イードとギュンターと模様替え
明くる朝、イード宅の扉が叩かれた。
尻尾を揺らし、リボンと戯れていたフェリチェの耳がご機嫌に反応する。
ソファから跳ね起きると、手が離せないイードに代わり、客人を招き入れに向かう。慣れた様子の小気味良いノックで、誰が訪ねてきたかは一目瞭然だった。
「やはりグンタだ。今日も早いな」
「はい、その通りギュンターです。おはようございます、フェリチェ殿」
室内に足を踏み入れた中年の男は、聳える巨軀を丸めて、にっこり微笑む。
ギュンターは自警団の一員で、フェリチェのスられた財布探しを率先して引き受けてくれた人物だ。結局中身が戻ってくることはなかったが、狼藉者を成敗してくれて、汚れてしまった財布を綺麗にして手元に戻してくれたりと、頼りがいのある男である。
大きな体に加え、野生的に顔を覆った焦茶の髭と眼帯に隠された隻眼とで表情が読めず、恐れをなしたのは初めだけだ。その人柄に似合う、穏やかで丁寧な物腰にフェリチェはすぐ心を許した。
「本日はグウタンのパンを手土産に持って参りました。素朴で小さな店ですが、この優しい味わいは他の店にはない魅力ですよ」
「いつもありがとうな。グンタの土産は、どれも美味くて大好きだ!」
「それは光栄です。して……」
ギュンターは室内をぐるりと見回す。
「イードなら、奥の部屋にいるぞ。掃除中だ」
噂をすれば……というやつで、たくさんの書物を抱えたイードが、肩で扉を押し開けるようにして奥から現れた。
崩れ落ちそうな本を支えに、ギュンターはすぐさま駆け寄る。
「坊ちゃん、これまた無茶をなさいましたな」
「ギュンターの声がしたから、きっと手を貸してくれると思ったんだ」
初めて、ギュンターがイードを坊ちゃんと呼ぶのを聞いた時、フェリチェはそれがとても不思議だった。
どうしてなのか尋ねると、イードはギュンターのことを、家族ではないが家族のようなものとだけ答えた。それでフェリチェは、彼らの関係は自分とルタのようなものなのだと思って納得している。
フェリチェはイードを信用の置ける家主だと思ってはいるが、彼の素性は全くと言っていいほど知らない。共に生活しながらフェリチェもまたイードを観察し、知らないなりに納得できる答えを探しているところだ。
坊ちゃん、と呼ばれるからには、それなりにいい身分の出なのだろうと、フェリチェは結論している。
実際、イードはこれといって仕事をしているふうでもなく、日々のほとんどを好奇心の赴くまま知の探究に充てている。それでいて当初の言葉通り、本当に金には困っていない様子だ。
それにギュンターも、自らを傭兵あがりのしがない自警団員だというわりには、所作に品があり、貴人に従う侍従然としている。
いったいどういう出自なのか気にならないでもなかったが、フェリチェもイードに倣って深く詮索するつもりはない。
二人の力関係は明確で、この日も、采配を振るのはイードだ。
「今日は大幅に物を動かしたいんだ」
「喜んで、お手伝いいたします」
ギュンターが非番の日には、その屈強な体から生まれる剛力を頼りに、イードは定期的に家の大掃除をする。家具を悉く動かして、隙間に落ち込んだものがないか徹底して確認するのだ。
かつて、ユーバインで手に入る果実の調査をしていた際に、知らぬ間に家具の隙間に入り込んでいて、悲惨なことになった経験からだという。
「奥の部屋を空けて、寝台を一つ運び入れたいんだ」
「おや、寝室を移されるので?」
「いいや、彼女の寝床を作りたくてね」
思いがけず、お鉢が回ってきたフェリチェは慌てて遠慮した。
「フェリチェはいつまでも、ここにいるわけじゃない。ソファを借りられるだけで、十分よくしてもらってる」
「そうは言っても……、夜中にソファから落ちてない?」
そんな音がする、とイードが言う通り、フェリチェの肘や膝には真新しい青痣が咲いている。
「そ、それはフェリチェが寝るのが下手なだけだ。イードが気にすることじゃない」
「気になって睡眠を妨げられるから、部屋用意しようねぇ」
「おい! 話を聞け!」
「フェリチェ殿、こうなったら坊ちゃんは引きませんよ。諦めて、居心地のいい部屋をともに作りましょう」
ギュンターは微笑みながら、諭すようにフェリチェに首を振ってみせた。
* * *
フェリチェに与えられたのは、イードが捨てるに捨てられないでいた書物を押し込んでいた部屋だ。本さえどけてしまえば、部屋作りは容易いものだった。
埃を掃き出して磨き上げた床に、寝台と机と椅子を並べれば、立派な一人部屋の完成だ。
本棚には、取捨選択を繰り返して厳選された蔵書が並べられているが、どれもフェリチェにはちんぷんかんぷんで、手を伸ばす気にもならない。
「これも一緒にしまっておいて」
イードは、他のものに比べたら粗末な見かけの書物様のものを本棚に押し込んだ。
「なんだ、それは」
「俺の昔の日記帳。見てもいいけど、面白くはないよ」
「坊ちゃんっ」
ギュンターがどこかはらはらした面持ちで、訴えるようにフェリチェを見つめる。
そんなに重大な秘密でも書かれているのかと気になったら、その一冊だけがオーウェン書体さながらに目についてしまう。
だがまるで、それ自体がイードに試されているようで、フェリチェは本棚から顔を背けた。
「気にはなるが見ないぞ。お前が昨日言ったのと同じだ。フェリチェにも、他人の秘密を暴く趣味はない。安心するがいい」
「君ならそう言うと思ってたよ。まあでも本当に、見られても問題ないから置くんだし、そこまで構えなくていいよ」
「坊ちゃん! ギュンターめは……、フェリチェ殿は信用に足るご令嬢だと認めますが、いささか不用心では」
日記の書き手は淡々としているのに、ギュンターの方が切羽詰まった様子だ。
「そう? じゃあギュンターが持って帰る?」
「い、嫌ですよ。それこそ人目についたら困ります」
などと押し問答を繰り返している。
「イードが自室に置けばいいだけではないのか?」
フェリチェは何気なく……当然といえば当然の助言をした。すると珍しいことに、滅多に顔色を変えないイードが、わずかに自嘲するように笑んだ。
「捨てるには惜しいけど、常にそばに置くには重くてね。いつもは忘れている程度に、どこかに紛れていてくれればいいんだ」
「……よくわからんが、そういうものなのだな。ならばわかった。フェリチェも気にしないようにする」
「君って本当に素直だなぁ」
「恩に着ます、フェリチェ殿。イード坊ちゃんはこのように何かにつけて無頓着なところがおありですが、その記録ばかりは門外不出でなければならないのです」
ギュンターがあまりに深く頭を下げるので、薄れた好奇心が首をもたげないでもなかったが、彼の真剣さに敬服して、フェリチェは絶対に秘密を見たりしないと誓った。
それが後に、己の運命を大きく動かすきっかけになろうとは、知るよしもなかった。
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次回は少しニッチな研究をいたします
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