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死環  作者: 貴戸わたり
第一部
6/36

六、望み

 夏も中頃だというのに雨の降る朝、氷灰は湿気た服をはたいて羽織った。着替えていると、隣の布団が身動きしない事に気付いた。まだ眠っているのか、それとも怠惰なのか。布団を少し捲くってみるとしっかり目を開いていた。

「頭が痛い」

 羊は布団から出ようとせずそう訴えた。しかし顔色も良く普段と変わりない表情をしていたので、とりあえず起き上がるように言うと、羊はいつもと同じ敏捷さで飛び起きた。氷灰の肩に触れると、笑って照れたように体を揺らした。

 ふざける羊の背を軽く叩くとまたくすくすと小さく笑った。


 羊の籠を編む速さは既に文句のないものになっていた。小さな籠ならするすると陽が頂上に登るまでに編んでしまう。ただ術として見ると、やはりまだ要所々々が不完全だった。

「ここが甘い」

 そう言うと、羊は首を傾げた。氷灰が自分の籠を見せ、違いを教えてやると、羊は頭を抱えて唸った。

「それだけで?」

「そうだ。籠の編み方は術の編み方と似ている。いつも同じように編めなければ、術は成り立たない」

 羊はうーんと唸りながら籠をひっくり返して見ていたが、やがて放り出して聞いた。

「術ってどんなのがあるの?」

 違う場所へ転移する術、体の成長あるいは老化を止める術、誰がその道を通ったか記録する術……。

「人にかけるものもあるんだ」

「神仙には術はかけられない。かけようとしてもいけない。絶対にだ」

 羊は目を輝かせて話を聞いていた。どうやら羊にとって術師は適材適所らしい、と氷灰は思った。編み方が甘いと言っても、上達が早かった。

 講義が終わると羊はいつも山へ出掛けて行った。にぎやかな子供がいなくなったので、氷灰は早速書物を写そうと板と筆を用意した。弟子が幼いうちは必ず邪魔をされる。一篇、二篇と必要な箇所を写していき、あと一篇という所で羊が戻ってきた。

 十枚程の笹の葉を注意深く持っており、それを振って見せた。

「ねぇ、笹船作って!」

「自分で作れるだろう」

 氷灰はうんざりして答えた。あと一篇で終わるのに……それでも羊は笑ってねだった。

「お師匠様作ってみて」

「今忙しい」

「一個でいいから」

 作って、作ってとしつこく袖を引くので文字が書けず、仕方なしにひとつ作ってやった。氷灰は笹に切れ目を入れながら羊をちらりと見たが、羊は笹に夢中で気付かない。完成し、これで落ち着いて文字を書けると背を向けると、また袖が引かれた。

「ねぇ、もう一個作って!」


 こうした子供のしつこさと暑さに、氷灰にしては珍しく憂鬱な日々が続いていく。深夜の散歩も鳥の声も何の安らぎにもならなかった。拾って数ヶ月、羊が最大の悩みになりかけていた。

「お師匠様」

 呼びかけられ、弟子の方を向くと、羊はじっと氷灰の目を見つめ、首元を見つめた。口を覆うと、氷灰の首に冷たい鼻を押し当ててゆっくりと離した。そしてまたじっと目を見た。その一連の行動は何かの儀式のようだった。

 日頃接触を好まない氷灰は、羊の不安定さからある程度許していたが、これには驚いて後退った。

「羊?」

「お師匠様は女の人を持ってない」

 妙な言い方だった。氷灰はとっさに反応が出来ず、眉をひそめることでとりあえず返した。どうしてここで女が出て来るのか。持っているとは何なのか。妻帯しているということか。氷灰が考えを巡らしていると、羊はまた言った。

「女の人と舐めた?」

 一瞬、氷灰の心臓は咳き込みそうなほど大きく跳ねたが、羊は気付かなかった。師の顔はいつも通り冷たいものに見えただろうが、内心は冷や汗を流していた。

 子供というのは時々仰け反るような確信を突く事があるが、羊のは性質が悪かった。細部に至るまで知ろうとし、そしてそれを活用しようとさえした。それは青少年にとっては至って健全な事だったが、七歳程の羊にとっては相応しい話題ではなかった。かと言って羊が子供騙しの知識に騙されないことぐらいは気づいていた。

