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イードの日記


 ※ ※ ※


 だが幸いにして、フェリチェの初めての変調に、そのような兆候は見られない。体が疼いて仕方がないのは、被毛の変化によるむず痒さであって、性的に興奮しているといった類のものではない。


「ふぬぬぬぬ……ダメだダメだダメだ! 痒い、くすぐったい! ううううぅぅ!」


 毛穴を柔らかいものでほじくり返されるようなむず痒さに襲われて、フェリチェは髪を掻きむしる。イードが出かけてから小一時間、寝台で七転八倒していた。


「ううう……辛抱ならん!!」


 たまらず身をよじると、勢い余って寝台から転げ落ちた。その勢いは本棚にぶつかるまで止まらない。


「いっ……てて……お? ムズムズが消えた?」


 じんじんとした痛みで、図らずも体の疼きを忘れることができた。

 しかしその一方で、逞しい体でフェリチェを抱き止めてくれた本棚は、自らに収められた蔵書の一部を犠牲に払った。

 床に投げ出された本はページが折れてしまって、見るからに痛々しい。


「ああっ、すまない」


 フェリチェは一ページずつ折り目を撫で、優しく埃を払って本棚へと戻す。

 何気なく拾い上げた何冊目かの書物から、ひらりとページの断片が抜け落ちた。実際には綴じ込んであった紙が落ちたものだが、破損してしまったと思ったフェリチェの手は慌ててそれを追いかけた。


 摘んだ紙切れは、古い新聞の切り抜きだった。


『オーウェンの悲劇!

 ヒルダガルデ渡航中に失踪したヴェイルード王太子に続き、ルェディ第二王子が病死!

 王太子の捜索が急がれる』


 挟まれていた本に戻そうとして、フェリチェはぎくりとした。手にしていたのは、イードが日記帳と言っていたものだったからだ。

 抜け落ちた記事を差し込むためにページをめくるも、どのページも同様にオーウェン王家に関する新聞の切り抜き記事や、走り書きばかりだ。


『続報。ルェディ王子死亡の裏に、ヴェイルード派の影!? 毒殺か――。

 オーウェン王国は、第一王子の捜索を断念。王位継承権を第三王子エディールに譲渡することを暫定的に決定する模様……』


「これが、イードの日記……?」


 そばに置くには重いが、捨てるには惜しい。そう語ったものが彼の「昔」なのだとしたら……。

 フェリチェは日記帳を閉じて、天井を仰いだ。


「イードは……何者だ?」




 ※ ※ ※



「ただいま。遅くなったから、お昼は買ってきたよ……あれ?」


 イードは室内に満ちた桜桃のような甘酸っぱい香りに、鼻をひくつかせた。

 ソファの背もたれの向こうに、桜色の尾が揺れている。


「ごめん、お腹が空いてた?」


 待ちきれずに何かつまんでいたのだろうと、イードはキッチンと、ソファに沈み込んだフェリチェとを見比べる。

 振り返ったフェリチェの耳は、ばつが悪そうに垂れている。


「イード、すまない。フェリチェは、お前の秘密を覗くつもりはなかったんだ。だのに……」


 簡素な作りの雑記帳を、フェリチェは恐る恐る差し出した。


「本を落とした拍子に、中を見てしまった。すまない……」

「ああ、そう」


 小さく震えるフェリチェの桜貝の指先と違って、イードの表情は一つも動かない。いや、少しは変化もあったが、口調と同じで実にあっけらかんとしたものだった。


 イードは自身の雑記帳を受け取ると、中を検めるように本を開いた。


「前にも言ったけど、見られて困るものなら不用意に置きやしないのだから、気にしなくていいよ。……とは言え、チェリをこうして悩ませることになるなら、俺も少し考えればよかったのか。ごめん、ごめん」


 ページをめくりはするも、身を入れて読む様子はない。


「……秘密でないのなら、訊いてもいいか」


 ページをめくる音が、相槌のように響く。少なくともフェリチェには、それが拒否されているようには聞こえなかった。


「イードは……、オーウェン王家と因縁が……。いや、単刀直入に訊くぞ? オーウェン王家に連なる者か?」

「そうだねぇ」


 まるで他人事のように、あまりにも淡々と言ってのけるので、フェリチェは面食らう。

 そうだ、と肯定されたら大いに驚くつもりの心構えはしていたが、まさかイードがこんなに勿体ぶりもせず答えるとは思っていなかったのだ。






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