第四話「浄罪の炎」(1)
月夜。
真っ暗闇の夜の世界に、ぽかんと白い月が浮かんでいる。
昼の獣たちはそれぞれの巣で寝静まり、夜行性の者たちは、活発に活動を始める。
そんな時間。
僕とリリィは、黒龍の体を風除けに眠っていた。
適当に手折った葉っぱを布団代わりに、夜の鋭い寒さをなんとか凌いで。
その晩、僕たちの眠気は限界だった。
睡眠というよりは、気絶に近い、そんな意識の落ち方だった。
そして、僕はふと目を覚ました。
浮上した意識に、感じていなかった寒さが突き刺さる。
薄目を開けても、見えるのは深い暗闇だけ。
まだ夜か。寝よう。
小さく縮んだ胃袋のことは、なるべく考えないようにして、僕は再び瞼を閉じた。
そこで気付く。
臭い。
獣臭か、風にのってきたか、鼻に届いた。
両目を開く。
目を凝らそうが、見えるのは暗闇。
それでも、僕はその暗闇の向こうを凝視した。
そこに、いるかもしれなかったから。
音を立てぬよう、慎重に起き上がる。
黒龍の体と眠るリリィを背に、僕は暗闇を睨んだ。
音はない。
気配もない。
けれど、臭い。
確かにいる。
僕の直感がーー"魂"が、何かを感じ取っている。
敵だ。
ぼやけていた頭の芯がスーッと冷えていって、感覚が研ぎ澄まされていく。
自然の掟は、食うか食われるか。
腹ペコなのは、皆同じ。
食えるなら、狙われる。
僕らは弱い。
だから、逃げるしかない。
でも、今は逃げられない。
リリィはまだ寝ているから。
早く起こさないと。と思う反面、音を出せば、眠っていないのを気取られて襲われるのでは?と懸念も募る。
僕は次の行動を迷った。
その一瞬だった。
ヒュッと風切り音。
右足に鋭い痛みが走る。
「いっ!」
己の肉に刃物が突き刺さったような感覚。
咄嗟に右足を抑えてみても、そこには何も刺さっていない。
ただ、深く抉れた穴から、ドクドクと液体が溢れている。
攻撃された。
奔る痛みと血の感触に、思考は一気に燃え上がる。
悔しさ、或いは怒り。
そんな激情が湧き上がり、死への焦りも相まって、僕は逃げるという選択肢を塗り潰した。
反撃してやる。
僕は両手から、純白の魔力を迸らせた。
辺りが魔力光に薄ぼんやりと照らされる。
闇に浮かび上がる、敵の体躯。
目の前にいたのは、一匹の蛇だった。
夜闇に溶け込む黒い体に、妖しく輝く真紅の眼球。
体こそ大きくないものの、口元に覗く牙は鋭い。
僕はそいつに石でも投げてやろうとして、そこでようやく気が付いた。
蛇は一匹じゃない。
正面の蛇、その背後。
広がる闇の中に、蠢く無数の影。
地面を覆い尽くさんばかりの黒蛇の群れが、僕の周りを囲んでいた。
僕はゾッとして、石を取り落とす。
カランと乾いた音が響いた。
暗闇に浮かび上がる無数の赤目。
その目に確かな殺意を宿らせて、黒蛇の大群がジリジリとこちらへ詰め寄って来ている。
僕は両手に魔力光を纏ったまま、慌ててリリィを揺さぶり起こす。
「リリィ……! 起きて……! リリィ!」
「んむ……」
「なにか! 魔法! 火! 火! なんでもいい! 蛇が! リリィ! リリィ!!」
蠢く黒蛇の群れ。
黒蛇との距離が縮まるにつれ、僕の語気も強まっていく。
リリィは呑気に欠伸をしながら、僕の背中を支えに起き上がった。
リリィは寝ぼけ眼を擦りつつ辺りを一見して、「ひっ」と小さく悲鳴した。
「リリィ! 魔法! 頼む!」
必死に叫ぶ僕。
それに対し、リリィは力なくふるふると首を振った。
「f^*€##&×#hp……!」
「お願い! リリィ! 僕にはどうにもできない!」
僕は情けなく喚き散らす。
自分の非力さが恨めしい。
黒蛇たちはもう足一個分先にまで迫っていた。
このままじゃ……。
リリィが一歩前に出る。
『……€$*%#!』
僕には分からない魔術詠唱。
編まれた魔術は、拳大ほどの小さい炎。
