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死環  作者: 貴戸わたり
第一部
9/36

九、確信

 羊は青い顔をして眠っていた。

 嬰生と縡は既に帰り、氷灰は手の中で翡翠の玉を転がしながら弟子が目覚めるのを待っていた。


 氷灰たちが駆け付けた時、羊は川の中で叫び続けていた。呼びかけても振り向かずに、しゃがみ込んで耳を塞いでいた。縡は川辺に立って慄いていたが、嬰生に気付くと泣きながらかき付いた。

 羊の手を掴んで覗き込むと、目を見開いたまま空を裂くような声で叫んでいた。とにかく川から出そうとしたが体が硬直したように曲がらず、その異常事態に氷灰と嬰生が顔を見合わせると、羊の全身から力が抜けて川に倒れた。急いで川から引き揚げ脈を確かめていると、縡が「急に叫び出したんだ」と嗚咽の合間に言った。嬰生は縡に頷いてみせると、彼を連れて家に戻った。

「火を用意してきます」

 羊は先ほどと打って変わってぐったりと四肢を投げ出していた。強く握っていたのだろう、手のひらが白くなっていた。氷灰はその手を掴むともう一度名前を呼んだ。見慣れた顔が、いつもより大人びて見えた。


 翡翠の玉は手の中でいつまでも冷たくなめらかで、そういえば何度こうして羊の寝顔を見たのだろうと氷灰は思った。寝かしつけ、ぼんやりと隣りで座っている……あの空気の静けさが、今回は更に増しているような気がした。

 転がしていた玉をつい床に落してしまうと、その音で羊が目を覚ました。ぎこちない様子で目を擦り、横になったまま辺りを見回した。

「羊、具合はどうだ」

「……え?」

 その声は掠れていた。羊は痛みに顔をしかめ、また辺りを見回して首を捻った。ゆっくりと体を起こすと、ぼんやりと壁を見つめた。

「ここ、家だ」

 今度は服を見下ろし両手を広げて首を傾げた。氷灰は羊から視線を外さず玉を拾った。

「替えた。川で濡れたから」

 羊は疲れた様子でため息をついた。高い山を登ったような、全身からのため息だった。

「川で私を呼んでいた」

「……呼んだ? あぁ……」

 そう言ったきり、羊は口を開かなかった。川で縡といたことは覚えているのだが、途中からは全く覚えてない。縡の手を掴んだ、それは覚えていたが師には言いたくなかった。

 氷灰は正座を正すと羊に言った。

「聞いておきたいことがある」

「……」

 それは羊にとって嫌な聞き方だった。氷灰は羊が全身で嫌だと言っているのを見て、結局やめることにした。倒れたばかりなのに、更に負担を強いるようなことはしたくなかった。とりあえず今日は安静にさせてやりたい。

 氷灰は立ち上がると籠を持った。

「いい、寝ておけ」

 山菜を採るために向かいながら、氷灰は羊の悲鳴を反芻していた。羊の中でなんらかの恐慌が起こった。

 考えてみれば、それも当然だった。相当心に負担を負っていた羊が、手に負えないほどの恐怖を抱えていてもおかしくはない。

 そして氷灰に新しい悩みが生まれる。私は確証を求めるべきか?


 嬰生が帰って数日経つと、文が届いた。杉の木片には手短に話さなければいけないことがあると書かれていた。弟子の頃二人でよく街を眺めた岩場まで来てほしいとあった。

 私は羊をちらりと見やった。先日摘んできた菊花を磨り潰している。家では不都合な話なのか。この子供がいてはまずいのか……それは羊に関わる話という事を意味している。


 倒れた事などすぐに忘れた羊は家を山を闊歩した。相変わらず、みの虫を袂に何匹も入れたり見つけてきた蝉の抜け殻を私の背に引っかけたりしていた。笑い転げる羊を叱りつけ、その子供らしい悪戯の健在に安堵することもあったが問題も依然変わらずそこにあった。

 羊は短くなってきた裾を大きく乱したまま家の中を歩き回り、時にはぞっとするような女の仕草をしてみせた。子供は本能に正直である。けれどそれ以上に苦痛に正直だ。羊は何故自分がそんな行動をしたいのか考えたこともないだろう。ただやりたいからする。その無邪気な意志が行動を更に悲しく見せた。

