第九話「砂浜の茶会」(1)
風が吹き荒ぶ。
あんなに穏やかだった世界はどこかへ消えて、震える大地が取り残される。
山の断末魔が何度も木霊し、辺りに響き渡っていた。
目の前の少女から、目が離せない。
水溜りのように広がった黒い塊に、裸足。
スラッと伸びた細い足は、健康的な白さを惜しげもなく晒している。
着ているのは、大きめの外套一着。
開いた襟元から、くっきりとした鎖骨が覗く。
ややなで肩で、首は細く、長く。
白金の長髪に、俯きがちの顔は殆ど隠れていて。
物憂げな表情に、心が掻き乱される。
桃色の唇、筋の通った小振りな鼻、穏やかに垂れた細眉に、半目ながらぱっちりとした大きな瞳。
太陽みたいに、大きくて、暖かくて、輝いていて、綺麗な。
吸い込まれそうな。
「リ、リィ……?」
かける声が掠れて揺れる。
知らない少女だった。
けれど、知っている少女だった。
少女は僕より、頭一つ分ほど背丈が小さい。
記憶の中のリリィと比べると、倍近い身長差がある。
「……ぁ……?」
少女が小さく呻いた。
寝惚け眼のまま、ゆるゆると首を揺らし、辺りを見回す少女。
双眸が僕の顔を捉えると、瞳の焦点がスーッと合って……顔にパァッと歓喜が咲く。
「ファウストっ!」
十二歳ほどの少女が、僕に向かって勢いよく飛び込んできた。
両腕を背中に回され、ぎゅうっと力強く抱きしめられる。
勢いの強さに、僕は体重を支えきれず、二、三歩後ずさった。
「良かったぁ……無事だったんだ……」
耳元で囁かれる、甘い旋律。
安堵に満ちた涙声に、鼓膜が痺れる。
僕は、少女を抱きしめ返せないでいた。
君、本当にリリィなのか……?
そんな疑問を口にしようとして、閉口する。
確信があった。
崩れようもない確信が。
彼女は……リリィだ。
ドドドドドドッ……!と、近付いてくる、石畳を殴る音。
「竜神様ァッ!!」
神殿の入り口に立つ、イェルガさん。
目を血走らせて、口は小刻みに震えている。
恐ろしい顔だった。
イェルガさんに続いて、アゥスファさんとウラナゥルさんもやってくる。
二人とも、焦燥に煮え滾った顔をしている。
イェルガさんの視線は、砕けた宝玉、床に広がる闇の塊、僕に抱きつくリリィ……と遷移してーー。
ーー噴火した。
「ォオォァアアアアッ!!!」
この世のものとは思えない絶叫。
噴火口の熱風に似た空気のうねりが、周囲を舐め、空間を歪ませ、陽炎を登らせる。
イェルガさんの髪が怒り逆立ち、天を衝く。
瞬き一回。
僕は神殿の柱に叩きつけられた。
「いッ……!」
背中を強打。
ジンジンとした痛みに、一瞬体が麻痺する。
「お前がァァアアッ!!!」
イェルガさんの絶叫。
目を向ける。
イェルガさんは、神殿の柱にリリィの体を押し付けて、叫んでいた。
小さい首に五指がめり込み、ぎゅうっと皺が寄っている。
さっきの闇人形と同じ……。
「……こ……ッ……」
リリィの喉から、乾いた声が漏れる。
顔は赤黒く染まっていて、口は少しでも酸素を取り入れようと歪んでいく。
ーーリリィの視線が、僕の顔を射抜いた。
まずい。
今、僕、どんな顔してた?
ぺた、と顔を手で覆う。
強張った顔だ。
表情筋があちこちへ引き攣っている。
「ぅ……え……っと……」
言葉が出てこない。
胸中に渦巻くグチャグチャの何かは、僕にはあまりに巨大で、扱いきれない。
目を逸らす。
リリィの目から、スッと色が消えた。
『ーーい、ヤァァアアアアア……ッ!!』
空気をつんざく絶叫。
神殿がバッと黄金に染まる。
「ぐぁッ!!」
吹っ飛ぶイェルガさん。
床を転がる巨体。
イェルガさんの体の表面で、黄金の雷光がパチッパチッと弾けている。
「ぅう……う、う、嘘……いや……!」
リリィが後ずさる。
黄金の雷が、地面を跳ね回る。
両手で自分の体を抱きしめるリリィ。
肩が震えて、視線の先が上下左右あっちこっちへブレる。
一転、顔面蒼白だ。
胸の底から、大きな感情のうねりが膨れ上がっていく。
なにしてんだ、僕は。
「リリィ……っ!!」
「いや……っ」
拒絶。
一歩、二歩……と後ずさっていくリリィ。
遂に、神殿の端から、足を滑らせてーー!
