第4話
「亮太郎!取れないボールじゃないだろ!球際だ!」
「はい!もう一本お願いします!」
西条高校のグラウンドではまさに野球部は練習中。
百人に迫る部員数を誇る西条高校野球部はその人数に勝るぐらいの声量で白球を追いかけていた。
この日の練習は守備がメインで、最後のノックを受けていた。
強豪校ではよくあることなのだが、Aチーム、Bチーム、Cチーム…とプロ野球でいうところの一軍、二軍のことだが、もちろんAチームがトップになっており、亮太郎は一年生の後半からAチームに入り二年生になってもAチームに入っていた。
Aチームといえど、亮太郎はベンチ入りできるかどうかの線で争う選手であった。
Aチームが二十五人で、公式戦のベンチ入りメンバーは二十人。
甲子園に出場すれば二人少なくなり十八人となる。
西条高校は昨年の夏、準決勝で敗退しており、新チームで挑んだ春の甲子園をかけて戦う秋の大会では県大会で優勝するも、地区大会で初出場の相手に敗退し、春の甲子園は絶望的となっていた。
夏と違い春の甲子園は秋に予選を行い、県を勝ち抜いても地区大会がある。
西条高校は関東に属しているから関東大会を戦うわけだが、関東の甲子園枠が四校又は五校。
関東大会が終わった後に行われる神宮大会では各地区で勝ち上がった高校同士が争う大会があり、仮にそこで関東の地区の代表高校が優勝すれば春の甲子園の神宮枠というものに入り、関東地区の枠が一つ増える仕組みになっている。
そして、その高校の決め方は、連盟の推薦という形になっており、ただ勝ち抜けばよいというわけではなく、戦い方や普段の学校生活等の評判や評価で判断される。
といっても、戦い方が良いチームが勝つのはどのスポーツでもそうであるわけで、実質的に準決勝まで進めば上位四校に入ることになるので、甲子園出場にかなり近いことになる。
残りの一校は東京都で勝ち抜いた二校のうち一校との兼ね合いになる。
なので、関東四校、東京二校の場合もあれば、関東五校、東京一校の場合もある。
なので少なくとも関東大会で準決勝までは進出したいところだが、初戦で負けてしまった西条高校の春の甲子園は現実的に絶望的ということだ。
その日の練習後、監督である安藤が亮太郎を呼び出した。
西条高校のグラウンドのバックネット裏に監督室があり、亮太郎はそこで一呼吸置いた。
高校野球では良くあることなのだが、監督室というものは選手にとってある意味聖域で、なんとも近寄りがたいものである。
なので、無断で入る選手はいるわけもなく、監督室に何があるのか詳しく知らないまま高校生活を終える選手も少なくない。
亮太郎もそんな気持ちで、緊張しながら監督室の扉をノックした。
中から安藤と思われる声で「入っていいぞ」と返答があったので、「失礼します」と亮太郎は監督室へ入っていった。
亮太郎は過去にも何度か入ったことがあるので、中の雰囲気は大体わかっているが、最初に入ったときには生きた心地がしなかったものだ。
中に入ると左に大型のモニターが有り、反対側には二か月分のスケジュールがびっしりと埋まっているボードがある。
そして、そのボードの前にソファーが置かれているがそこに安藤が座っていて、対面のソファーに亮太郎を促した。
亮太郎はまた、「失礼します」と座り、安藤の言葉を待った。
「亮太郎、お前に直接関わることではないのかもしれないが、中学時代にバッテリーを組んでいた相方がいるだろ。確か蓮君と言ったかな。」
「覚えてらっしゃったのですか」
「そりゃあ覚えているさ。当時お前とその蓮君の二人は、俺がその年に一番この高校に来てほしいと願った二人だからな。それにあれだけの才能があるにも関わらず、原因不明のまま野球を辞めてしまったんだからな」
「それは僕にも正直わかりません。今思えば、将来の事何も話していなかったので。どこの高校で野球をやりたいとか。そもそも、高校へ行って野球をするということ自体話していなかったですから」
すると安藤は腕を組みなおすと軽く体を揺らしながら、神妙な面持ちで話した。
「実はな、言おうか迷っていたんだが、お前だから言おうと思ってだな。先日河川敷でその蓮君を見たんだよ。」
安藤はそこで亮太郎の反応を見るように間を開けた。
亮太郎はというと、安藤が何を言おうとしているのか分からず、ただ耳を傾けることしかできていなかった。
そもそも、監督である安藤が蓮の事を覚えていて、今もなお気にかけているということが不思議で、それに今になって何故という気持ちもあった。
「その表情を見ると俺が何を言おうとしているのか予想もついていないのだろうが、その蓮君が壁に向かってボールを投げていたんだよ。相変わらずのフォームとボールだったよ」
目をまん丸に空けるとはこういうことかというように亮太郎は驚きのあまり目をひんむき、言葉に出ないでいた。
「あの感じだと、毎日のようにボール投げてると思うぞ。それに走り込んでもいるな。フォームに一切のブレがない」
もちろん亮太郎は高校に進学してから、蓮とキャッチボールくらいはしたことがある。
しかし、それは野球未経験者がやるような遊びの一環で、会話をしながらのキャッチボールのような軽いものであった。