 私は板に書いた術の考察を読み返していたが、あまりにも行儀が悪いので衣服を直すように言った。その白く細い足を上げながら羊は首を傾げ、じっと私をあの目で見つめた。

「今ですか?」

 板の欠け目を無意味に撫でながら頷くと、羊は止める間もなく帯を解いてしまい、それから衿を合わせ直し帯を締めた。私は背を向け再び書に目を落としたが、背中に刺さる視線を感じて集中できなかった。


 陽が隠れた曇り空を仰ぐ。霧が立ち込める中、食事は先に食べておくように羊に言った。いつもは同行させられるのに今回は留守を命じられたので、羊は不安と一人の楽しみを抱いた目で氷灰を見送った。

「帰って、きますよね」

 それまでの自分の行動から、師が自分を捨てるのではないかと思っていた。それだけの自覚はあった。

 氷灰は久しぶりのその言葉に強い既視感を覚え、唇を噛んでから頷いた。


 山の頂上まで歩いていく。久しぶりに登ったので息切れした。氷灰は額の汗を拭い、まとわりつく湿った空気を払う。嬰生は既に来ており、弟子は連れていなかった。風が強く、巾の縛り布がはためいて目にかかった。街を眺めていた嬰生は師に気づくと礼をした。

「縡は、いいのか」

「はい。頼んできました」

 そこで会話は途切れ、気まずげにまた街を見やった。嬰生は風に捲くれる袖を抑えながら口ごもっていたので、氷灰からそれを切った。

「羊か」

「……はい」

 氷灰は絶壁の岩場まで行き、そこへ腰掛けた。冷たい風が気持ち良く、生した苔を撫でていると嬰生も知りの傍へ行った。嬰生は突き出た岩に腰掛け足を宙に投げ出すと、街の薄い靄を眺めながらぽつりぽつりと零すように話し始めた。

「あれから縡の様子もおかしかったんです」

 嬰生は膝を抱えた。それはこの子の、彼の癖で、悲しい時や悩みがあるとよくこうして膝を抱えた。氷灰は懐かしさに目を閉じた。

「何か、したのか」

 縡が言うには、羊は女の子の話をし、腕に触れてきたという。それを拒否すると怒った。腕の触れ方が嫌な感じだったと、ひどくぐずった。

 それを聞いて氷灰は血が抜けてしまったように青い顔をした。あれだ。私の頬に唇を寄せた、手に頬を寄せた。あれを、羊は縡にしたのだとすぐに気付いた。

「しばらく、私から離れようとしませんでした」

 講義に集中せず、少し叱るだけで泣いたりしたと嬰生は言った。何より縡自身が己の感情に困惑していた、と。

 羊は恐らく自分が何を相手に向けたのかさえわかっていない。縡と嬰生への罪悪感と、羊へのただひたすら泣きたくなるような感情とで氷灰は額を押さえた。。

 靄がかかった街の向こうを見る。細部は見えない。だが、街そのものは確かに見えた。そこにあるのだ。

 霧で濡れた袂が重く、引き寄せると腹に押し当てた。そうしないと叫び出しそうだった。

「御師匠様」

 嬰生は師を目で促した。

「確かめるべきです」


 もう黙って見ていることはできない。羊の心身は悲鳴を上げている。他者へ手を伸ばし、意図せずそれは危害を加えることになってしまっている。

 氷灰は捨てられていた子供の背中を思い出した。

 吐かれた息の白さ。あらん限りの声で母を呼ぶ泣き声。首に、腕につけられた黒く赤い痣…。冷たく砂利に痛む足を思い出す……靴が脱げた事にも気付かずに、後を追い続ける。

 足場の悪い道を下る。暖かい樹皮に触れながら、氷灰は苛立ちをどこに向けようか考えていた。

 女が大嫌いだった。子を産むからだ。そしてその子を殴り、傷つけ、侵すからだ。氷灰は家に戻る足が止まりそうになるのを叱咤して歩き続けた。

 一体何を望んで子供を産むのか、氷灰は分からなかった。容姿のかわいらしい子供だろうか? それとも賢い子供? 言う事を聞く子供? 親は一体何を望んで子供を欲するのだろう。氷灰には分からなかった。それを知る前に山に捨てられた。愛情にさえ条件が要る。血の繋がりだけでは愛してくれないのだと、氷灰は身を以って知っていた。


