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最後の夜


 その後、いつも通りに日が暮れて、フェリチェの門出を祝うため――と、いつもより少し豪勢な夕食が振舞われた。

 いつも通りにフェリチェが皿を洗って、イードが片した後は、茶を飲んでゆったり過ごす。


 どちらからともなく湯の準備をしたら、適当に順番に入り、あとはもう布団に入るだけ。それで一日は終わりだ。

 朝になって部屋を片し、玄関の扉をくぐったら……フェリチェはもう、この家に「ただいま」と帰ることはない。


『邪魔するぞ』と上がり込んで、『また来るぞ』と自分の家に帰る。そしていつかは、『アンシアに帰ることにした』とイードに告げて、港から送り出される……。


 また、胸に棘が刺さった。

 研究の終わりを告げられた時よりも小さいが、ずっと深いところに沈み込んで抜けやしない。


 じくじくした疼きが胸に広がって、寝付けずにいたら、窓の外からすすり泣きのような波の音が聞こえてきた。

 寄せては返すその音は、フェリチェの心に押し寄せる葛藤のようだ。もの寂しげな響きのわりに、どこか優しい。


 遠くの雷に耳を傾けると、雨の匂いが近づいてくるのを感じられた。程なく、街はしとしとと濡れて、雨音も奏でられるのだろうと、フェリチェは静かに目を閉じる。


 波と遠雷の協奏に揺蕩っているうちに、フェリチェの心は凪ぎ、少しずつ目蓋の帷も落ち始めた。


 そんな、もうあとわずかで夢の入り口……という時だ。突然、間近で雷鳴が鳴り響いた。

 それを皮切りに、(たらい)をひっくり返したように激しい雨が、窓を叩きつける。

 眠りに誘われつつあったフェリチェは、轟音に飛び上がった。全身の毛が逆立って、驚いた心臓が身のうちで逃げ惑っている。


 稲光が帳を透かして明滅する。轟く雷鳴は地を這って、家屋を突き上げて震わせた。

 風は唸るように吹き荒れ、窓硝子を割らんばかりだ。


 急に恐ろしくなって、フェリチェは尻尾を握りしめた。夕焼け色のリボンを頼みに、早く嵐が行きすぎることを願う。

 ところが、雷雨はますます激しさを増し、港からは警戒を促す半鐘まで鳴り響き始めた。


「イードっ……。イード……!」


 どうしようもなく恐ろしく、不安で――フェリチェは声を上げた。

 助けを求めながらも、雷鳴に掻き消されて、どうせ聞こえはしないと思っていた。それなのに口にせずにいられないのは、呼べばいつも応えてくれる安心感からくる、まじないのようなものだ。


 フェリチェは震える尻尾を抱いて、一人ではないと言い聞かせる。

 そうして何度も呪文を唱えていると、雨に打たれる窓とは別方向……、部屋の扉が鳴いた。


「――どうかした?」


 優しげなノックの向こうで、穏やかに問う声がする。

 ただそれだけの一言が当たり前に返ってくることに、フェリチェはひどく心が安らいで、また自分にがっかりした。

 それでも恐怖には勝てなくて、涙声でイードを呼ぶ。それは今、動けないフェリチェに代わって、扉を開くまじないになった。


「大丈夫? 急に荒れ出して、驚いたね」


 居間で何か作業をしていたのだろう。開いた扉から、柔らかな灯りが一筋差し込んだ。

 それと一緒にイードも滑り込む。寝台の縁に腰掛け、怯えるフェリチェの肩を撫でさすった。


「音が……あっちこっち響いて、怖い……」

「耳がいいのも、考えものだね」

「いつ終わる? すぐか、まだか? 何とかしてくれっ……」


 耳を塞げば違うのだろうが、尻尾を握りしめていないと不安なフェリチェは、頑張っても手が足りない。出来る限り耳を伏せてはみるが、たかが知れている。


「助けてくれ……イードぉ……」

「……こうかな?」


 大きな手が、フェリチェの項垂れた耳に蓋をした。

 轟く雷鳴も、屋根を打つ雨音も、鬼気迫る鐘の音も……変わらず表で鳴り響いているが、壁を隔てたようにほんのわずか遠くなる。


 耳を覆ったイードの手のひらから、海鳴りのような音がした。温かな潮騒に耳を傾けていると、逆立った毛が大人しくなっていく。

 別れを明日に控えて初めて、見慣れた姿や声が――、寄り添い慣れた香りが――、こんなに心強いことをフェリチェは痛感した。


「そうか、チェリはこれが、ユーバインに来て初めての嵐か。今年は天候に恵まれていたからなぁ」

「海が近いからか? この世の終わりのようだ……」

「大丈夫、朝までには行き過ぎるよ。怖いだろうけど、まだ今夜でよかった……のかな? 明日からは、一人だもんね」


 優しい壁の向こうで、受け入れるに易くない声がする。


「これからは、俺がいつでも近くにいられるわけじゃないから、早く塞いでもらう手を見つけなくちゃね」


 耳を塞がれているのに、どうして聞きたくない言葉はこんなに鮮明に聞こえてしまうのだろうと、フェリチェの胸でまた棘が疼いた。



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