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花婿図鑑〜もふもふ姫が真実の愛を掴むまでの研究記録〜  作者: もちもちしっぽ
六章 ブラックリストのオス/記憶の研究
31/53

キスされた!


──……ドゴッッ!



──……ガスッ……ゴンッ……!



 表から聞こえる奇怪な音と、やけに振動する家屋を不審に感じたイードは、甘薯の裏漉しを放り出して玄関に向かった。


 扉を細く開けて表を確かめると、白い影が悄然と立ち尽くしていた。

 時折り、壁に頭を打ちつけているのは、どういうわけだろうか。剥き卵のような額が、痛々しく赤くなっている。


「おかえり。何してるの?」

「……記憶を頭から落っことそうとしている」


 また面白いことを言い出したなと、イードは膨れ上がる好奇心を潜ませて、フェリチェを中へと引っ張った。


「座って。とりあえず額を冷やそう」


 フェリチェは頷いて、ソファへ向かった。

 今日のために新調した、お呼ばれ用のワンピースの裾をそっと押さえて腰を下ろす。むっすりしていても、姫の気品は失われていなかった。


 その様子を、イードは静かに観察する。

 髪切り屋のカミュに結い上げてもらった洒落た髪。化粧もしてもらったのだろう、普段より大人びた目許に仕上がっている。昨夜、念入りに整えた爪は、爪紅で飴のように輝いて……どこからどう見ても、洗練された美しい娘だ。

 これを放っておく男はいないだろうと、ただそこにある事実のみをイードは受け入れる。その他の主観的感想や感情は排除した。


「楽しみにしていたのに、何かあった? ロロさんたちの結婚式」

「いいや。楽しかったぞ! 二人とも麗しくて、晴れやかで……憧れの夫婦だ」


 ユーバインに来て初めて意識し、手の届かなかった男性ではあったが、今はその恋人……いや妻とも懇意な仲だ。

 披露宴の様子をうっとりと語っていたフェリチェだったが、その後の二次会(会食)の話になった途端、表情が一変した。


 消沈と憤怒を身のうちに同居させた顔で、フェリチェは語る。


「ロロの友達の妹の恋人の従兄弟という奴が、フェリチェの元婚約者レナードと同じ匂いがして……」

「情報が多いな」


 急いで書きつけるイードに構わず、フェリチェは続けた。


「何となくチャラチャラ浮ついたオスだったし、警戒はしていたんだ。なのに、あのうつけ者! ほんのわずかな隙をついて……フェリチェにキスしたんだ!」

「……ふむ」

「カミュにだって、されたことないんだぞ! ……ぐおおお、また思い出してしまった!」


 フェリチェは怒号の勢いに任せて、テーブルに額を打ち付ける。


「ああ、ああ、もう」


 薄荷の精油を垂らした水で絞った手拭いを、イードはフェリチェの額に押し付けた。


「こんなに赤くしちゃって。後で酷くなるよ」

「どうにかして忘れたいんだ! だが、そうだ。その前に危険人物として図鑑に載せておかねば……!」


 そう言って筆を取ったフェリチェだったが、一文字とて書き出せないまま、紙にはミミズがのたうち回る。

 低く唸るように悶えて、またも額を打ちつけようとするので、イードはテーブルを遠ざけた。


「くっ……あのオスめ、よくも……ああ腹が立つ!」


 ペンを放って、整った髪を掻きむしる。顔もよく思い出せないし、名前だって知らないのに、唇の感触だけまざまざと蘇ってくる──と、フェリチェは肌を粟立たせた。


「ええと、どうしてそんな状況に?」

「わからん! ほんの一瞬だった!」


 不実な男レナードと同じコロンの香りを振り撒いて、軟派な調子で近付いてきたという。

 まるで隣り合った親友同士、肩でも組むかのような気軽さで、男はフェリチェの肩を抱いて引き寄せると、ちょっと話してチュッと触れていったらしい。


「あろうことか、他のメス友達にもやっていたんだ! あれはなんだ、色魔か? はっ……グンタを呼んで、しょっぴいてもらうべきだったな!」

「まあまあ、落ち着きなよ」

「落ち着けるか! ほんの一瞬でも、フェリチェにとっては一生ものだぞ!」


 永遠の愛を誓い手を取り合って、花々の香りとアンシアの風に抱かれながら交わされるのが、フェリチェの理想の口づけだ。


「降り注ぐ陽光のごとく、優しくそっと触れて……それから二人、見つめ合ってはにかむんだ。あんな……なんの風情もない、うぇーいなんて変な掛け声のキス……フェリチェは好きじゃない」

「なるほどね。状況と、チェリが思った以上に純情ってことはわかった」


 さて、記憶を消すには……とイードは自身の頭に作り上げた本棚から、手がかりを引っ張り出す。


「そもそも嫌な体験というのは、忘れようとするからこそ記憶に残りやすいんだ。チェリがいま忘れよう、忘れようとするほどに、記憶に焼き付けてしまっているんだよ」

「なんだとっ? では、どうしたらいいんだ?」

「悪い記憶を思い出しそうになったら、良い記憶を呼び起こせるように訓練するとか……どうだろう。まず、一つ一つ整理していこうか」


 そうしてイードは、フェリチェの記憶の数々を聴取して、紙に書き出していく。そうすることで、一見関係のないように見える事柄も、意外なところで繋がって、一つの記憶を作り上げていることが視覚的に捉えられるようになった。



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