第一話「始発→」(2)
ポツリ。
水滴が跳ねた。
雨が降り出してきたらしい。
最初ポツポツと降っていたのが、あっという間に勢いを強め、大降りに変わっていった。
腰を抜かして、地面に座り込んだ自分。
上から下までぐっしょり濡れていく。
……身を千切るような痛みは、一向に襲って来なかった。
恐る恐る目を開ける。
視界に飛び込んできた異常は二つ。
一つは、地面をのたうち回る黒龍。
黒龍が陸に打ち上げられた魚みたいに、必死な様子でもがき苦しんでいた。
黒龍の山のような巨躯が、眼下に広がる森林を薙ぎ倒しながら暴れ狂う様は、なんとも度肝を抜かれる。
けれどそれ以上に理解不能だったのは、黒龍の首から先がないことだった。
ないのだ、頭が。
つい先程、僕を飲み込まんと開かれたアギトは、アギトどころか頭ごと消え去り、黒龍の首の断面からは滝のように血が迸っている。
もう一つの異常は、逆に、なかったものが出現していた。
それは女の子。
それも、まだ五歳や六歳くらいの小さい子。
いつの間にか、その子が僕と黒龍の間に立っていた。
まだ短い小枝のような右手を、高々と天に向けて。
あと、何故か全裸で。
僕は目の前の小さな子と、未だ元気に暴れもがく黒龍とを交互に見る。
僕がそうして、急な状況変化に混乱していると。
目の前の子が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その子の背は小さくて、地面に座り込んだ僕と、目線の高さはそう変わらない。
だからか、僕はその子とバッチリ目が合った。
太陽みたいな、温かな光を宿す瞳。
薄暗い夜闇の中で、その双眸がまるで光でも放っているかのように、ハッキリと見えていた。
僕が呆然と女の子の顔を眺めていると、彼女はその小さな口を開いた。
「*〜%#?」
女児特有の甲高い、しかし落ち着いた雰囲気の声。
ただ、何を喋ったのか、僕には意味が理解できなかった。
僕の知らない言語だ。
「えっと……」
どうコミュニケーションを取ったらいいかと、思案を巡らせていると。
黒龍の長大な尾が、僕たちのところへ物凄い速さで迫ってきた。
僕は何も反応できないまま、頭上を黒龍の尾が通り過ぎる。
そして、山肌に叩きつけられる黒龍の尾。
あまりの威力に、山が爆発する。
山道に奔る亀裂。
崩れる地面。
視界が斜めに傾き落ちていく。
浮遊感に襲われながら、僕は自分と同じように、落下していく女の子を見た。
咄嗟に手を伸ばす。
その手は、女の子を助ける為に伸ばしたのか、それとも自分を助けてもらう為に伸ばしたのか。
ふと、そんな疑問が浮かんで。
ただ、悠長に考えている時間はなかった。
僕は空中に投げ出された。
「ぅぁああぁーっ!!」
手足を振り回してもがく。
体の天地が何度もひっくり返る。
視界には、土色や灰色や草木の緑色が忙しなく映り変わっていく。
急速に迫ってくる地面。
高いところから落ちると、人は死ぬらしい。
衝撃が強すぎて、トマトが破裂するみたいに死ぬのだ。
その瞬間を想像して、肝が冷えた。
自分の体が空気を引き裂く擦過音を聞きながら、僕はその瞬間が来るのを待つしかなかった。
恐怖に満ち満ちた一瞬が過ぎて。
体が地に叩きつけられる。
馬車に跳ね飛ばされたみたいな、強烈な衝撃。
暗転していく意識。
ゴボゴボとくぐもった音が耳に届いて、次いで鼻から頭のてっぺんにかけてズキンと痛みが走る。
その痛みに意識が再び浮上して、感じた息苦しさに身を燻らせると、頭が水面を破り、肺に空気が入ってきた。
「ゲホッ! エッ! ゴホッゴホッ!」
