第6話
青く澄み渡った空に白球が舞い上がる。
八月の中旬、夏真っ盛りの野球場は大会温度は四十度をゆうに超える。
年々平均気温が上がる中、カテゴリーに関わらず、野球やその他屋外スポーツは、あの手この手で熱中症予防をしている。
そしてその暑さとは別に、球児たちの熱気が立ち込めるこの野球場では西条高校が夏の大会の初戦を戦っていた。
亮太郎はバッティングをかわれ、ベンチ入りを果たしており、序盤に大量得点で試合を早々に決定づけ、コールドゲーム成立の5回の西条高校の攻撃中だ。
この回も連打でノーアウト二塁三塁の得点のチャンスだ。
「亮太郎、次代打で行くぞ」
そう告げられた、亮太郎は返事をするとヘルメットを深々とかぶり、肘と足に防具をつけ、ネクストバッターズサークルへと向かった。
その途中すれ違った、自分の代わりに退く先輩選手から、肩に手を置かれ「頼んだぞ」と声をかけられた。
そして、前のバッターが内野フライに倒れ、一アウト二塁三塁で亮太郎に打席が回ってきた。
球場アナウンスで亮太郎の名前がコールされると、自チームのスタンドが沸き上がり、亮太郎も自然と気合が入った。
そしてひと際目立った声で「お兄ちゃん!打てー!」と声がするので、ベンチ上を見るとスタンドの最前のフェンスに張り付くようにして櫻が声を張り上げていた。
その傍らにはその櫻を席に戻そうと美里と蓮が櫻の手を引っ張ている。
そんな光景を見た亮太郎は力みも抜け打席に立った。
相手ピッチャーの投げる変化球も、配球もすでに頭に入っている亮太郎は、初球にストライクを入れに来る直球に狙いを絞って、その初球を振りぬいた。
甲高い音を上げ、放たれた白球は轟音ともいうべきスタンドの声援と共に、きれいな放物線を描きレフトスタンドに突き刺さった。
亮太郎は一塁を回ったところで、打ったボールがレフトフェンスを越えたことを確信し、右手を天高く突き出した。
二塁をゆっくりと回りながら亮太郎は思っていた。
櫻は打つ前からあんな調子で今どうなってるんだろうな。
三塁を回ってなおもフェンスに張り付いているであろう櫻を目視できる距離に来ると、予想通り大きく美里と蓮と抱き合いはしゃいでいる櫻が見えた。
――櫻、俺絶対乗り越えるからな。そして、その暁にはこの球場で蓮の率いる高校とレギュラーとして戦うんだ。心の底から野球を楽しんでな。
試合が終わり、スタンドから出ると、在校生が拍手で選手らを迎えていた。
選手はその場で片づけをし、監督である安藤が新聞記者であろう人物からの取材を終えるのを待っていた。
するとそこに櫻が寄ってきて、水を差しだした。
「お兄ちゃん!ナイスバッチ!もう私興奮しちゃった」
「ありがとな。打席入る前から気づいてたよ」
「え、本当!?チャンスだったのに結構冷静だったんだね」
すると美里が我慢できず吹き出すと、それにつられて蓮も笑った。
「そりゃ気づくよ。フェンスに張り付くようにして、叫んでんだもん。おまけに二人に連れ戻されそうになってるし」
「何か恥ずかしい」
「でもあれで力が抜けて打てたよ。正直チャンスで力入ってたから」
「でもホームランになった時、私以上に蓮君の方が興奮してたよ。あんな蓮君レアだね」
「やめろよ」
あわてて蓮が止めるも、亮太郎は微笑み言った。
「いや、うれしいよ。やっぱり野球は興奮しちゃうだろ。本来は楽しいものだもんな。何年かぶりの球場はどうだったよ」
「正直最初は怖かったよ。でも櫻がいてくれたからな」
すると美里が「私忘れてる!なんてこと」と頬を膨らませると
「ごめん!櫻の印象が強すぎて。あんな恥ずかしい思いしたのも何年ぶりかだよ」
これには美里も納得したようで「たしかに」と頷くと、櫻がそれに意義を唱えた。
「でも野球ってそういうもんでしょ。応援してる人がホームラン打ったら興奮しちゃうよ!」
すると蓮と美里が二人で「そこじゃなくて」と笑った。
