研究は続く
アンシア公国行きの船が出立する日、見送りに集まった人々は、港を埋めるすべてと言っても過言ではなかった。
頼れる自警団員の一人と、賢者さながらに知恵のある若者――、各々顔は広く、見送りに出る者は多くいた。
しかしこの場で最も別れを惜しまれているのは、彼らの間に収まって手を振っている、フェネットの娘の方だ。
ユーバインの街に暮らして一年。何にでも興味を示し、人との関わりを愛して、ころころと彩りに溢れた顔を見せるフェリチェは、すっかり人気者になっていた。
「ちょっと、帰郷するだけなのにな」
街で一番人気のパティシエが、土産に焼いてくれた菓子。その妻が持たせてくれたポプリ。
行きつけのパン屋が、アンシアでも食べられるようにと、譲ってくれた好物のレシピ。
快適な旅を祈って、友人が整えてくれた髪。
その他にも、ユーバインの民からのたくさんの想いが込もった贈り物を抱えて、フェリチェははにかむ。
これから、フェネットの里に帰るのは、長である父に狩りの成果を報告するためだ。
これぞと心に決めた獲物をちらりと確かめて、高鳴る胸を撫でつける。フェリクスは許してくれるだろうか、長い航海が重ねて長く感じられる思いがした。
押し寄せる緊張感から抜け出す安らぎを求めて、影が伸びる甲板の隅に目をやれば、幼馴染で護衛のルタが自信たっぷりに笑い返してくれた。
それでもう大丈夫な気がして、フェリチェはユーバインの街に最後に大きく手を振った。
「行ってくる! 良い報せをもって帰ってくるぞ!」
※ ※ ※
威勢よく航海に乗り出したのはよかったが、フェリチェは船酔いすることをすっかり忘れていた。
旅程のほとんどを寝て過ごし、アンシアの海に入る頃にようやく起き出すことができた。
風を浴びたくなって、甲板に出ると、ちょうど水平線の彼方から日が昇るところだった。
船尾を追いかけるように、光が差し込む。その中に、水夫と別の人影が揺れた。
「おはよう。今日は少し調子が良さそうだ。アンシアの風のおかげかな」
「おう……お前も早いな、イード。これはまだアンシアの風じゃない、ただの海風だ」
「そう。ただの、ね」
広大な海を、まるでちっぽけなもののように言う口ぶりが、イードには可笑しかった。
特になんの目的もなく、二人で空を眺めたりしながら、あと三日もすれば里にいるのだとか話した。
漠然としたそれからのことも、言葉にしてみる。
「イードはやはり、アンシアのように小さく長閑な国ではなく、広い世界で暮らしたいか?」
掟があるわけではないが、フェネットがアンシアの外で数を増やすのは、乱獲の歴史を繰り返しかねないと、漠然と皆アンシアに留まっていることを示唆してフェリチェは尋ねた。
人の出入りが激しく、常に新しい刺激に溢れたユーバインの街は、イードにとって理想郷だろう。しかしフェリクスの意向ひとつでは、その暮らしを手放す必要もありえるのだ。
「もしそうなったら、フェリチェは少し心苦しい」
「チェリは、ひとの心配をするのが得意なんだな」
そんなところに惹かれた、と柔らかく笑って、イードは雲の向こうを眺めた。
「感じることをやめなければ、謎や疑問はどこにでも落ちているもんだよ」
隣に並んで、イードが雲の中に見ているものを探してみたが、フェリチェには特に何も見つからかった。
それよりも、雲がふわふわのパンにしか見えない。何しろ腹はすっかり空っぽなのだ。アンシアにも美味しいパンをもっと広めるためには、どうしたらいいのかだなんて、そういった類の命題なら浮かんでくる。
うんうんと唸るフェリチェを、やはり面白いもののように見て笑い、イードは希望に満ちた言葉で先の問いに答えを返した。
「世界を狭めるのも、広げるのも、結局は自分の向き合い方ひとつだと思うんだよね。アンシアにはどんな不思議があるかな、楽しみだ」
穏やかで、気の抜けるような柔らかい笑みが、なぜかしら心強く、フェリチェの胸を打つ。
隣り合う肩にそっと身を寄せ、朝日を背負った横顔を見つめた。
「いつか、イードは言ったな。アンシアに帰る時が来たら、フェリチェの選んだ婿を紹介してくれと」
「ああ、言ったね」
「……こっちを見ろ」
己の方に向き直させて、イードを真正面から改めて見つめた。彼の深緑の瞳に、恥ずかしがる自分の姿が映り込むまで、じっと顔を突き合わせて、フェリチェは真っ赤な顔で告げる。
「この目の檻に捕らえたのが、フェリチェの狩った花婿だ……。に、逃がしてやらんぞ」
言葉だけは強気だが、勢いは逃げ腰だ。
イードは小さく笑って、わざとらしく首を傾げた。
「んー、どれかな? よく見えないから、もっとちゃんと見させて」
「へ? ちょ、まて……やっ、近い! み、見過ぎだ」
イードは遠慮なく、まじまじと瞳を覗き込んでくる。
逃がさないどころか、逃げられないように腰を抱かれ、恥ずかしさに堪えられなくなったフェリチェが目を閉じると、待ちかねたと言わんばかりに唇を重ねられた。
ほんの少し啄んだだけで、そっと離れてしまった温もりを惜しむように、フェリチェは目蓋を開く。
その瞳を覗き込んで、イードは微笑んだ。
「ああ、よく見えた。なかなか悪くないんじゃない?」
「……お前というやつは……本当に……」
食えない。きっと一生かかっても、理解できないし勝てる気がしないと、フェリチェは悔しくなる。だからこそ、まだまだフェリチェも、研究を続けていく必要があるのかもしれない。
花婿候補の図鑑ではなく、花婿の図鑑に書き換えるために。
『……仕方ないから、一生そばにいてあげますけどっ』
「何か言った?」
「なななんでもない!」
湿った海風がさらう白雪の髪を、腕に留めるようにしっかりと抱いて、イードはもうひとつ口づけを落とす。
そうしているうちに、風が変わった。
さわさわと草花を踊らせるアンシアの風が、船上の二人をひと撫でする。昇った朝陽は跳ね上がる水飛沫を光らせ、祝福に一役買ってくれた。
手を取り合って永遠の愛を誓う――。絵巻に描かれているような、姫の理想の口づけは巡り巡って叶えられた。
あと達成されていない願いは……。
素敵な恋をして、フェネットの伝統衣装を身に纏い、結婚式を挙げる――だが。
恋はまさに真っ只中。フェリチェの夢が叶う日も、もうすぐそこ……に違いない。
終
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お読みくださいまして
誠にありがとうございました
この物語は
私自身が心が疲弊して
「難しいことは考えたくないな」
「癒しが欲しい」と思って生まれました
フェリチェが皆様の心にも
癒しと元気を運べたなら幸いです
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