「まっーー!!」
手を伸ばす。
届くはずもなく。
リリィは落下していった。
「逃、がすかァァ……!!」
地獄の底から捻り出したような声。
イェルガさんは、未だ痺れる体を引きずって、神殿の端から飛び降りた。
「イェルガッ!!」
ウラナゥルさんの叫び。
神殿の端から下を見て、歯痒そうに顔を歪める。
僕が二人の姿を呆然と見送っていると、ガシッと肩を掴まれ、神殿の柱に乱暴に叩きつけられた。
「【神聖】殿……! 知っていることを全て話せ! 一体何があった!?」
アゥスファさんだった。
アゥスファさんが、恐ろしい顔をして、至近距離で凄んでくる。
「りゅ、竜神様に、謁見して……それで、"魔神獣"が入ってきて……でもそれは……リリィでーー」
「ちゃんと分かるように話せ!」
容量を得ない僕の言葉を遮り、叫ぶアゥスファさん。
「彼女が、竜神様を……神域を破ったのか?」
消え入るような声で、アゥスファさんは尋ねる。
遠くから、竜の嘆きが轟いていた。
僕は俯くように首肯する。
「おそらくは……」
アゥスファさんは、僕の肩から手を離すと、フゥーッと長く息を吐いた。
「ウラナゥル。私はイェルガの後を追う。お前は里に戻って、他の竜騎士に指示を出せ。そして、あの少女を追え 」
「けど……!大事にして良いのか……!? 神域が破られたと、里のみんなが知ったら……!」
「これは大事だ!!」
アゥスファさんの叫びに、ウラナゥルさんがハッとする。
そして、表情を引き締めると、「ぁあ!」と応答して、神殿の階段を駆け降りて行った。
「【神聖】殿、竜神様より、お話は伺っておりました。どうかこのまま、事が収まるまでじっとしていてください 」
「は、はい……」
アゥスファさんの顔は落ち着いていた。
知っている。
これは、"覚悟"を決めた顔だ。
アゥスファさんは神殿の端に立ち、眼下に広がる山脈を眺める。
一呼吸おいて、飛び降りるアゥスファさん。
僕は神殿にひとり取り残された。
吹き荒ぶ風の音。
脳裏に浮かぶのは、様々な情景。
爆笑する竜神様。
恐ろしく巨大な竜神様。
鼓膜に残る甘い声。
悲痛な叫び。
イェルガさんの怖い顔。
綺麗なドロップキック。
落ち着いたアゥスファさんの顔。
幸せそうなウラナゥルさんの顔。
僕はなにか、とんでもない間違いを犯したのでは……と、漠然とした罪悪感に襲われる。
いや、これは……後悔だ。
僕、何もできなかった。
もし、リリィが竜神様を殺す前に、僕が竜神様を助けられていれば。
もし、あの晩、僕がリリィを死なせずに済んだなら。
きっと、こうはならなかっただろう。
もし、さっき、僕がリリィを庇って、竜人たちと話し合いの場を設けていれば、今頃何か違ったかもしれない。
けれど、僕は何もしなかった。何もできなかった。
自分の弱さが招いた、失敗だ。
「僕……これから、どうしよう 」
アゥスファさんに言われるまま、ここでじっとしていても良い。
でも、そうしたら、また、後悔しないだろうか?
迷う。
何が正解だろうか。
僕は何がしたいんだ?
何を優先すべきだ?
損得か? 感情か?
どちらかを取れば後悔しないのか?
迷う。
胸のペンダントチェーンが、ジャラっと鳴った。
僕はペンダントを片手ですくい、青い宝石を眺める。
「僕は……もう……」
ペンダントトップを両手で覆うようにして、目を瞑り、僕は祈った。
何かに縋るように。




