怪鳥たまごのふわとろオムライス
―Fact is stranger than fiction.
事実は小説よりも奇なり。イギリス人の詩人の遺した一説で、幼いころから小説に触れることの多かった私は、成人してもそんな事はないと考えていた。
目に映る代り映えのない退屈な日常に比べれば、本の世界はいつだって自由で無限大だ。誰もが綴った文字は、本という狭い空間のでも夢幻の光景を見せてくれる。
彼女に会うまでは。
「……女の子?」
夜に輝く金糸のような髪に、新雪のような白い肌。神話に描かれる天使のような少女に会ったのは、退屈な日常の1ページだった。
冷たい北風の猛威も去り、川沿いの道には桜が咲き始め春の訪れを告げている。大通りから少し離れた商店街は、夕方でも親子連れや部活帰りの学生で賑わっていた。
その光景を研究室の窓から、大学生の早見 紫音はコーヒー片手に、恨めしそうに眺めていた。彼女の前には、開かれたまま何も手の付けられていない真っ白な画面と、乱雑にまとめられた上級生の遺した書類の束がいくつか。
大学3年になったのはいいが、希望の研究室に入れたかと思えば、求められるレポートの量と質が格段に上がったのだ。今まで気を抜いていたわけでもないのだが、それでも大変な事には変わりなかった。
(……10時には帰れるかな)
泊まり込みは校則上禁止なのだが、研究や実験が終わらない生徒が研究棟に密かに泊まることは日常茶飯事である。体育館にはシャワー室もあり、いつからか共用の化粧品セットも置かれているほどだ。
ただ他人のものを使うのは気が引けるし、紫音には愛用しているシャンプーもある。明日は授業もないので、今日は帰って自宅のベッドで寝たいところだ。
(1万字くらいは書くか)
こうして何もせず景色を眺めていても、レポートの文字が埋まっていくはずもない。紫音は景気づけに無糖コーヒーを飲み干すと、パソコンに映し出された真っ白な画面に向き直った。
研究棟を出て裏手に行けば、生徒用の駐輪場があり、さらに奥には教職員の車やバイクが止められている。紫音はいくつか停められている自転車を素通りすると、端の方に停めていた黒のバイクにまたがった。
女性が乗るには少しワイルドな自覚はあるが、乗りやすく移動には苦労しない。また250ccでもあるので、原付よりパワーもあり坂道も楽に進めるのだ。その分、維持費は少しばかりかかるのだが。
「よし、帰ろう」
時刻は既に11時を回っている。紫音は小さくため息を漏らすと、ゆっくりと発進した。
大学からバイクで15分ほど、都心から少し外れたところに紫音の住むマンションはある。住宅街にあるごく普通のマンションだが、築年数が10年ほどしか経っておらず、防犯や防音設備なども完備されているのでそこそこの値段がする。
紫音は地下の駐車場に愛車を停め、静まり返った中庭を1人歩いた。カツカツと、ブーツの音が遠くまで響き鼓膜を揺する。街灯は設置されているが、夜遅いこの時間に人影はなく少し不気味だ。
早く部屋に帰ろうと、足早に正面玄関に向かおうとした時だった。
「……っ」
エントランス前の柱の裏、その暗い影の奥で何かが動いた。見間違いではない、今も視線の先で小動物ではない大きい生物が動いている。
ゆっくりと視線はそのままに、スマホの緊急連絡先を開きながらも玄関に足を進める。そのまま迂回して玄関に突入しようとしたところで、影からその生物がゆらりと姿を現し、顔面から地面に倒れ込んだ。
鈍い音にびくりと体を震わせたが、そっと様子を確認して視線が吸いよせられるように固まった。
「女の子……?」
少女だった。
地面に散らばるのは、街灯に照らされて美しく輝く金色の髪。光が透き通り、うっすらと透明に見える。静かに近づいて顔を覗き込んでみれば、まぎれもない幼い少女の顔だった。