そんな三人を見た亮太郎はたくさんこいつらとこうやって笑いたいと、自分の中にある壁を乗り越える決意を更に大きくしたのであった。
当初、亮太郎は安藤から渡された用紙の束を両親に渡したとき両親は驚きのあまり固まってしまっていた。
さすがに一人では渡す勇気がなく、櫻はもちろん、蓮と美里に同席してもらっていた。
意を決して一通り目を通し、櫻から説明を聞いた亮太郎の父は神妙な面持ちで言った。
「何てこと。亮太郎のことも目にかけてきたが、どうしても櫻に意識が行き過ぎてしまったのかな」
重苦しい空気の中、次の声を出したのは母であった。
「ごめんね。亮太郎」
母は涙を我慢しきれないようで涙を拭った。
すると、父が険しい顔で亮太郎に言った。
「亮太郎の変化に気づけなかったのは親として責任を感じる。でもな、亮太郎や櫻は何も気にすることなんてないんだぞ。俺たち母さんと父さんは何を言われても、見捨てないし、情けないなんて思わない。亮太郎と櫻のことは父さんや母さんが一番身近で見てきてるんだ。お前たちの良いところだったり、誇れるところだって言えないくらいたくさんある。お前たちは母さんや父さんの子供なんだ。今後は何かあったら遠慮なく何でも言ってくれ。もしそっけない態度をとったら父さんだったら殴り飛ばしたっていい。蓮君もだぞ。蓮君がもしも自分の両親に言えないことがあったら俺たちが話を聞くから」
「ありがとうございます」
蓮は頭を下げた。
「しかし、蓮君の両親とも長いこと付き合っているが、今一度話し合わないといけないのかもな。小さい時からそばにいたのに誰も気が付かなかったんだ」
すると亮太郎の母が言葉を継いだ。
「でも正直なところね、安心しちゃってたんだと思うの。亮太郎はこれだけの野球の名門校で野球を続けているし、蓮君は野球はやっていなくてもあれだけの進学校で勉強に励んでいたからね。両校ともそう簡単に入学できる高校じゃないからね。そこが甘かったんだね」
すると櫻が言った。
「お父さんやお母さんが責任を感じるのはやめてよ。こうなったのは誰のせいでもないんだよ。そんなの言い出したらきりがないもん。そもそも私が無闇に車道に飛び出さなければよかったんだから、でもお父さんやお母さん、そしてお兄ちゃんや蓮君、美里がいなかったら私ここまで立ち直れなかったもん。その時お父さんとお母さんはそんな顔してなかったよ。またこれから頑張ろうよ」
「櫻…」
亮太郎の母は再び涙をふくと「そうよね。これからよね」と櫻の頭に手を置いた。
「櫻の言うとおりだ。正直、亮太郎と蓮君はこの苦しみを乗り越えても、この先社会に出ればまた新たな苦しみが待っている。けれど、それ以上に幸せも待っているんだ。その苦しみを乗り越えるのは一人では難しい。さっきも言ったが一人で抱え込まずに俺たち親に相談してほしい。俺たちも亮太郎や櫻が相談しやすくなるにはどうすれば良いか考えるからな」
亮太郎は微笑みながら深く頷いた。
「しかし、亮太郎は良い指導者に恵まれたな。あれだけの部員数を背負ってるんだ。一人一人と向き合うのは並大抵のことじゃない。それなのに亮太郎のことにここまで親身になって考えてくれるんだ」
「その通りだよ」
亮太郎は素直に返すと蓮の所に行くからと両親に協力を仰いだ。
「俺は櫻の兄だから話がしやすいと思うけど、蓮はそうじゃないと思う。おじさんもおばさんも良い人だし、櫻とも俺とも仲良くしてもらってるけど、櫻のことを身近で見てきた父さんと母さんより慣れてないと思うんだよ。だからお願い」
すると亮太郎の両親はまじまじと亮太郎の顔を見た。
「俺の顔に何かついてる?」
亮太郎が不思議がって言うと亮太郎の母が返した。
「亮太郎も大人になったなと思って。そんなことも言えるようになったんだなって」
すると櫻が突っ込んだ。
「それ帰り際にお兄ちゃんの監督さんも言ってた」