酷くむせる。肺に入り込んだ水を吐き出していく。
あまりの苦しさに顔を顰めながら、半ば無意識に、近くにあった岩を掴み必死に縋った。
どうにかこうにか岩をよじ登り、陸に上がる。
それから、ごろんと地面に寝転んだ。
心臓がバクバクと鳴っている。息が上がってしまって、自分の小さな胸が上下していた。
深呼吸だ。落ち着け……生きてる、生きてるぞ……。
ややスピーディーな深呼吸を終えて。
周りを見る。
滝壺だった。
湖と言える大きさの滝壺。遠くに、大滝が見えている。
運良く水に落ちたらしい。
あと少し位置がずれていたら、と思うとゾッとする。
「けほっ……はは、いっ、たい……」
死ぬんだろうな、これ。
まず、そんな考えが浮かんだ。
全身酷く痛い。もはや痛いという形容では足りないほど痛い。
意識を手放したくなる。それが自然なことだと素直に思える。
でもそうしたら、多分二度と起きることはできないだろう。
永眠だ。
それはダメだ。
僕は、生きなきゃいけない。
「はは、は……あぁ 」
寒い。服は完全に水を吸っている。
雨が僕を濡らして、更に体温を奪っていく。
結構血が流れているから、それで尚更寒いのかもしれない。
もう、痛いくらい寒い。
ガチガチと、顎が震えて奥歯が鳴っている。
目眩がしてきた。
視界が端からモヤモヤと黒ずんでいく。
体中から発せられる危険信号が、溶け込むようにスーッと消えていった。
不味い。
回復しなくちゃ……。
僕は右手を胸の上に置いた。
「『光の精霊・従順・安らぎ……」
魔法詠唱。
舌に魔法の力を乗せて、言葉を紡いでいく。
構築するのは、霊級……一番簡単な魔法。
「……傷ついた彼の者に、癒しの光を……ライト・ヒーリング』……」
純白の魔力が、右手にぼんやり集まっていく。
しかし、次の瞬間、魔力はパッと霧散して消えてしまった。
「……駄目、か 」
僕は胸の底から絞り出すように、深く嘆息した。
視界が黒く染まっていく。
黒龍がやっと事切れたのか、辺りは随分と静かだった。
「僕が本当に神子なら……こんな人生、あんまりじゃないかなぁ……」
そう、最期に、神様とやらへ文句を呟いてやった。
「『€%* /&……」
それは、甲高い、けれど心地よい返答。
ーー意識が覚醒する。
目を開く。
上体を起こす。
辺りは依然暗闇だけれど、意識は冴え冴えとしていた。
すっかり痛みが消えている。
自分の傍らへ視線を落とす。
地面に倒れ伏す、血に濡れた五歳くらいの少女がいた。
僕はドキッとして、少女の体を抱き起こした。
パッと見て、目立った外傷はない。
どうやら、僕の流した血に塗れただけみたいだ。
「よかった……」
安心に胸を撫で下ろす。
「取り敢えず、雨を凌げる場所に……」
僕は意識のない少女を抱えて、歩き出す。
二歩。
僕は断念した。
少女が重かった。
抱えて運ぶのは無理そうだ。
では置いて行こうか。
……いやいや、それもダメだ。
人は寒過ぎても死ぬらしいから。
見捨てるわけにはいかない。
「ぐっ……!ふんぬっ!」
僕は少女を抱え直し、腕をプルプルさせながら歩き出す。
一歩、二歩、三歩と踏み出し、更に四歩目。
僕は膝から崩れ落ちた。
少女を地面に寝かせる。
頑張ればいけるかと思ったんだけど、無理っぽい。
普段はあまり気にならなかった足枷も、こういう場面では結構うざったい。
天を仰ぐ。
僕は解決策をひとつ思いついた。
「……ごめん 」
軽く謝って、僕は少女を引き摺りだした。
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