こんな場所に何故と疑問が浮かんだが、布に身をくるんだ少女は泥だらけで、手足には無数のすり傷が見て取れる。病気というわけではなさそうだが、ワケアリだというのは誰が見てもはっきりしていた。だがこれほどまでに目立つ容姿をした子供を、紫音はこのマンションで見た事が無かった。
『グ―――……』
深夜に10歳にも満たないような少女が1人で―。
そんな疑問は、少女の腹から鳴った音によっていとも簡単に吹き飛ばされた。
ひとまず、紫音は少女を部屋に運びソファに寝かせた。マンションの管理人は既にいなかったので、仕方なく運んできた形だ。
あの場に放置しては風邪をひいてしまうし、誰かに暴行されたような酷い外傷は見当たらない。擦り傷も、木の枝や鋭い葉で切れたような物ばかりで、警察を呼ぶ必要はないと判断した。
海外の治安が悪い場ではないのだから、この少女が物乞いのように何かを狙って意図的にあの場に倒れ込んでいたという事はないだろう。もし家出でもしてきたのなら、起きて事情を聴いてから帰せばいい。
「しまった……」
だが冷蔵庫の中を見て、紫音は頭を抱えていた。冷蔵室は賞味期限の切れた缶ビールと飲料水が数本、冷凍類もほとんどが空。かろうじで米が少し残っているが、完璧に揃っているのは棚にある調味料くらいだ。
ここ最近、春休みの間は作業で部屋にこもりっきりだった。その時も出前ばかりだったので、食糧類はインスタント類も含めて底をつきている。近くのコンビニにも、あの少女を部屋に一人残して行くのは不安だった。
どうしたものかと頭を悩ませていると、リビングの方から微かに物音がした。気になってみれば、少女が目を覚まし静かにたたずんでいる。
エメラルドのような碧眼は、じっと虚空の一点に向けられていた。その立ち姿は奇麗なもので、紫音はしばし時を忘れ魅入ってしまったほどだ。《《この世の者ではない》》、そう思わずにはいられなかった。
すぐに我に返った紫音は、少女に視線を合わせるようにかがんで顔合わせた。
「覚えてる?君、マンションの前で倒れてたんだけど―……って日本語は通じないか」
声をかけてみたが、少女は微動だにせず無表情のまま。目はあっているが、表情に変化の一切が無い。
試しに英語で話しかけてみるが、相変わらずの無反応。ならばと中国語や韓国語、イタリア語やフランス語も試してみたが、少女から反応が返ってくることはなかった。仕事の都合で身につけた言語だったが、あまり役に立たなかったらしい。
それに寝不足でこれ以上の活動は困難だと全身が訴えている。仕方なく、紫音がご飯だけでも炊こうとした時だった。
「……∇ΠλЮ◆Щ」
「え?」
小さな鈴のような音色が響いた。そして、今まで聞いたことのない発音の言葉が聞こえた。
振り返ってみれば、少女が前に向かって手を伸ばしている。念を込めるような、そんな構えだ。
「何、今の……」
紫音の疑問もよそに、少女の指先で突然、空間がぐにゃりと粘土のように歪んだ。眼を疑ったのも束の間、瞬き1つした次の瞬間には、穴は大きく広がり少女が入れるほどの大きさになっているではないか。
突然のことに呆けて固まる紫音をしり目に、少女は穴の中に飛び込んだ。しばらくガサガサと何かを漁るような音が響いていたが、数秒もすれば彼女は穴の中から、カラフルに色付けされた卵を引っ張り出してきた。イースター・エッグのような色付けだが、大きさが市販のソレとは違いダチョウの卵ほどに大きい。
少女は卵と紫音を交互に見ると、何も言わず卵を差し出した。
「えっと、私に?」
紫音が自身を指差して尋ねれば、少女は小さく頷いて初めて反応を見せた。使ってもいい、という事なのだろう。受け取った卵はずしりと重く、まだ少しばかり生暖かい。中で液体の様なものが揺れる感触があり、偽物ではないことは確かだ。
少女は卵の今後が気になるのか、じっと紫音を見つめて動かない。
「……オムライスでも作るか」
紫音は卵を台所に置くと、久方ぶりのエプロンを身に纏い料理の準備に取り掛かった。