これには亮太郎の両親は顔を見合わせて「やっぱりな」と笑ってしまったのである。
結局蓮の家には、蓮はもちろん、亮太郎の両親、そして亮太郎が行くことになった。
櫻も一緒に行きたいと最後まで言っていたが、大人数で行っても仕方がないといって家に残した。
蓮の両親には簡単な説明を電話でしてから、時間を相談し向かった。
実際に玄関を開け、蓮が先頭に入っていったとき、いつもは何気ない話を笑いながら話す蓮の両親も亮太郎の両親によそよそしく挨拶をした。
「山下さん、これはいったいどうしたの?」
山下とは亮太郎の苗字である。
「実は蓮君のことなのよ」
まず話し始めたのはお互いの母であった。
「蓮が何かしでかしたのかしら」
「そうじゃないの。実はさっき私も亮太郎から話を聞いたことなんだけどね」
すると話をとぎった亮太郎の母は父に説明を求めた。
「蓮君が野球を辞めた理由に何か心当たりあるかな?」
蓮の父が分かっているかのように「勉強のためだろ」と言い、続けた。
「それは山下さんとも話したことがあると思うが」
「もちろん俺も蓮君の高校のことを思うと野球をする余裕がないのだろうとは予想はついたのだけど、そうではないみたいだ」
「どういうこと?」
「これを見てもらえるかな?」
亮太郎の父は蓮の両親に安藤から亮太郎経由で渡された蓮と亮太郎の現状についての詳細の束を渡した。
しばらくすると、蓮の父は驚いたような表情で亮太郎の父に顔を向けると「これって」と言って固まってしまった。
「その通りなんだ。俺もさっき亮太郎からその用紙の束をもらって説明を聞いたところなんだよ」
すると蓮の母はすすり泣きを始めた。
まさに亮太郎の両親と同じような反応であった。
しかし、実際に櫻の心と寄り添ってきた亮太郎の両親に比べ蓮の両親の方が動揺が明らかだ。
「俺達はてっきり勉強に精を出していたのだと。正直蓮が小さなころから野球を頑張っていて、あれだけの名門校からお誘いを受けたのに、断って野球を辞めると聞いたときにはもったいないと思ったけど、必死に勉強している蓮を見ていたら、別の目標や、やりたいことができたのだと思って、だけど蓮の心にはこんなことが…」
「俺も亮太郎が櫻のことで未だに心の傷を抱えてたんだと気付かなかったことにショックだったよ」
すると亮太郎の母が言った。
「さっき櫻に言われたの。親の責任とか誰の責任とか言うの辞めてって。お父さんやお母さんやお兄ちゃん、そして蓮君や親友の美里ちゃんがいたから立ち直れたんだって。その時私達はこんな顔していなかったって、これからまた頑張ろうよって」
「櫻ちゃんの言うとおりだな。悔いても何も解決しないからな。俺達が蓮や亮太郎君から相談を受けやすい環境を作らなければならないってことだな」
「俺達もさっきそう話し合ったばかりだ。それで相談なんだが、かといっても素人である俺達にはこれを読んだだけでは症状について全て理解できたわけじゃない。安藤監督に合って話を聞こうと思うんだが、山下さん達も一緒に話を聞きに行ってくれんかね」
「そりゃあもちろん」
蓮の両親は深く頷くと、蓮に向かって優しく微笑んだ。
「蓮、蓮のためにもよくないから一度しか言わない。親として謝る。すまない」
蓮の父が蓮の深く頭を下げると蓮は「やめろよ」と頭を上げさせた。
「いいか、蓮。もしかしたら亮太郎君の両親も同じこと思っているかもしれんが、これは亮太郎君にも言えることだが、人は一人じゃ生きていけないんだ。一人じゃ抱え込む器が小さすぎる。器の中に入ったものを常に救い上げてくれる人が必要なんだ。それは俺達両親でもいい、亮太郎君でもいい、櫻ちゃんでもいい。心を許せる人を一人でも多く作って、相談し合い助け合っていくんだ。この通り、俺たち親も完璧じゃない。でもそれが人間なんだ。これから大人になる蓮と亮太郎君にもわかってほしい」
蓮は何か心に小さな光が差し込んだような気がして「ありがとう」と一言返した。