プロローグ
始まります
視点(とある村娘)
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」
すっかりと夕暮れに包まれた薄暗い森の中をひた走る。見慣れた景色のはずなのに、なんだか木々の影が不気味に見えるのは気のせいか、それとも恐怖か。
私は逃げていた。あの得体のしれない何かから。おそらくは、魔物。なぜか、人のみを襲う凶悪な存在。動物や魔獣などとは違い、人しか襲わないのだという。
初めて見たので、実際に魔物なのかは分からない。けれどあんな恐ろしいものを見たのは初めてだった。あんな…、見ただけで恐怖を心に刻みつけられるような…。
「っ…、あぐぅっ!?」
先程の魔物の姿を思い出したせいか、ずっと走ってきて溜まった疲労のせいか。足がもつれ、そのまま木の根に足を引っ掛けて転んでしまった。
まずい。早く走らなければ。走って逃げなければ…!
そう思うのに、もう体は動いてくれなかった。足は鉛のように重く、息苦しさで胸が苦しい。全身は汗で濡れ、髪が顔に張り付く。
しかし、そんな不快さもどうでもいい程に、私の心は恐怖でいっぱいだった。
怖い…!死ぬ…!殺される…!喰われる…!
両親は私がまだ成人する前に魔物に殺されてしまったという。残されたのは私と、まだ言葉も喋れない程に幼い妹。
今では舌足らずながらも言葉を話せるようになった妹を思うと、後悔が込み上がってきた。
やはりやめておくべきだったと。村の人達からは、最近の森はおかしいと聞いていた。曰く、動物たちがほとんど姿を見せなくなったと、なにか不吉の予兆かもしれないと。
今朝も冒険者たちが、薬草採取とここ周辺の調査をするためにこの森に入っていった。
大人しく、冒険者たちが解決してくれるのを待てば良かったのに、私が商っている商品の在庫が心もとなかったので、少しくらいならと大丈夫と思ったのが間違いだった。
ガサッ。
「っ…、ヒッ!?」
私の背後、生い茂った草の影から、追跡者が姿を表す。その全貌を一言で言い表すとするならば、狼や、その系統の動物。
しかし、狼などでは決してない。
足は、全部で7本あった。左足が3本、右足が4本。尻尾は付け根から二股に分かれ、その先には鋭利な刃物のようになった、おそらくは骨のようなもの。
頭も同様、狼と似ているのはあくまでシルエットだけで、全く異なるものだった。
目は8つもあり、右目左目と分けるのが馬鹿らしくなるくらい、バラバラな位置にあった。その規則性も何もない目は、しかしその視線だけは全くの同じ。獲物である私だけを見ていた。
グルルッ…!
追い詰めた私を嘲笑うかのように、口を開く。十字に。
上顎、下顎があるのは狼と一緒だが、人間で言う頬の部分も横へと開き、その内側からは長さ、形が不揃いな牙が生えているのが見えた。
その口からは、よだれをたれ、私という餌をどう喰らおうか吟味しているかのようだった。
ただでさえ追い詰められているのに…。
ガサッ、ガサガサッ…。
続けて2体、同じ魔物が出てきた。よく見れば、足の数、目の数や位置、口の形まで、最初の個体とは異なっていた。
これが別種の魔物なのか、ただの個体差なのか、私には分からない。冒険者ならば分かるのだろうか。
その2体は、私をさらに追い詰めるように、ゆっくりと左右に別れ囲んでくる。まるで、私の恐怖心を煽るように。
こらえていた涙が溢れる。もう駄目なのだと悟る。立ち上がる気も起きない。私は絶望で埋め尽くされた。
ごめんなさい、妹、不甲斐ない姉でごめんなさい…。
目を閉じ、胸の前で震えを抑え込みながら手を組む。己の命運を諦め最後に祈る。
ああ、女神フィオナ様…、せめて、あの子の未来に幸があらんことを。
魔物がこちらに近寄ってくる気配がする。さよなら…、トリシャ…。
魔物の吐息がかかるのを感じ、次の瞬間ーー
ギャンッ!!