 羊は男女の秘め事について確実に知っている。

「いいや」

 氷灰はそれだけをやっと言い、顔を背けたが、羊の視線を感じていた。それは責めるような激しく厳しいものだった。


 きっかけを得た羊は、異常な程の興味を持って師にしつこく聞き始めた。執拗に言葉を発してはこれは何て意味なの、この言葉をあれを指すのと袖を引いた。そして露骨な事まで恥ずかし気もなく口にした。

 一体どこからそんな知識を得てくるのだろう?

 氷灰は羊の持ってくる言葉を封じ込め、まだ早いと諭した。それでも羊は並々ならぬ関心を保ち続け、街ですれ違う男女を、そして師をじっと注視した。その視線は当然だがひどく居心地が悪かった。段々不機嫌になっていく氷灰を見て、羊はその手の話をしなくなった。

 その沈黙が何を意味し、知識が何を意味するのか。氷灰は考えたくなかった。だがそれが羊を蝕んでいくのを黙って見ている訳にもいかず、憂鬱な気分で悩み続けた。どうすれば良いのか分からなかった。


 ■


 術師の娯楽のひとつに文があった。布や板に書かれた書簡は術を使いやりとりされる。術も様々で、その術の完成度を競う一面もあった。氷灰への差出人は主に弟子たちや友人だった。近況報告や、季節の変わり目には家への誘いも届いたが、羊が不安定な間は出掛けることを避けた。氷灰は鄭重に返事を書いて文を飛ばした。

 氷灰が使う術は文字通り布や板そのものを物理的に飛ばすものだ。瞬速と言って良い程の早さで飛ばし、着く直前に術を切った。単純な術だが力加減が難しい術でもあり、下手な術師は相手に怪我をさせることもある。

 その日氷灰が講義中、突然戸が音を立てて倒れた。一度目は何かがぶつかる音、そして戸が倒れた音。羊はその場で飛び上がり、そのまま逃げの体勢をとった。

「お師匠様……何かいる……」

 氷灰は笑いを堪えながら違うとだけ言って立ち上がった。起てられた術の気配を感じたために、氷灰は書簡が着く前から気づいていた。その粗野で全力で起てられた術は確かに自分の弟子のものだった。

 危ないよ、と騒ぐ羊を黙らせて、倒れた戸をとりあえずはめ込むと、外に出て家の周りを見渡した。氷灰の後ろで羊がやっぱり危ないよと震えていた。それを放っておいて足元を見やると、案の定戸の右端に薄い杉の板が割れて落ちていた。

「何ですか、それ」

 氷灰の手元を指さしたが、羊は決して安全な場所を動かなかった。氷灰は笑んで板を裏返した。大きく跳ねまわる文字が一面に書かれていた。

「文だ。手紙」

 送り主である弟子の一人は、それはもうこの術が不得意だった。力加減が下手でよく家を壊し、岩に当たって砕けたこともあった。その欠片は弟子の顔面に直撃し、一ヶ月はその術を練習しようとはしなかった。そうして今回も力が入りすぎ、勢い余って戸にぶつかったのだった。氷灰は欠けた書簡の角を指で撫でながら、屋内にいて良かったと内心安堵した。

 文には弟子を取ったと書かれ、知人がおもしろい事を始めた、新しい術の改編の事などが書かれていた。

 羊は書簡が気になり見せてくれとせがんだ。だが氷灰は絶対に見せなかった。

「人の文は見ぬものだ」

 けれど羊は、なんで、けちとまで言い食い下がった。好奇心が理性を上回ったようだった。

「書は見せてくれるのに」

「これは個人的なものだ」

 その一言は驚く程効きいた。羊は無理に奪おうと伸ばしかけていた手を止めた。

 それからはもう講義にならず、疲労困憊といった様子で羊はぐったりと寝込んでしまった。

「具合でも悪いのか」

 羊は何かに打ちのめされたように苦しそうに呻き、荒い息を繰り返した。氷灰は動揺を隠して青い顔で眠る羊の髪に触れた。柔らかく細い、若い毛だった。撫でてやると、ゆっくりと目が開き、喉からの細い声で何か言った。聞き取れず耳を寄せると羊はもう一度言った。

