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愚か者が!


 すると、願いが通じたのか、玄関の戸が叩かれた。軽やかなノックと、扉の向こうから太いが温かみのある声が聞こえる。


「見回りで近くまで来たので、ご機嫌伺いに参りました。坊ちゃん、フェリチェ殿ー。いらっしゃいますか?」


 藁にもすがる思いで、フェリチェは声を上げた。


「……グンタだっ! ほら、イードっ……グンタが来たぞ!」

「大丈夫だよ、ギュンターだから」

「何がだ!?」


 気配はあるのに返事のない主人を、ギュンターが不思議がる様子が表から伝わってくる。


「ほらっ、グンタが心配してるぞっ……出てやらねば……」

『君とこうするために、俺は生き延びてきたんだ』

『イ、イ、イードさんっ! いい加減になさって!』


 抱きすくめる腕に力が込もって、ちっとも抜け出せない。程なく、困り果てたフェリチェの背後で、扉が躊躇いがちに開かれた。


「勝手にお邪魔して申し訳ない。坊ちゃん、大事ありませんか――。こ、これはっ……!?」


 可哀想に――、ギュンターが目にした光景といったら……。心配ゆえに無礼を承知で侵入したというのに、お仕えする主人はことに及ぶ一歩手前……といったところか。

 しかも相手は、いつもギュンターを懐っこい笑顔で迎えてくれる、フェネットの乙女。それは内心では喜ばしいことであったが、驚いたのは娘の格好である。顔に巻かれた布は、どう考えても視界を奪うためのもので、いささか変わった趣向の情事をお楽しみなようにしか見えなかったのだ。


 ひとがいい、を体現した柔らかなギュンターの笑みが一瞬にして凍りつく。


「こ、これは……失礼をいたしましたっ。お二人が既にそのような仲にあったとは……。出直して参ります。ど、どうぞごゆっくり……!」

「ちょ、ちょっと待て、グンタっ! 誤解だ! おいっ! お前の主人だろ、何とかしてから行け! 待てっ、グンタあああ……っ」


 慌てたギュンターは、扉も開け放したままで行ってしまった。無情にも、彼のしゃっきりした木々のような香りは、フェリチェの鼻からぐんぐん遠ざかっていく。


「おい、イード! グンタだが、どこが大丈夫だ!? 何かとんでもない誤解をしているぞ!」

「ああ……そう。いいんじゃない? 誤解じゃなくしてしまえば」

「いいわけあるか! いい加減にしろ!」

「いい加減……素直になるのは、チェリの方だろう?」


 耳朶を震わす甘い声とともに、指先が尻尾の付け根に届いた。


「い、嫌だ……こんなの、嫌だっ。いつものイードに戻ってくれ!」


 その時、玄関から一陣の風が吹き込んだ。新鮮な空気が鼻を掠め、イードはくしゃみを一つする。すると、フェリチェを捕らえていた腕が、するりと潔く離れた。

 イードは覚醒を促すように、頭を振る。柔らかに波打った髪が、ふわりと揺れた。


「俺……どうかしてた、ね?」

「フェリチェに訊くことか、馬鹿者!」


 いつもの、のんびりした調子にフェリチェは少し安堵した。だが、確証なさそうに尋ねてくる声には、苛立ちが募る。

 拳を振り上げ、ところ構わず叩きつけた。


「イードの馬鹿者っ、もう知らん! 頼まれたって金輪際、触れさせてなどやらないからな!」

「いてっ、いたた……ごめんって、これにはわけが……」

「うるさいっ、黙れ!」


 闇雲な拳でも、それなりに狙いすましたようにイードを攻撃できている。だが彼に一番の打撃を与えたのは、叩きつける威力によるものではない。フェリチェの震えた握り拳、そのものだ。

 イードは胸を打ち据えられる寸前で、フェリチェの拳を絡めとった。毛を逆立て、フェリチェは威嚇する。


「触るなと言ったばかりだっ……」

「チェリ。聞いて」


 イードは引っ掻かれても、フェリチェの手を離そうとはしなかった。その意志は堅いが、先程までの強引さは欠片もない。片手は震える手をそっと包み、もう片方の手で固く結ばれた目隠しを外しにかかる。


 しばらくぶりの明るい世界に、フェリチェは目をしばたたかせた。ぼんやりした輪郭がだんだん像を結び、すっかり見慣れた、イードの均整の取れた顔が目の前に現れる。

 変に笑顔で取り繕ったりしない、いつも通り……目の前の観察対象に注がれる真摯な眼差しがあるのみだ。その深い緑色の瞳の中には、今にも泣き出しそうな、フェネットの娘が映り込んでいた。


「ごめん、怖かったね」

「当たり前だ! フェリチェは発情期で……、もし……、もしあのままだったらどうなっていたと思う。私生児をもうけることは、フェネットにとって最大の不名誉なんだぞ!」

「分かってる、ごめんよ。何を言っても、無責任な男にしか聞こえないだろうから、俺から伝えられるのは観察結果だけだ」

「お前はっ、こんな時にもそんなことばかりっ……」

「聞いて。今後、チェリを守るために大切なことだ」


 昔話をしている時でさえ見せなかった、真剣な眼差しで請われ、いつまでもわめいてばかりいられないことをフェリチェは悟った。息を整えて耳を傾けると、イードは小さくありがとうと微苦笑を零し、話し始めた。



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