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死環  作者: 貴戸わたり
第一部
5/36

五、逃げ場所


 歯が抜け髪が伸び背が伸び、食事の量が増えてくると、あぁこの子は成長しているのだなとより実感した。

 ただ心配なのはその心の状態だった。

 羊は相変わらず白昼夢に耽る事が多かった。あまり頻繁に深く入り込んでいるので、さすがの氷灰も時々現実に引き戻しては何か雑用を言いつけた。

 そして何度も「点検」という言葉を口にすることも気にかかっていた。恐らく白昼夢と「点検」は何か関連があるのだろうと氷灰は推測した。


 ある朝、羊は水を入れた桶へ顔を突っ込むようにして屈んでいた。何をしているのかと聞けば、羊は得意気に生えてきた永久歯を見せ、次はどれが抜けるのかなと呟いた。

「歯ってギザギザなんですよ、これ痛くないの不思議だな」

 羊は椀に入れていた抜けた歯を取り出し熱心に眺めた。氷灰はその様子に内心笑い、緩めていた襟を直して帯を締め直した。突然身支度をし始めた氷灰を羊は不思議そうに見上げた。氷灰は棚から硬貨の入った袋を取り出すと懐に入れた。

「川へ行くぞ」

「川?」羊は怪訝そうに眉を寄せた。「そこの?」

 氷灰は黙って家を出て、東を指差して言った。

「向こうに大きな川がある。そこへ魚を買いに行く」

 それを聞いて羊は急いで家を出ると氷灰の隣りに立ち、笑った。前歯が一本なく、氷灰が笑みながら差し出した籠を受け取ると、籠の目をいじりながら呟いた。

「魚なんてあんまり食べたことないなぁ」

 その時、羊の腹が鳴った。氷灰は腹を押さえた羊の手をそっと掴み、転移の術をかけた。

 空間の揺れに羊が目を閉じ、開けた時には既に川岸の丘の影にいた。羊は圧倒されたように空を見上げ一歩下がり、辺りを見回すと声を上げた。

「いつかこの術も教えてくれるんですか?」

 氷灰が頷くと、羊は喜んで丘を登って川を目指した。丘の向こうには大きな街があり、氷灰は街を通り抜けて川へ行くつもりだったが、街は広く、人が多かった。羊ははぐれないようほとんど小走りについて行った。氷灰は時々後方を確認しながら歩調緩めたが、ふと振り返ると弟子が消えていた。

 急に立ち止まったために、人々は怪訝な目で見やりながら通り過ぎていく。その裾と袖の間に見慣れた子供はいなかった。氷灰自身も慣れない人混みで酔い、辺りを見回すと吐き気がした。

 籠を抱え直し、急いで来た道を戻ったが、そう長くない距離にも関わらず羊の姿は見つからなかった。見慣れ始めた小さな頭を探して氷灰は何度もその場でぐるぐると回った。布屋、飲み屋、籠、干物、ありとあらゆる店を覗き、羊の着ていた菊色の袖を見かければ手を伸ばしたが、別人だった。

 これほど人が多いとは、と氷灰は汗を拭った。氷仕方がなく術を起てて探すと、弟子は酒屋の柱の影にいた。見つからない訳だ。

「羊!」

 責めるような声を上げた師を、弟子はじっと遠くから見つめていた。

 その目には驚きも安心も表れていなかった。心配は一瞬で消え、代わりに怒りが込上げてきた。この弟子は探し回る師をずっと見ていたのだ。

「羊!」

 二度目の声は悲鳴ではなく叱咤だった。羊は虚ろな顔で師の元へ歩いてきた。泣きもせず安堵もしていなかった様子で、白昼夢に耽っているのだろうか、俯けた顔を上げもしなかった。酒屋と隣家の間の路地に入ると、再び心配になって羊の顔を覗き込んだ。

 それは白昼夢に入っている目ではなかった。虚ろな顔で瞬きを繰り返し、目を何度も擦ると呟いた。

「捨てたのかと思った」

 氷灰はふいを突かれ、探し回る様子を見ていた羊の疲れた目を見た。疑わしそうな、師が今にも踵を返して去っていく可能性をまだ見ている目だった。

「お前は私の弟子だ」

 そう言って氷灰は羊の手を握り込み、川へ向かって歩き出した。羊は黙って付いてきたが、やがて手を振りほどくと自分で歩いた。


 川は決して澄んでいるとは言えなかったが、それでも何艘も船があった。川へ続く獣道を降りていくと、川には釣竿を持った男や子供たちがいた。網を持った男が氷灰に気づき、声をかけた。

「魚かね」

 漁師は採れた魚をいくつか持ち上げて見せた。その時、後ろから付いて来ていた羊が、獣道の途中まで降りると何故かそこで立ち止まり、数歩戻った。氷灰は羊から籠を受け取ると、獣道を降りて魚を選んだ。

 遊んでいた羊と同い年ぐらいの子供たちが獣道を駆けて行き、どこから来たかなどを羊に尋ねた。

「……」

 しかし羊は口を閉じ、顔を上げようとしなかった。拒否の態度を取られたために、子供たちは文句を言いながら川へ戻って行った。氷灰は不満気な声を聞きながら、差し出された魚を受け取った。

「はは、人見知りする子だね」

 渡し舟にいる男がそう笑い、氷灰は羊を振り返って見たが、確かにあらぬ方向を見ていた。ため息をついて彼らと別れ、羊の所へ戻ると、白昼夢に入っていた。氷灰が近くまで行くと羊は瞬きを繰り返し焦点を合わせた。

 以前にも羊は嫌なことがあると白昼夢に入ることがあった。ということは普段の白昼夢も現実逃避なのだろうと氷灰は推測した。幼い子供に頻繁に現実逃避させる苦痛とは一体何なのか。分からなかったが、羊の態度を注意する気になれなかった。


 ■


 羊はぼんやりと空を見上げた。気温は高く、陽が眩しい中、目を染ませながらも羊は空を見続けて内に入っていく。

 手の平を見て少し笑った。お師匠様が僕にさわった、と呟いた。

 お師匠様。秋の葉の色。指。神仙。触れる……怒られるか嫌な顔をするのかな。でももしかしたら笑って応じるかもしれない。点検するかもしれない。お師匠様はどんな点検をするんだろう?

