さざめく胸
『俺をフェリチェの図鑑に載せて』
唇を奪われた夜から、月はぐるりと満ち欠けたというのに、その言葉がずっとフェリチェの耳許で囁き続けている。
人族語は難解だが、要は花婿候補に名乗りを挙げる言だとは理解したつもりだ。
しかし当のイードはといえばそれきり、改めて話に持ち出すこともなければ、態度も何ひとつ変わらない。
相も変わらず、当たり前に二人分の食事を作り、ともに食卓を囲む日々が過ぎていく。
もしかしたらあれは……、寝ぼけて見た夢だったのではないかと思うにつけて、ありありと蘇る唇の柔らかさが、ふわっとしていない現実感を突きつけてくる。
このままでいいはずがないことは分かっていても、どうしたらいいのかがフェリチェは分からなくて困っていた。
(もしも本当にイードさんに好かれていて、きちんと想いを告げられたとしたら……)
そんな想像をした時に、喜んで頷いている己の姿をフェリチェは思い描けない。
それなのに、研究と称して触れられる度に教え込まれてきた、イードの声や眼差し、手の感触、香りを思い返すと、胸は飛び跳ねるのだ。
不届者の唇が額に触れた時とは違う。記憶を反芻して震える背筋が、熱っぽい。
(これではまるで……イードさんに触れられたいと言っているようなものではないかしら。いいえ、違うわ! わたくしは、そんな破廉恥な娘では……)
高鳴る胸は、戸惑いとかすかな怯えに震える。
(だって、これまで慕ってきた殿方たちと、まるで違う。燃えるような想いも、狂おしいほどの愛しさも感じないのに……どうして、あの方だと許してしまえるの)
真実の愛とは、運命の恋とは――、絵巻物でも戯曲でも、もっと劇的に訪れるものとして描かれているものだ。イードと過ごす日々のどこに、そんな情緒的な瞬間があっただろうと、フェリチェは唸る。
密接に触れ合ってはきたが、そこに愛があったのかと問われると……少なくともイードには、純粋な探究心しかなかったはずだと、フェリチェは自信をもって答えられてしまう。なんだかそれも面白くない。
そんなふうに曖昧な胸の内だから、番を選ぶ二択を迫られたとして、「はい喜んで」とは即決できず、「応えられない」という答えしか出てこないのだ。
しかし、やはりこのままではよくないと、フェリチェはある決断をした。
自身と話し合って、未来を見据え、フェリチェが出した結論は――。
※ ※ ※
「イード。フェリチェはそろそろ独り立ちすべきだと思う。今まで、いろいろと……世話になったな」
新しい部屋の借用書を前に、イードの瞳はわずかに見開かれた。だがそれもほんの少しの間だけで、すぐに、読んでいた本に視線は戻される。
そして、いつもと変わらない調子の一言が返ってきた。
「ああ、そう」
その声はとても静かで、すべての音を飲み込んでしまったように、部屋の内がひっそりとした。
イードがページをめくる音さえ、ろくに聞こえないのに、フェリチェの耳は窓の向こうの音ばかり拾ってしまう。
街に打ち寄せる波が、遠く向こうの雷の音を連れてきて、フェリチェの心をざわざわとさせた。




