噛み合わない
遠く、寄せては返す波の音に合わせて、撫でる手は規則的に上下する。そこに互いの呼吸が重なると、意図せずして親密で良い雰囲気が出来上がった。
フェリチェは毛布の下から赤らめた頬を覗かせ、問う。
「――それで、その……しないのか?」
「念のため確認するけど、何を?」
「記憶を塗り替えるためのキスを、だ」
たちまちイードの笑顔が、悟りの境地に至った神仏の慈悲深さに満ち満ちる。
「大丈夫? 今日はたくさん頭を打ったから、冷静な判断ができないんだね」
「フェリチェは冷静だし、大真面目だ!」
とにかく早く寝なくてはいけないのに、目を瞑れば生暖かくてぶにょっとした感触が背筋を這う。寒気が止まらず、嫌悪感で覚醒するばかりだとフェリチェは切々と訴えた。
「だいたい、助言したのはイードだろう?」
「それはチェリの、いいひととしたらいいって話だよ」
「それなら、イードは最初からいいヒトだぞ?」
首を傾げるフェリチェの純朴さに、これまで穏やかに向き合ってきたイードの口から、初めてため息が零れた。
呆れと、少しの怒りを孕んだ深緑色の瞳を伏せて、イードは腹を括る。
「……わかった。それなら、しようか」
「う、うむ……よろしく頼む」
かちこちに身を硬くして、フェリチェは毛布を胸元まで下げた。案外と、騒ぎ立てたフェリチェだけが、心の準備ができていない様子だ。
しかしイードはもはや、それにも構いはしない。
駄々っ子をあやしていた手は、フェリチェの顔にかかった邪魔な髪を払うために添えられる。指先が肌に触れた瞬間、フェリチェはぎゅっと目を瞑った。
固く閉じられた目蓋をじっと見つめても、イードにはその裏側に誰がいるのか、覗くことはできない。顕微鏡をもってしても、見えはしないのだろうと、自分で出したおかしな結論には思わず吹き出しそうになる。
「もしこれで、君の理想が叶えられ、記憶を更新できたなら……」
悪い思い出の上塗り。幸福への置換。どちらに転ぶか分からない。
それでも、フェリチェの記憶の片隅に、いくらかでも根を張れるなら……と、イードはわざわざ耳許で囁いた。
「――俺をフェリチェの図鑑に載せて」
言葉が鼓膜を震わせると同時に、フェリチェの首筋は素直な強張りを見せた。今まさに触れようとしている唇も、固く引き結ばれてしまう。
緊張をほぐすように、イードはフェリチェの頬を撫でた。指を押し返す肌の弾力のわりに、ほっそり小ぶりな輪郭をなぞる。寝台が軋む音が、やけに耳についた。
『……あなたを永遠に愛しく想う』
先日、改めて触れてみたアンシア生まれの戯曲から、この場に最もふさわしい台詞をイードは選んだ。
言葉の真意を確かめたがったフェリチェが、目蓋は閉ざしたまま小さく口を開く。イードはその時を待っていたかのように素早く、それでいて慎重に唇を重ねた。
姫様がお望みの……、降り注ぐ陽光のようにそっと触れるだけ。たったそれだけの、挨拶程度の口づけだ。
その後は見つめ合ってはにかむ……がご所望だったはずだが、そのような初々しさなど、イードは持ち合わせていないので、口づけを終えた後のフェリチェの様子をまじまじと観察した。
翠玉の瞳は大きく見開かれ、その下の頬は化粧もしていないのに紅色に染まっている。見つめるほどに、色付きはますます深くなるようだ。
触れたばかりの淡紅色の唇は細かに震え、声とも息ともつかない、微かな音が洩れる。
やがてその音が、はっきりとした呻き声に変わるとともに、毛布の下でフェリチェの体が大きく跳ねた。
フェネットのしなやかな筋肉と、強靭な膝のバネで、フェリチェは覆い被さるイードを押し返す。
突然のことに、なんの構えもなかったイードは、寝台から転げ落ちた。
「いったた……なに、どうかした?」
「き、貴様っ……いま、くちっ……口にっ……!」
ひどく狼狽えて、フェリチェはうまく言葉を紡げない。何とか意味の伝わる形に整えるが、どもってしまった。
「なぜ、口にしたっ……」
「えっ? だってキス、だから?」
「フェ、フェリチェがされたのは、おでこだ!」
「ええぇ……?」
そう言われてイードは、数回瞬きする間に、再び一日を振り返った。フェリチェが披露宴から帰ってきて、キスされたとわめき、やたらと打ちつけていたのは……。
「……ああ、おでこだ」