「僕にもあると思う?」

「何がだ」

「僕には無いんだよ」

 その時突然鳥がけたたましく鳴き、氷灰はつい窓の外を見た。視線を羊に戻すと、顔を歪ませて涙を流していた。

「怖いよ」

「羊、何のことか話してみなさい」

 静かに涙を一筋流した羊に、氷灰は布団を首元までかけ直してやった。羊は息をつき、小さく喘いで続けた。

「どうしよう?」

「どうもしない。ここは安全だ」

 氷灰は分からないままそう言ったが、羊は顔を覆い、布団の中で呻いた。その時突風が吹き、家が鳴った。羊の呻き声と共鳴して空間が震撼したように耳元がざわつき、泣くように呻く羊の額を氷灰はもう一度撫でた

 突風はその後も三度起こり、枯葉が地に落ちる頃には羊は眠っていた。


 ■


 氷灰は時々夢を見た。

 それは現実のように山を散歩している夢だったり、花の中から小さな人が這い出してくる突飛な夢だったりした。そういう夢を氷灰は楽しみ、これは夢だと気づくと更に楽しくなった。

 今夜の小さな夢は、丸い淡い夢だった。ふわふわと漂うそれを覚めると同時に見失ってしまい、子供の癇癪のような不満感と寂しい空虚感を感じた。まだ眠りの境にいると、何かが腹に触れた。反射的に寝返りを打つとそれは足へ降り、肩へ上がった。氷灰は自分が微笑んだのを感じた。その触れる何か……恐らくそれは手で、羊でしかありえなかった。

 羊は氷灰の全身を撫でていった。背後で衣擦れの音が聞こえる。小さな手は再び腰に落ち着くと微かに前後に揺らそうとした。氷灰は心地よい眠りの間で子供の行動を観察することを楽しんだ。

 目の前が暗くなり、頬に風を感じた。何かが触れた後横腹に重さを感じ、接触はそれきりで足音が戸外へ静かに去っていった。

 氷灰はゆっくりと目を開き、しばらくそのまま閉じられた戸を眺めていた。羊は氷灰の頬に接吻をしたのだ。ませた子供だ、と呆れた笑みがしばらく収まらなかった。

 教えてもらえないから自分で実践しようとしたのか。いや、ということはそういう風に見られているのか?

 氷灰はそれを無邪気なものだと笑えなくなり、初めて頬に触れた。あの微かな感触はまだ残っていた。

 異常に性に関心のある七歳の子供について、氷灰は夜中にも関わらず考え込んだ。


 羊は川を覗き込んだ。手を入れると冷たく、流れが感じられた。

 羊は自分の感情を把握できなかった。時々母親が無性に恋しくなったかと思えば氷灰がたまらなく好きになったりした。その湧き出てくる愛情に羊は戸惑った。それが庇護者に対する愛情なのか恋情なのかもわからなかった。氷灰に触れてほしかったからだ。男女が路地裏でしているように。だから羊は気持ちに従った。触れたければ触れ、接吻したければした。ただ他に方法が思い浮かばなかったから、そうしただけのことだった。

 接吻をしてしまうと、それ以上の接触をしてもらいたくなった。望んだ先に何があるのか知っていたし、「それ」の嫌悪感も不快感も知っていた。だが求めずにはいられなかった。何故かは分からない。ただ、氷灰にもしてほしいと思った。それは強烈な不安感と嫌悪感を連れてきて、羊は頭を抱えて苦痛に耐えた。

「羊」

 師が呼べば、羊はじっと物陰に隠れて様子を伺った。師は自分を探していた。もっと探してもらおうと、羊はじっと隠れたままでいた。呼んで、また触ってほしいと思った。しかしそれを恐れていることも自覚していた。



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