第三話「下山(難易度:鬼)」(2)
草むらに隠れ気配を殺し、崖の下を見下ろす。
岩盤剥き出しの荒野に、魔物。
青緑斑模様の、大きな虎だ。
ソレが、己の体積の数倍もある、巨大な牛を食らっていた。
真っ赤な肉を、血を撒き散らしながら千切り喰らう虎。
その様子を遠目に観察する、やたら首の長い鳥の群れ。
数十羽、もしくは数百羽という大群で、じわりじわりと牛へ近づいて行く。
それに対し、牙を剥き出しにして、低く唸り、威嚇する虎。
鳥たちは威嚇に怯みつつも、虎が牛を喰らう隙に、じわりじわりと距離を詰めていた。
喰らう虎。
詰め寄る鳥たち。
巨大な牛を仕留める虎でも、数十、数百という鳥に一斉に襲われては堪らないだろう。
鳥たちがすぐそこまで迫ってきて。
虎は身を翻した。
鳥の一匹の首に噛みついて、そのまま鳥一匹咥えて走り去っていく。
瞬間、一斉に牛に群がる鳥たち。
牛の巨体が、鳥の群体に覆い隠される。
肉を啄む鳥たち。
嘴を挟む余地がなく、周囲をうろうろしている他多くの鳥たち。
そんな彼らに、ふと影が差す。
瞬間、数百の鳥が一斉に飛び去っていった。
そこへ飛来する白竜。
間髪入れずに、白竜が牛を咥え、Uターンして舞い戻っていく。
悠々と飛び去る白竜の姿を見送って、僕とリリィは草むらを出た。
「ふぅ……やっと行った 」
静かになった崖下の荒野を見下ろして、僕は安堵の溜息を吐いた。
横のリリィも、ほうっと息を吐き出す。
「そろそろ夕方か…… 」
地平線へと傾いていく太陽を睨んで、僕たちはまた歩き始める。
今は、崖下に降りられそうな場所を探していた。
水は高いところから低いところへ流れる。
だから、川沿いに進めば、いずれ山を降りられると思った。
その考えは間違いだった。
川が滝になる地点があったのだ。
僕が落ちたあの大滝程の落差はなかったけれど、それでも十分高い滝だ。
うっかり落ちれば、死にそうな位に。
一応、リリィに魔法で滝を降りられるか、伺ってみた。
リリィは力なく首を振った。
ダメらしい。
なので、崖沿いに進み、下へ降りられる箇所がないか見ているわけだ。
今のところ、そんな箇所はない。
それどころか、川から離れる程、崖の高低差が開いているような気さえする。
やはり、滝からのワンチャンダイブに賭けるべきだったろうか……。
後悔が募る。
僕たちは今、よくない方向へ歩いているんじゃないだろうか。
そんな考えが、頭から離れない。
「ぁ 」
リリィが小さく声を上げた。
僕は隣のリリィに視線を向ける。
リリィは、驚いたような顔をして、崖下の方へ指を差した。
リリィの指差す方を見ると、漆黒の城塞の如き、巨大な異様が横たわっていた。
黒龍の死骸だ。
「流石に、大きいな……!」
黒々とした絶壁を見上げる。
黒曜石のような鱗が敷き詰められた、龍の城塞。
こんなものが生きて動いていたのかと思うと、末恐ろしいものがある。
鱗の一枚を軽くノックしてみると、コンと高い金属音が響いた。
めちゃくちゃ硬そうだ。
竜鱗は武具素材としては最上級って聞くけど、黒龍の鱗はどうなんだろう。
「これ、一枚くらい持っていけないかな……ねぇ、リリィ?」
リリィに是非を聞いてみようと、振り返る。
そこにリリィはいなかった。
視線を巡らせてみると、奥の方で、黒龍の鱗に片手を触れながら、何やらブツブツ呟いているリリィを見つけた。
顎に手を当てて、難しい顔をしている。
「……リリィ?」
リリィに近づきつつ、声を掛ける。
リリィはハッとした様子でこちらに顔を向けた。
一歩、後ずさると、すぐに眉を伏せ、視線を地に落とす。