 点検する? 氷灰は一度も是と言わなかったし、点検を知らないようだった。羊は笑った。僕はもうずっと前から知ってるよ。何度もしたよ。そう笑った。それと同時にひどい嫌悪感が起こり、すぐに点検という思考は消え、覚えたての籠の編み方が出てきた。それに神仙。神仙が踊り籠が宙を舞う。

 白昼夢に耽る羊は、雲の位置が移動していることにさえ気づかない。

「お師匠様」

 呟いて、右手を動かさずに指だけで触れる仕草をした。触れたら暖かいだろう。指先で肌に触れるのはちょっと不思議な感触だ。でもすぐに……。

「羊?」

 氷灰の呼び声に、羊は現実に戻ってきた。その声を聞いて、お師匠様は知らないだろうとまた思った。でも、僕は知っている。羊はそう小さく呟いてまた白昼夢に入った。


 ■


 家へ戻ると、すぐに火を起こした。屋外で火を灯すのはかなり注意が必要だったが、羊がはしゃぎまわるため焼いている最中も火が揺れて移らないか心配でならなかった。羊は周りを歩き回り、香りに腹を鳴らした。

「魚食べるのすごく久しぶりだ」

「そろそろだな」

 竹を裂いた棒で木を動かし、火を調節した。魚の串を持ち、袖で覆って持たせると羊は笑って匂いを嗅ぎ、裏、表と眺め、ありとあらゆる所を観察してからやっと舐めた。魚よりも羊がおもしろかった氷灰は火に手をかざしながら羊を眺めた。

 羊は炭になった部分を落としながら、笑みを消して言った。

「川がなくて時々干物を交換するぐらいだった。こんなの食べなかったよ」

 羊はじっと氷灰の目を見た。責めるような声音だった。氷灰はその半ば睨みつけるような目を戸惑いながらもじっと見返した。炎に揺れて羊の目が光って見えた。

 沈黙はかなり長く続いた。氷灰はふと目を逸らし、魚を食べた。再び目をやると羊も魚を食べていたが、怒っているようにも見えた。息が荒く、肩と胸が上下して見えた。

 氷灰が火を調節しようと竹を手に取った時、羊が突然魚を放り出し、叫び声を上げてそのまま家とは逆の方向に走り出した。氷灰は一瞬の困惑の後にすぐに追い掛けた。

「羊!」

 灯りが届いている範囲ですぐに捕まえられたが、羊は暴れまわって氷灰を殴りつけた。言葉にならない声で叫び、氷灰は耳に痛みを感じながら必死に声を掛けた。

「羊、落ち着きなさい」

「離して!」

 今放してしまうと二度と帰ってこない気がした氷灰は羊の手を抑え付けた。抑えれば抑えるほど声は大きくなった。焦る中、これは痣になるな、と頭の片隅で考えた。

「離して! さわらないで!」

「羊、落ち着け」

「嫌だって言ってるのに!」

 ふと、羊の目が怯えていることに気付いた。氷灰は何度も落ち着くように言ったが、如何せん羊の声が大きすぎて何も聞こえないようだった。羊は目を合わせようとせず、仕方がない、と氷灰は片手を放して羊の額に触れた。その途端、羊は静かになり、脱力した。大きな息を吸った後は、静かな寝息になった。

 羊の声が突然なくなったためか、今度は山の静寂が耳に痛かった。氷灰は羊を抱えたまましばらく放心した。視界に髪が見えて、結った髪が解けていることに気付いた。よく見ればどちらのかわからない血も服に少し付いていた。

 氷灰は羊の寝顔を眺めながら考えた。事の発端は魚だ。もっと言えば生家だっただろうか。氷灰はなんとか思考を巡らせようとしたが、氷灰もまた打ちのめされていた。子供の、羊のあんな様子を見るのはつらかった。氷灰は何とか立ち上がると、家に戻り羊を寝かせた。服を掛けてやるとき、細い手首が赤くなり、所々皮膚が破れていることに気付いた。自分が故意でなくとも傷つけたことに、氷灰はまた項垂れた。

 のろのろと焚き火の前に戻ると、焦げてしまった魚を炎にくべた。砂をかけて火を消し、何度か踏んで消火した。それからしばらく動けなかった。


 次の日、目が覚めた羊に訊ねると、昨晩のことをあまり覚えていなかった。

「魚食べて……でもその後どうしたんだろ?」

 首を傾げる様子からも、嘘をついているとは思えなかった。羊は手首が痛いと言った。

「私が掴んだ。すまなかった」

「……僕何かしました?」

 何かして罰を受けたのかと羊は思った。氷灰は体罰を与えたことは決してなかったが、もしや今回体罰を受けるほどのことをしたのでは、と羊は不安に思った。

「……いや、何も」

 氷灰もまたぼんやり考えた。そうだ、この子は何もしていない。ただひどく怯えて逃げ出そうとしただけだ。白昼夢に、「点検」、それらに繋がる何かが羊の中にあるのだ。

 だが氷灰は羊に何も聞かなかった。これほど現実逃避をして何とか保っている心の均衡を壊したくなかった。

 逃げ場は必要だ。「それ」から逃げられればだが。


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