その小さい炎は、真っ直ぐに黒蛇たちに吸い込まれていく。
ぼんやりと辺りが薄く照らされたのを見て、僕は、両手の魔力光を仕舞った。
魔力光を維持するのは、息を吐き出し続けるようなもので、多少辛かったから。
これが失敗だった。
魔力光が消えたーー瞬間。
一斉に、黒蛇の群勢が飛びかかってくる。
六匹が脛を噛み、八匹が太腿に飛びつき、十匹が腕に巻きつき、牙を突き立て、僕を地面に引き倒す。
さらに、無数の黒蛇が、足元から一気に這い登ってくる。
「うぁぁああッ!!」
足先から徐々に肉を抉られていく感覚に、僕は半狂乱になって転げまわった。
地面に倒れたせいで、上半身にも一気に黒蛇が飛んでくる。
首に蛇が何匹も巻きつき、締め上げられた。
「こっ……ぉっ……」
呼吸を封じられ、一瞬生じる意識の空白。
その隙を狙ってか、一匹の黒蛇が、まっすぐ目玉に飛び込んできてーー。
黒蛇の小さい口腔が裂けていくのを、僕はただ目で追っていた。
迸る、純白の魔力。
途端、魔力に触れた黒蛇たちは、体がボロボロ崩れて、宙に溶けていった。
嘘みたいに。
僕はバクバク鳴る心臓を抑え、必死に荒く呼吸をする。
「はぁっ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふ……」
浮かぶ疑問。
なんで今、黒蛇が消えたんだ?
いや、今はそれよりも……!
「リリィっ……!」
僕は跳ね起きて、リリィの姿を探す。
辺り一面の黒蛇の大群。
僕の周りにいる黒蛇は、魔力を纏う僕を赤目で睨みつつも、遠巻きにして動かない。
それとは対照的に、何かに次々と飛びかかっている黒蛇の群れが、遠くの方に見えた。
「リリィ!」
黒蛇の群れを突っ切り、黒蛇の群がる場所へと走る。
黒蛇たちは、僕を避けるように道を開けた。
僕は急ぐあまり、足を挫いて、すっ転ぶ。
受け身を取って前転、そのまま勢いを殺さず加速し、駆け抜け、一気に黒蛇の群がる場所へ頭から突っ込んだ。
僕を避けきれず、黒蛇がいくらか炭みたいに崩れて消滅する。
いくらか剥がれた黒蛇たちの隙間から、血に濡れた白い肌ーーリリィの姿が見えた。
僕は、リリィに群がる黒蛇をむんずと掴んで、一匹ずつ引き剥がしていく。
掴むそばから黒蛇の体は崩れていった。
それを見てか、リリィに群がっていた黒蛇たちはあっさりと逃げ出し始めて、あとには、全身傷だらけのリリィが残った。
地面に脱力した様子で横たわるリリィ。
「リリィ……」
震えた声で名前を呼んで、リリィの頭を抱き寄せる。
リリィの顔色は、色を失くして顔面蒼白。
額から汗が滝のように流れていて、ひぅ、ひぅ、ひぅ、と呼吸は忙しない。
とても、回復魔法が使えるような状態じゃない。
リリィの目の焦点がブレて、瞳が濡れる。
涙が見る見る溜まって、目の端から零れ落ちた。
「ーーッ!」
僕は、こんなに苦しんでいるひとに、なにもしてやれない。
そう心の内で唱えた瞬間、胸の奥底から、怒りの炎が噴き上がった。
「ちくしょうッ!!」
リリィを地面にそっと寝かして、周囲を取り巻く黒蛇どもを睨みつける。
僕は拳を振り被って、黒蛇たちにぶち込んだ。
しかし、怒りに任せた単調な攻撃に、当たる黒蛇は一匹もいなかった。
なにくそと、僕は蹴りを放ち、拳を突き出し、攻撃し続ける。
しかし、ひとつも当たらない。
無闇矢鱈に暴れる僕を、冷静な目で眺め続ける黒蛇たち。
そんな態度に、益々怒りが込み上げてくる。
「らぁああッ!!」
僕は魔力の出力をがむしゃらに上げた。
辺りが純白の魔力光に眩く照らし出される。
一斉にたじろぐ黒蛇たち。
それを小気味良く思って、僕は次なる攻撃を仕掛けようとーー。
視界がグニャリと歪む。
しまった。魔力を一気に使い過ぎた。
意識が遠のいていく。
魔力の出力が切れた。