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今そこにある日常


 それからイードは、前に自分がそうされたように、両の(かいな)でフェリチェを包み込むと、服が涙で濡れるのも気に留めず、泣き止むまでじっと待った。


――きゅううううう……くるるぅぅ……。


 やがて、イードの腕の中で、泣き声とは別の小さな鳴き声があがって、フェリチェの涙は唐突に引っ込んだ。

 泣きじゃくった頬が、途端に真っ赤に染まる。


「これはっ、その……違う!」

「何が?」


 小さく笑って、イードは無造作に放置された紙袋を引き寄せた。


「そろそろお昼にしようか」


 まだほんのり温かな袋をフェリチェに傾ける。開いた口から、しっとりと甘い香りが立ち昇った。

 卵とバニラ、カラメルの香りが合わさったそれは……。


「プリンか!」

「そう、好きだよね。でも今日は、ただのプリンじゃないよ。なんと……」


 イードが袋から取り出したのは、ほんのり黄味がかった山型に膨れたパンだ。


「グゥタンのパン屋の新作、プリンパンだよ」

「ふぉおおっ……」


 手渡されたパンを見つめる瞳が、涙を弾いてきらきらと光り輝いた。

 フェリチェは大きな口で、一思いにかぶりつく。

 ふわふわ柔らかいパンの中から、濃厚で優しい甘さのプリンが舌の上にとろけ出した。

 さっきまで泣いていたのが嘘のように、フェリチェの顔に笑顔が戻る。


「……やっぱり俺は、こっちの方がいいな」


 イードは形は同じだが、色味の少し異なるパンを頬張りながら、ぽつりと呟いた。


「うん? イードは何を食べているんだ?」


 王子なんてものよりも、こうしてフェリチェを観察している方が幸せだと言ったつもりだったが、そうは取られなかったらしい。

 フェリチェは鋭い嗅覚で、イードのパンの匂いを嗅ぎ分けた。


「わかった。プリンはプリンでも、南瓜(カボチャ)だな」

「正解。さすがだね」


 すっかり気分を持ち直したフェリチェは、得意げに胸を張った。


「それならさ。さっきからしている、この匂いにも気付いてる?」

「む? 何のことだ?」

桜桃(サクランボ)のような、甘酸っぱい香りがしているんだよ。てっきり、チェリが何か食べたか、コロンでも付けたんだと思っていたんだけど」

「何もしていないぞ」


 フェリチェは首を傾げつつ、鼻をひくつかせた。イードが言うような香りは、フェリチェには何も感じられない。


「もしや、鼻がちゃんと利いていないのか? イード、試しに何か他の匂いで実験してくれないか?」

「いいよ」


 目下、フェネットに興味津々のイードにとっては、姫の申し出は願ったり叶ったりだ。


「それじゃあ今日は、チェリが楽しめるように、遊びながら観察しようか」


 昼食を終えてから、イードはそう切り出した。


「これから俺がいくつか果物を用意するから、チェリはそれが何か……嗅覚を頼りに当ててみて」


 差し出された布に、すぐさま合点がいったフェリチェは、早速それを巻き付けて目隠しをした。


「いいぞ、受けて立とう!」

「じゃあ最初はこれだ」


 イードの手は、果物かごから林檎を掴み取る。それをナイフでくし切りにするや、フェリチェの耳はしゅんと垂れ下がった。


「すまない、イード。フェリチェ、ズルした。今のは音で分かってしまったぞ。林檎だろう?」

「そうだけど、音で色までは分からないんじゃない? 皮は何色だと思う?」

「この青々と爽やかな甘い香りは……黄緑色の林檎だな?」

「正解。はい、ご褒美にお食べ」


 うさぎの耳のように皮を残して剥かれた林檎が、フェリチェの口の中で瑞々しい甘みを弾けさせた。

 その後も次々と果物が剥かれては、フェリチェの口に運ばれていく。


「じゃあ次は……」


 お次は少し離れた所で試みようとキッチンに移動したイードは、悪戯するつもりで、ある壺の蓋を取った。

 すると、ソファにいるフェリチェの尻尾の毛が一瞬にして逆立った。


「それ、臭いやつ! あの酸っぱいプラムだろう! やめろ、匂いだけで唾が止まらない!」

「すごいなあ、よくわかったね。ご褒美をあげよう」

「いらん! 持ってくるな! フェリチェは絶対に食べないからな!」

「はいはい」


 たいへん不評なため、さっさと壺をしまって、イードは次の実験は何にしようかと、思考を巡らせる。


「それだけ鼻が利くのなら、俺がどこかに隠れても見つけられたりする?」

「いつもと調子が変わらなければ、可能なはずだ」


 フェリチェは鼻をひくつかせる。いまだ、イードの言う桜桃の香りは見つけられない。


「じゃあ、試してもいい? 十数えるうちに隠れるから、チェリは匂いで俺を探して」

「わかった。今度はズルしないように、耳も塞ぐぞ」


 フェリチェはやる気満々だ。目隠しをさらに膝に埋め、両手でしっかりと耳を押さえつけた。



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