そのまま黙り込むリリィ。
僕は膝を折って、リリィと目線を合わせる。
そして、言葉のニュアンスが伝わるよう、できるだけ穏やかなトーンで尋ねた。
「どうかしたの?」
「€u……」
リリィは尻窄みに呟いた。
僕はリリィが何に困っているのか、よく分からなかった。
……いや、敢えて妄想を語るなら、黒龍のことだろう。
生きる厄災。神話の怪物。破滅の象徴。
黒龍。
それが、首を吹き飛ばされ、死んだ。
恐らくは一瞬で、一撃で。
それは、あり得ないことだ。
異常の一言で済む程、簡単な話じゃない。
黒龍は、【魔神】が手ずから創り出した怪物だ。
数万年と生き永らえ、時には神をも喰らう超生物。
それを瞬殺だなんて、神でさえも不可能な筈だ。
しかし、それは現実に起こった。
一体どうすれば黒龍瞬殺できるのか、僕には見当もつかない。
もしできると言うなら、そこには何か、特別な絡繰りがあると思う。
ただの獣には負けても、黒龍には勝てる、そんな特別な何か。
そこに、後ろめたい何かがあるのかもしれない。
確証はない。
あくまで憶測。
そもそも、黒龍を仕留めたのがリリィと決まったわけではないし……人を助けるためとはいえ、命を殺めたことに後悔してるとか、そんな感じかもしれない。
……むしろ、それが正解な気がしてきた。
リリィが、ご親切な神様に遣わされた、僕のボディガードとかだったら。
聖人思想で、殺生ひとつを悔いても不思議じゃない。
いや、でも、リリィちょっとした魔法しか使えないぽいし、体力年並みにないし、神の遣いというには、不相応な気もする。
あれ? 分からなくなってきた。
推測だけで考えるには、無理があるかもしれない。
やめよう。
結局のところ、全部妄想だ。
夕方の空。
日差しが黒龍の巨体に遮られ、辺りに黒く影が差す。
「……∂=、€*→%#° 」
しばらくの沈黙の後、リリィは上目遣いに僕を見て、ボソボソと呟いた。
拗ねたような口調から、ブルーで複雑そうな雰囲気は伝わってくる。
やっぱり、何を言っているかは分からない。
でも、目の前の子が悲しそうな顔をしているのは、僕としては許容できない。
「ねぇ、リリィ。ほら! 見て 」
僕は、パンッと両手を叩くと、手を窄めて蕾みたいに膨らませ、リリィの顔の前に持ってくる。
してあげられることは、あまりに少ない。
けど、少し位はしてあげたい。
リリィが訝しげな顔で僕を見る。
そして、そのまん丸い二つの目が、窄められた両手を見つめたとき。
僕は、両手の指をパラパラと開いた。
手中に咲く、純白の百合。
僕の白い魔力で編まれた、小さな百合の花束が、手から溢れるように咲いていた。
「hw€……!」
リリィの太陽みたいな瞳に、白く輝く百合の花束が映る。
「どう? 綺麗でしょ? 」
照れ臭くて、少しはにかむ。
魔法が使えない僕だけど、魔力操作の緻密さだけは、誰にも負けない程だった。
大して役に立たないけど。
しかし今、ちょっとだけ役立った。
「%€……♪ 」
リリィは目元をくしゃっと歪ませて、困ったような顔で笑った。
そして、恐る恐るという風に、僕に近づいて、両手を脇の下に伸ばしてくる。
僕が黙っていると、リリィはぼすんと僕の胸に顔を埋めた。
僕の背中を引っ掻くように、小さな手が力いっぱい抱きしめてくる。
リリィの抱擁は、その小さい体から発揮されているのが不思議なほど、力強かった。
僕は手中の白百合を花冠に変えて、リリィの頭に乗っけると、できるだけ髪型が崩れないよう、優しく頭を撫で始める。
今日も、一日が暮れていく。
夜闇に紛れる殺意に、気付かないまま……。