それにキャッチボールでさえもあれだけ乗り気ではなかったのに、一人で河川敷でボールを投げていたとは到底信じられなかった。
「僕には到底信じられません。蓮が全くボールを触っていなかったのかというとそうではないと思いますが、自分とキャッチボールをするのも嫌がっているのに、一人で陰で黙々とやっていたなんて……」
「高校生くらいの年齢になると精神的に子供と大人の境目で不安定になるんだ。特に環境が大きく変わったのなら尚更だ」
「精神……」
「俺が思うに、彼には過去に野球にまつわる何らかの大きな出来事があったのではないかと思うんだ。トラウマになるようなね」
まさにその通りなので亮太郎は小さく頷くと櫻とのことを話した。
話している間、安藤は険しい表情で亮太郎の話を聞いていた。
「なるほど。お前の妹の足の事を未だに彼は責任に感じているというわけか。」
「本人に聞いたわけではないのですが。監督が僕らを誘ってくれた後に話した時にはいつか話すと言ってくれていたんですが」
「仮にお前の妹の足が未だに完治していないのを自分の責任だと思っているとしよう。お前はそう思っているんだな」
亮太郎は少し考えるも、それ以外の理由が浮かんでいなかったので頷いた。
「あくまで俺の考えなんだが、その可能性は薄いと思うんだよ。もしそうなら、お前の妹が事故に合い、足が元に戻るまで相当な年月が掛かるという時点で野球を辞めているさ。少なくともその後の中学最後の大会には出場していなかっただろう。それに走り込みや投げ込みを続けている理由が分からない」
安藤の言葉に亮太郎は深く納得するも、すると、何故蓮は野球を辞めることにしたのか。
「その表情からすると、余計に分からなくなっているようだな。さっきも言ったが、これは俺の考えだから、お前の心に留めておいてもらっても構わない。どうするかは、お前とその彼との問題でもあるからな。だけどな、お前のプレーを見ていると何か一つ殻を破れていないんだ。何か引っかかっているものがある。それはおそらくその彼と同じ状況に陥ってしまっているんじゃないか?」
「蓮と同じ状況……」
亮太郎は高校に進学してからというものの、その将来性を買われ入学当初からAチームに帯同し先輩たちと共に行動してきた。
しかし、一定の結果は出すものの、もう一歩というところで結果が出ず、信じられないようなミスをする。
それにはまだ、一年生だということもあり、プレーに安定性がないと言ってしまえばそれまでだが、安藤はそうは思っていなかった。
「実はこの西条高校の野球部の監督になる前の話なんだが、大学病院の精神科医だったんだ。それは何千人、何万人の患者を診てきた。その患者の中にはスポーツに関わる患者も数多くいた。その患者たちの症状の中にその彼と全く一緒の行動をしている患者が複数いるんだ。複数というと数が少ないように思うな。ある病名の患者すべてに共通する症状だ」
「それはいったい…」
「イップスだ」
「イップス……」
亮太郎もその言葉は知っている。
プロ野球選手でさえも、なってしまう人がいる症状で、精神的な原因などによりプレーに支障をきたしてしまう。
症状の幅は広く、知らずのうちに苦しんでいる選手は多い。
「おそらく彼は、野球をしたいという意思はあるのではないかな。けれど、どうしてもイップスの症状が邪魔をして思うようにボールを投げられない。だから、闇雲になっている。そんな気がしてならない」
亮太郎には返す言葉が見つからなかった。
蓮が言ってくれるまで待っていようと思っていたが、こうなると話は別だ。
蓮は話したくても話せないのだ。
蓮の苦しみは本人にしかわからないだろう。
しかし、自分自身にも何か出来ることがあったのではないだろうか。
「自分はどうしたら」
「お前はまずは自分自身の殻を破らなければならない。今聞いた話だと、かなりショッキングな出来事であったことは間違いがない。さっきも言ったが、お前たちの年代は精神的に大きく変化する時期だ。と同時に不安定な時期でもある。そういう時に自分の奥底に溜まっていたものが表面化することは大いにある。おそらく、彼自身は奥底に留まらずに、すぐに表面化したのだろう。しかし、お前の場合は奥底に留まっていた。それが徐々に表面化してきている。俺はそう考えているんだ。だから、今一度彼と向き合いお前自身も乗り越えなくてはならない。俺はそう思う」
「けれど、蓮と野球の話をしようとすると、はぐらかされてしまって。少なからず蓮が苦しんでいるのは自分でも分かっているつもりで、深く聞けないのです」
「もちろん、もともと医者だった俺からしたら、精神科のある病院を受診するのを勧める。しかし今の現状精神科というだけで、行くのには大きな勇気がいる。精神科イコール弱い人間みたいな風潮があるんだな。お前自身もそうだろう。それは俺たち大人のせいでもある。ましてや元精神科医としてその壁を壊せていない現状に責任も感じているんだ。だから、お前の指導者としても俺に協力させてもらえないだろうか」
安藤からの力強い言葉に感謝以外に返す言葉もなく亮太郎は深く頷いた。