嫌な記憶
フェリチェが今すぐ忘れてしまいたいと思うのも、単に色魔によるキスの記憶だけではなく、レナードとの思い出も同等に絡んでいるようだった。そこに共通するのは、爽やかに漂うコロンの香りだ。
「香りは記憶に留まりやすいからなあ。この二つは、頭の同じ場所で処理されているんじゃないかと思えるくらいには、密接な関係だ」
「どうしたらいい……。これまでは、あの匂いを嗅ぐ度にレナードを思い出して、尻尾がしゅんとしたりしたものだが。これからはそこに、悔しいキスまで加わるのか……フェリチェは立ち直れそうにないぞ」
絶望に打ちひしがれるフェリチェを安心させるように、イードは別の問いかけをした。
「その香りがした時に、なにか楽しいことはなかった?」
フェリチェは、すっかり苦手になってしまったコロンの香りを思い起こしながら、記憶を呼び覚ましていく。
レナードを想っていた時には楽しかったはずの思い出も、今ではすっかり黒く塗りつぶされているので、なかなかの苦行だ。
だがふと、匂いの中にアンシアの風を感じて、フェリチェは、ふふふと小さく笑みを零した。
「思えば……、いつもルタがそばにいてくれた」
萎れた尻尾が顔を上げると、夕焼け色のリボンが上機嫌で翻る。
「ルタはきっとあの時も、困った姫だと思いながら見ていたんだろうな」
フェリチェは、はにかんだ。自嘲しているようでも、その顔に悲嘆に暮れる色はない。
それで蓋が開いたか、幸福感が堰を切ったように溢れ出した。アンシアでの思い出から、今日の披露宴で食べたロロ特製ウェディングケーキ、花嫁お手製ブーケの色、香り――。それらが、しょっぱい記憶をフェリチェの頭から締め出していく。
「よし、いいね。いまチェリを笑顔にしている光景を、香りと想起できるように練習するんだよ」
「わかった。やってみる」
肩に残った微かな香りに神経を研ぎ澄ませ、フェリチェは目を閉じた。
どうしたって最初に思い出されるのはレナードだ。それから……おぞましい感触が蘇って、肌がざわつき背筋が震える。
そこでフェリチェは尻尾を握った。手の中にリボンの感触を確かめ、ルタを思い出す。すると少しずつ、鳥肌がおさまって気持ちが穏やかになってきた。
これなら案外すぐに忘れられるかもしれない、と得意になっていると、傍らで何やらごそごそやっていたイードが手巾を振った。
柔らかで清潔感のある石鹸の香りが、フェリチェの鼻先に漂う。途端に、フェリチェは早朝の陽射しを浴びたような爽快感を覚えた。
洗い立ての洗濯物を干した時の、すっきりとした気分を思い出して、表情も晴れやかだ。
「いい調子だね」
イードが無作為に選んで煽る香りと、肩の残り香を交互に嗅いで、フェリチェの訓練は順調に進んだ。
ところが、何番目かにイードが差し出した試香紙を前に、フェリチェは突然ソファから崩れ落ち、床に頭を叩きつけた。
「無理だ……。想像や残り香ではなんとか誤魔化せても、そんなに直接的に嗅いだら、冷静でいられない……」
「ああ、これがそうなんだ」
イードは試香紙に含ませるのに手にした、小ぶりな香水瓶を見やる。
若い男性の間で流行っているということで、イードも試しに買ってはみたものの、常用することはなく棚に眠らせていたものだ。
滞留する香りから逃げるように、フェリチェの頭突きは止まらない。
このままだと、フェリチェがコブダイになってしまいそうだと危ぶんだイードは、窓から身を乗り出すと、表の不用品入れに香水瓶を放った。
そのまま窓も開け放して、空気を入れ換える。試香紙は厚紙で厳重に包んで、屑入れの奥底に押し込んだ。匂いが移っていそうな手も、念入りに洗った。
そこまでしてようやく、イードはフェリチェを助け起こしに向かえた。
真っ赤な額をさすりながら、フェリチェは半べそだ。
「もう嫌だ、練習すら苦痛だ……。どうしたらいい」
「あとは……、そうだなあ。同じ体験を改めてしてみるとか」
「どういうことだ?」
「起きたことは、どうしようもないからさ。失敗してしまったチェリの理想の口づけ? ……っていうのを、次こそは実現させて、成功体験で記憶を書き換えるんだ」
「……おい、馬鹿を言うな。誰としろと?」
このところは花婿候補の男について、フェリチェは図鑑に記すのみで、特定の誰かに熱を上げている様子はない。
イードは当然それを承知で提案している。
「カミュさんに頼んだらいいじゃない」
「愚か者っ。カミュとは、男女の垣根を超えた友だぞ。そんなことできるか。あっ、このぉ……いま笑っただろう! からかったな!」
はてと首を傾げて手拭いをもう一度交換すると、イードはキッチンに戻った。
「まあ要は、早くお婿さんを見つけることだね。そうしたら、つまらない男のことなんて忘れられるからさ」
中途半端にしていた甘藷の裏漉しを再開しながら、むくれたフェリチェにありがたい助言をくれてやる。
「……他人事だと思って、簡単に言いおって。まったく、憎たらしい奴め!」
腹が立ったフェリチェは、もやもやした感情をどこかにぶつけないとやっていられなかった。しかし、さすがにもう額は耐久力の限界だ。
そこでイードからふかした芋を奪うと、力任せに……そして大量に、裏漉しを作った。
イードの想定した倍の裏漉しが出来上がる頃、フェリチェの赤く腫れた額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「気は済んだ?」
「……うむ、そこそこだ」
そんな気のない返事をしてはいるが、それなりに気は紛れた。
そのうえ、夕食後にはスイートポテトとほくほくした変わり種のプリンが出てきたので、フェリチェは目に見えて上機嫌になった。
その晩、とても素直なフェリチェは、嫌なことなんてけろっと忘れて、にこにこ顔で布団に入った。
「ふう、今夜はいい夢が見られそうだ!」
フェリチェはそっと目を閉じる。
一日の終わり……眠りにつくための、まじない的な習慣として、その日の出来事を振り返る者は一定数存在する――とイードの研究でも明らかになっているのだが。フェリチェもそのうちの一人であった。
つまり、フェリチェの目蓋の裏にはいま、今日の出来事が鮮明に思い起こされている……ということだ。