 木の緑が沈黙を作り出す。昼の陽が家の中に暗い影を作った。その空気が絶好の機会を作り出していた。二人は食事を終え講義を終え、氷灰は片付けをする弟子の姿を見守った。

 本当に聞いていいのだろうかと、氷灰はまだ迷っていた。小さな唇が笑みを作っている。それに丸いあどけない目。席を立つと、靴を履いた。外へ遊びに行くのか……。

 聞けば、自分に対する信頼は壊れるかもしれないと氷灰は思った。警戒するかもしれない。一番個人的な場所へ無遠慮に踏み込んでくる部外者だ。師を母親と同じものと感じるかもしれない。

 それでも、しなければいけないと思った。上擦った声で氷灰は呼びかけた。

「羊。……羊、こちらへ来なさい」

 羊は違和感を敏感に感じ取り、戸口の前で動かなくなった。師の顔色を視界の端で伺い、これから何を言われるのかと体を硬くした。氷灰は竹籠から衣服を取り出し、もう一度ゆっくりと声を掛けた。

「聞きたいことがあるだけだ」

 辛抱強くそう言うと、やっと羊は靴を脱いで正面に座った。強張った表情で警戒している羊を、持っていた服で包んでやった。

「正直に答えろ。とても大事なことだ……」

 羊はゆっくりと目を閉じ、開いた。夢中に入ったように虚ろになったがまだ現実にいる目を見ながら、氷灰はそっと肩へ手を添えた。幼い目がさっと窓へと走った。

「母親はここより下に触れたのか?」

 氷灰の目を凝視する、目。口が一度開き、閉じた。

 露骨過ぎたかもしれないと内心で悔やんだ。だが他に言葉が見つからなかった。そして当然のように、この一言で羊は師が何を言わんとしているかをすぐに察した。眉がゆっくりと寄せられていき、視線を落とした。羊は氷灰の膝元から目を離さなかった。息を殺して身動きひとつしなかった。

 その様子を確認した時点でもうこの後の問答は不要だった。投げ出したいほどの緊張感と空気の重さだったが、羊は返事をした。

「捻挫、したから……」

 羊は露骨に誤魔化した。

 その事実が確認できただけで十分ではないか? 氷灰はこの先どうするかを考えた。隠そうとし、母親を庇おうとし、この状況に不安感を抱いている子供に何を言えばいいのか。はっきりと明言させるべきか? それとも子供の意志を尊重すべきなのか。

 羊は突然立ち上がり、俯いていた氷灰は慌てて顔を上げた。すると羊が氷灰の顔を一瞬見た。見開いた目が何を訴えていたのかわからなかった。その瞬きの後、蝶が手から逃れるようにするりと傍を走りぬけた。

「羊……」

 落ちた服を探りながら、走り去る背中が見知らぬ子供に見えた。伸ばした手が所在無く、ゆるゆると降ろされた。遠ざかっていく足音を聞きながら、氷灰は呆然と床を見つめた。築き上げた信頼関係を壊してしまったと思った。取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。その後悔と共に、母親を憎んだ。やはりあの小さな体に触れたのか。

 追いかけなければと思ったが、これ以上逃げるものを追う気になれなかった。羊の安全で安心できる場を壊してしまったと思った。氷灰は両手で顔を覆って呻いた。

 羊の眠る顔を思い出して泣きたくなった。何も怖いことや嫌なことなんてない、そう言っているような子供の無垢な顔だった。触れてきた指の小ささを思い、抱き上げた体を思い胸が潰れそうだった。そしてそれを傷つけ混乱させた母親を憎んだ。一体どんな気持ちで母親を呼んでいたのだろう。

 感傷的なため息を払ったのは、他ならぬ羊だった。裸足のまま戸口に立ち、氷灰をじっと見ていた。

「僕のこと嫌いなの?」

 いつになくはっきりとした口調で羊は聞いた。言外に、嫌なら出ていくという決意が見えた。氷灰はやはり慎重に言葉を選びたかったが、早く何か言わなければまたどこかへ行ってしまう気がした。

「いいや」氷灰は渇いた唇を舐めた。「お前の師を辞めたいと思ったことはない」

 羊はじっと氷灰を見つめた。氷灰もまた、羊から視線を逸らさなかった。数秒の後、羊は視線を落とした。

 羊はぎこちなく足で土を蹴り、遊びに行って良いですか、と言った。あぁ、と答えると羊はまたするりと戸口から消えた。氷灰は安堵と罪悪感とで胸が苦しかった。

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