
飛び退るようにその場を離れるも、まだ酔いの醒めない頭はふらふらして、つまずいた拍子にその辺のソファにお邪魔してしまった。
「せっかくだから、お茶でも淹れようか」
「い、要らん! 今は仕方ないから休ませてもらっているが、長居をするつもりはない! 施しは受けんぞ!」
「まぁ、そう言わずに。実はフェネットに会ったのは初めてでさ。こんな機会なかなかないだろうし、もう少し話を聞かせてほしいな」
穏やかな声と微笑みに、フェリチェは根負けした。
お行儀よく座り直し、湯を沸かすため台所に立ったイードをちらと観察する。
外套を脱いで露わになった黒髪は少し癖が強く、ふわふわといかにも柔らかそうだ。歳の頃は二十代前半といったところで、ぱっと目を引くわけではないが、端正な顔立ちをしている。
穏やかな目元を印象づける深緑色の瞳は、アンシアの山々を思い起こさせた。