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論語を読む  作者: 三河
八佾
62/167

哀公問社於宰我

・原文

哀公問社於宰我。

宰我對曰、夏后氏以松、殷人以栢、周人以栗。

曰、使民戰栗。

子聞之曰、成事不説、遂事不諫、既往不咎。


・書き下し文

哀公(あいこう)(しゃ)宰我(さいが)()う。

宰我(さいが)(こた)えて(いわ)く、夏后(かこう)()(まつ)(もっ)てし、殷人(いんひと)(はく)(もっ)てし、周人(しゅうひと)(くり)(もっ)てす。

(いわ)く、(たみ)をして戦栗(せんりつ)せしむ。

()(これ)()きて(いわ)く、成事(せいじ)()かず、遂事(すいじ)(いさ)めず、既往(きおう)(とが)めず。


・解釈

哀公が(やしろ)の植木について宰我に尋ねた。

宰我が答えるところによれば、『夏の時代は松を植え、殷の時代は柏を植え、周の時代は栗を植えました。それは民を戦慄させるためです。』

孔子はこれを聞いて言われた。

成った事は言うまい。済んだ事は諫めまい。過ぎたことは咎めまい。


・私言

植えた木の種類と、なぜそれが民を戦慄させるのかの因果関係がいまいち不明だが、『戦慄』の『慄』に栗が使われているからということなのかな?


それに対して孔子は『言ってしまったものは仕方がない』と諦観の様相

どうも宰我の回答は誤りのようだが、正解は何だったのだろう?


ちなみに『慄』になぜ栗が使われているかというと、栗を取りたいのにイガでなかなか手が出せない様を表しているかららしい。

なんか微笑ましいね。

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