感じたのは痛みではなく、耳に届いた魔物のものと思しき声。
「大丈夫ですか!」
次に聞こえたのは人の声。ハッとして顔を上げ、目を見開く。
そこにいたのは、可憐な少女だった。年の頃は私と同じだろうか、もしかしたら年下かもしれない。髪の色はとてもきれいな黄金色。少し、汚れてはいたが、とても丁寧に手入れされているのがわかった。
顔立ちはどこか幼さの残っているが、とても可愛らしく、何よりも整っていた。少しタレ目がちで、唇はきれいな桜色、肌は白雪のよう。
そんな少女が、私と魔物の間に立ちふさがっていた。
「あ…なたは…?」
「私はーー、っと!」
名を答えようとしてくれたのか、口を開いた少女だったが、突如襲ってきた魔物に即座に反応し、噛み付いてきた凶悪な口を避ける。
そうだった…!魔物に襲われているのだった。少女のあまりの美しさに忘れてしまっていた。
「大人しくしてなさいっ!!」
少女は、噛み付いてきた魔物の横っ腹に蹴りを放つ。少女の細い足では大して効かないと思っていた私の予想は。
ドゴォッ!!
ギャンッ!!
まるで、風に吹き飛ばされる紙の如く吹き飛ばされ、木に叩きつけられた魔物を見て、裏切られた。
魔物はそれきり沈黙し、ピクピクと体を痙攣させているだけだった。よく見てみれば、他にも1体、同じように木に叩きつけられたのか、地面に倒れ伏し動かない魔物がいた。
おそらく私に近寄ってきていた魔物だと思う。
あっという間に、魔物を蹴散らし、悠然と立つ少女。それを私と、残された魔物が見ていた。魔物は少女が、1歩歩んだのと同時に、踵を返し逃げ出した。
「あっ!逃げられちゃった…。まあいっか!それよりも、大丈夫でしたか?」
少女は何事もなかったかのように振り返り私に声をかけてきた。一瞬、話しかけられたと気づかずに呆けてしまい慌てて口を開く。
「…あ、は、はい!あっ、あの、ありがとうございましたっ!!」
「いえ、助けられたのなら、何よりです」
少女は私に手を差し出し、立ち上がらせる。その時、足に鋭い痛みが走った。どうやら、転んだときに怪我をしたようだ。
「怪我ですか?見せてください」
少女はまた私を座らせて、私の足を見る。応急処置でもしてくれるのだろうか?
「ん〜、たぶん捻挫ですね。骨に異常は無さそうです。このままじっとしていてください」
そう言って、少女が私の足に手をかざしーー
ガアアッ!!
「えーー」
「なっ?!」
魔物が草むらから飛び出した。
おそらく先程逃げ出した個体。まさか、逃げたと思わせて、隠れてタイミングを伺っていたの。魔物が狡猾とは聞いていたけど、こんなことまでするなんて。
完全に不意をつかれた状態。少女は背後を振り返る。私はただ見ているだけしかできない。
段々と、スローモーションのように周りの動きが遅くなる。
魔物の鋭い牙が、少女の首を噛み切らんと迫る。少女はまだ体制を整えている最中。このままでは、少女が死んでしまう。
魔物の牙が、少女の首筋に近づきーー
ギャア!!
突如、魔物の姿がかき消える。
それとほとんど同時に、離れたところから魔物の叫び声が聞こえた。
「あっ?」
「えっ?」
私と少女は呆けた声を上げて、魔物の声のした方を見る。そこには、魔物の頭を横から貫きそのまま木に縫い付けるようにして刺さった金属の棒が突き刺さっていた。おそらく、槍のようなものだと思う。
「油断すんなよ…」
声が聞こえた。男の声。またしても少女と一緒に声のした方へと振り向く。
くすんだ灰色の髪。特に整えたりはしていないその髪は、前髪は目元を隠すくらい伸び、頭頂部から後頭部にかけてはボサボサで、毛穴からまっすぐそのまま伸びたかのようにツンツンとしていた。
顔立ちはとても整っているように思えた。なぜ整っていると断言できないのかといえば、それは彼の持つ目が理由だった。
髪と同じくくすんだ赤色の目。その目は正しく死んだ目と形容する他ないほどに虚ろだった。深く眉間に刻まれたシワは彼のその目つきをさらに鋭くする。
もしも、すれ違ったのなら、絶対に目を合わせてはいけない。そう思わせる程に暗く鋭い目つきだった。
「シ、シルバさん…」
少女が彼の名を呼ぶ。知り合いだろうか。おそらくこの人があの魔物を倒したのだろう。シルバと呼ばれる男の人が再び口を開く。
「詰めが甘いんだよ、小娘」
「うっ…、ごめんなさい…」
シルバと呼ばれた男の人が、少女を小馬鹿にするように、そう言った。