失恋
放り出された断罪の剣にフェリチェは手を伸ばした。
たいして使い込まれてもいなさそうな豪奢な柄を、革のグローブ越しに握り込むや、フェリチェの手首に衝撃が走る。
不意に現れた何者かに、手首を叩かれたのだ。
剣を取り落としたフェリチェの前には、彼女を庇うように青年が立ちはだかっていた。
青年の頭には草木染の飾り布が巻かれ、短い髪とフェネットの白い耳が覗いている。フェリチェの鼻先では、白く細長い尾が揺れた。
「ルタ」
幼い時分より護衛として影に潜み、何かあれば颯爽と駆けつける青年を見上げれば、彼はフェリチェに一つ頷くのみ。静かにレナードに歩み寄った。
「な、なんだっ……フェネットの使用人風情が、僕に触れようものなら父上に言いつけてやるからな!」
フェネットの磨かれた爪は、岩をも切り裂く。
眼光鋭く近づいてくるフェネットの戦士に、温室育ちの坊ちゃんは身を竦ませ、情けない虚勢を張った。
ルタは身を低くしながら、ほんの刹那レナードを虫けらでも見るような目で睨み据えると、すぐさま面を伏せて両手を掲げた。
「姫の非礼をお詫び申し上げます。こちらは、長より預かりしフェネットの誠意。どうぞお納めください」
ルタが差し出したのは、絹布に包まれた見事な髪の一房だ。フェリチェと同じ白雪色の、豊かに波打った柔らかな髪だ。
「おおっ、これはフェリクス殿の髪か! ふむ、詫びとして不足ない、素晴らしい品だ。これならば向こう一年は遊……いやっ、療養に専念できそうだ!」
「お気に召していただけたようで……。それでは、これにて姫とのご縁はお忘れいただき、今後一切その名を口にされませんよう、お約束いただけますか?」
フェリチェには、ルタの頼もしい背中しか見えなかったが、どういうわけかレナードの顔は真っ青だった。
「ひっ……! し、承知した……」
「さすが、レナード殿はたいへん聡明で、理解のある素晴らしい御方でございますね。これでわたしも安心して里に帰ることができます――さあ、姫。帰りましょう」
「待って、ルタ。わたくし、まだこの破廉恥男に言いたいことが……!」
「帰りますよ」
ルタは問答無用でフェリチェを担ぎ上げると、風を切って人混みを駆け抜けた。フェリチェの罵倒は風切り音に飲まれ消えていく。
花も草木もフェネットに敬意を示すように、道を開けた。
※ ※ ※
街はあっという間に豆粒ほどに小さくなって、里の麓に来たところでフェリチェはようやく地に降ろされた。
「ルタ! なぜ止めた! あのまま剣を握らせてくれていれば、あいつを叩っ斬れたのに!」
「お嬢様が、本気でヤる気だったからに決まってるじゃないですか」
図星を突かれたフェリチェは、わずかに口をつぐんだ。
「人間と揉めるのは勘弁してくださいよ。ただでさえ我らフェネットは、乱獲と迫害で数を減らした一族なんですから。我らを受け入れ、共生の道を歩んでくれたアンシア公国との二百年の絆に、ヒビを入れるのはやめてください」
「それをわたくしに言う? 先にフェネットを裏切り、辱めたのはあの破廉恥男じゃないの!」
「そもそも、あの大馬鹿息子がクズ野郎だと気付いていないのは、お嬢様くらいでしたよ」
「何ですって!」
ルタはやれやれと肩をすくめる。
「だからフェリクス様が俺に被毛を持たせたんですってば」
「だったらどうして、誰もわたくしに教えてくれなかったの? 知っていたら、こんな思いをせずに済んだのに」
「まあ、そのへんのお話もあるでしょうから、フェリクス様のもとへ帰りましょうね」
麓を渡る風に、微かにふくよかな果実の香りを感じて、フェリチェは目の端に涙を滲ませた。
甲斐性無しの浮気野郎と知っても、恋をしていた想いも時間もフェリチェにとっては本物だった。初めての恋は儚く散って、野アザミの棘を刺したように胸がちくちくと痛んだ。
「……本当に、本当に、憧れだったの」
「ええ、ええ、知っていますよ。俺はいつもお嬢様の影に潜んで、その眼差しを見てきたんですからね。今日くらい、わんわん泣いてもいいんじゃないですか」
「泣くものか。フェリチェは気高いフェネットで里長フェリクスの子。失恋くらい、蚊に刺されたようなものだわ……泣いたりなど……」
虚勢を張れたのもそこまでだ。言葉を募らせるほどに、語尾は滲み、フェリチェの短く丸っこい眉はいびつに歪む。
「ふっ、……ふえぇーん」
「はいはい。いいですよ、好きなだけ泣いて。落ち着いてから、帰りましょうね」
素敵な殿方と素敵な恋をして、フェネットの伝統衣装で結婚式を挙げる――それがフェリチェのささやかな願いだ。よりによってめでたい成人の日に、夢を砕かれるとは思いもしなかった。
『拝啓。星々のお庭にお住まいのお母様。
フェリチェはどうやら、失恋というものをしたようです……』