珍種の果実はおやつに
大学生活とは奇妙なもので、忙しい時と余裕のある時の落差が激しい。理系の研究室にいる紫音の場合、実験の前後は忙しいが、それ以外の日はそこまでだったりする。
同じ研究室では部活や就職活動にいそしむ者が多いが、どちらも関わりのない紫音は、自室でのんびりすることが多かった。少し前までは―。
「……これ?」
「 ”ミミズ” ね 。にょろにょろでしょ」
春先の心地よい風がそよぐ休日、紫音たちは外の世界に少しずつ慣れる練習としてマンションの屋上に来ていた。
屋上の一部は庭園になっており、芝が大部分を覆い花壇には色とりどりの花が植えられている。平日の昼過ぎという事もあり、この場にいるのは2人だけだった。
少女の掘り起こした石の裏には、何匹かの昆虫が眠っているようだった。
「ニョオ、ニョオ……。それ?」
「そっちは "ダンゴムシ"。ごろごろね」
「ゴリ、ゴル……?」
「ごろごろよ」
出会ってから数日が経ち、少しずつ栞との共同生活にも慣れ始めた。初日は緊張であまり眠れていないようだったが、今ではリビングにあったウサギのぬいぐるみをベッドに連れ込んでいる。朝には床に蹴り落されているので、寝相が良いとは言えないかもしれない。
言葉の方も栞の学習能力が高いのか、最低限のコミュニケーションはとれるようになった。大抵の子供が1年近くかける学習を、僅か数日で追い越す勢いだ。今では目に映るもの全てを指差し、名前を記憶にインプットしているらしい。
「アレ?」
「あれは……うわっ」
不意に栞の指差した先には、黒いスーツに身を包んだ女性が1人、人懐っこい笑みを浮かべてこちらに手を振っていた。
橋尾 民矢という小説家は、世間の誰もが知る現代の文豪だ。作品傾向は現代文学から時代物、ファンタジーやSFなど数知れず。ありとあらゆる文学賞を受賞し、映像作品や舞台になれば殆どが高評価を獲得するほど。
だがその正体は謎に満ちており、栄えある授賞式でも感謝の文面を提出するだけで、その素顔を知る者はいないとされていた。読者の間では海外の奥地に住んでいるという説や、実は既に亡くなっていて弟子が引き継いだものを発表しているなど、考察が後を絶たないほどに。
しかし紫音の向かいに座り紅茶を口にする女性は、謎の文豪を正体を知っていた。
「それにしても驚きでした。橋尾先生に、隠し子がいたとは」
「違います……遠い親戚の子を預かってるだけです。それと、その名前で呼ばないでください」
「あぁなるほど。綺麗な子ですね」
突然の訪問者に、栞は紫音の背後に隠れ飼いたての小動物のような反応を示した。
訪問者の名は、小鳥遊みゆき。都内の出版社に勤め、橋尾 民也―もとい紫音の担当編集でもある。
チェストブラウンの髪を肩ほどで揃え、手には控えめなネイルが施されている。一見すれば若手の新入社員と言ってもおかしくない風貌だが、実年齢は30前後だとか。前にそのことを指摘したら半泣きで怒られたので、紫音は締め切り間近でない限りはその話題に触れないようにしている。
みゆきは麦茶を飲み干すと、鞄からタブレットを取り出して眼鏡をかけた。みゆきが仕事の時に愛用しているものだ。
「では早速、次回作の打ち合わせを―……」
「出口はあちらになります。お帰りください」
玄関の方を指差す紫音に、みゆきは目を見開いて身を乗り出した。その形相は必死そのものだ。
「そんな事言わないでください!お願いします、世間が先生の新作を心待ちにしてるんですよ!」
「……本音は?」
「先生の新作を、読みたい季節になったなぁ……と」
「さようなら」
「あぁ待ってください!」
やれやれと、紫音はわざとらしくため息を漏らしながらも椅子に座り直した。
一般的に、新刊を出すのには全ての工程を含めると半年から1年を要する。20万にも及ぶ字数を書き、それを人の眼でチェックするのだから、それ相応の時間と労力が必須なのだ。
紫音は高校生の頃から出版社に原稿を提出し、今日まで12冊の本を世に放っている。半分以上は高校時代に書き上げたもので、そのおかげで大学生になった今でもバイトをしないで、都心のマンションに住めているのだ。
「高校生の頃の早見さんは凄かったですよね。週に1本ペースで持ち込みなんて、今までいませんでしたよ。しかも手書き原稿で」
「……まぁ、高校は退屈だったから好きなだけ執筆作業ができただけですよ」
「それなのに、成績も学年20位以内って化物ですか」
「私の周りには努力不足の人が多かっただけです。授業なんて、書きながらでも聞いてれば嫌でも頭に入りますから」
「あぁ……先生の交友関係が大学生になっても狭い理由を垣間見た気がします」
「三十路の独り身……」
「お?」
「いえ、なんでも」
必殺の切り札を出しかけたが、今回はそれでも引いてくれない様子だった。
最後に本を出したのは1年と半年ほど前、大学1年の夏だった。その頃まではまだ時間に余裕があったのだが、すぐに実験やレポートで多忙になり、今日まで橋尾民也の新作は出ていない。
『これ以上期間が開くとファンが離れていってしまいます』と、みゆきはいかにもな理由を話しているが、編集部に新刊を書かせるよう命令されたのだろう。本が売れれば、出版社が儲かるのは当然の話だ。
「はぁ……わかりました。今年中に一本、やれる所までやってみます」
「本当ですか?!」
諦めて了承した紫音に、みゆきは泣きそうになりながらも安堵のため息を漏らした。
「あくまで努力するだけです。ただその代わり、条件があります」
「な、なんでしょうか……」
ごくりと生唾を飲み込む彼女に、紫音は冷蔵庫からボウルを取り出して差し出した。中には、たっぷりに溜まった卵があった。
「卵が大量に余ってるんです。一緒に食べるの、手伝ってください」
「この量どうしたんですか?というか私、今ダイエット中でタンパク質をあまり取りたくないというか……」
「年内、新作」
「ぜひ食べさせていただきます!」
元気の良い返事を背中に、紫音は栞を連れて再び屋上に戻っていった。