四、まどろみ
毎日変わりのない日が過ぎる。術の講義も終わり、竹籠も編み終えてしまうと、羊は山中へ遊びに出掛けて行った。氷灰はその隙にと、目を閉じて今起てているいくつかの術の補修や調整をした。もちろん羊が周りをうろついていても出来たが、一人だと集中して出来た。不老の術、山に誰も入れないようにする術などをひとつひとつ見ていった。
術を全て見直し終わる頃、ふいに空気が落ち、全てのものが鮮やかに感じられる気配がした。そして甘い花の香りがする……目を開けると、まず目に入ってきたのは青色の領巾だった。部屋の奥に、白い肌をした美貌の神仙が座っていた。
「芳諧道人」
道人と呼ばれた彼は、男女の区別がつかない美しさを持っていた。髪を巾で包んでいなければ女と間違っても仕方がない。着ているものも氷灰たちのものとは少し様子が違っていた。
氷灰は素早く静かに土間に降り、神仙に向かって拝礼した。芳諧道人はそれを受けて、元の場所に戻るように細く白い手で促した。
「難しい子を拾ったものだ」
何もかも知っているような言葉に、氷灰は笑んだ。恐らく本当に何もかもご存知なのだろう。
「御覧になられましたか」
無表情だった芳諧道人は微かに笑んだ後、また表情を消した。口紅が薄い唇に塗られており、笑うと更に赤色が映えた。同じく赤い耳飾りを揺らして、窓の外に目を向けた。
「他の子供とは何か違うと心配しています」
氷灰がそう言うと、芳諧道人は袂から一枚の葉を取り出した。そしてその葉に火箸を押し付けるように氷灰に言った。
言われた通りに床に置かれた葉に火箸を押し付けると、押し付けた場所は鮮やかな緑のままなのに対し、周りが円を描くように黒く変色していた。芳諧道人は葉に出来た円を指し、言った。
「後の世の人は、これを死環と呼ぶ」
氷灰は眉をひそめた。何のことか意味か分からなかった。この神仙は時々こういう捉え方の難しい話をした。この時も、彼はそれきり何も付け加えなかったので、氷灰も何も聞かなかった。
しばらく沈黙のまま時が過ぎたが、ふいに芳諧道人が顔を戸口に向けた。
「また文を出す」
そう言うと、氷灰が応える前に芳諧道人は霧が晴れるように雲散して消えてしまった。その後すぐ、羊が走って帰ってきた。
羊は赤い小さな木の実を両手いっぱいに持っていたが、それを椀に入れようとして動きを止めた。
「なんか変な感じがする」怪訝そうに囁いた。「これ、術ですか?」
氷灰は答えなかった。代わりに木の実をどうするんだと聞いた。食べられない実を取ってきて何をするのかと思えば、羊はそれを窓辺に置き、いくつか椀から出して並べた。
「きれいでしょう」
満足げに呟く声に、氷灰は小さく笑った。これから窓辺にはいろんなものが置かれるのだろうなぁと予想し、的中した。これまでの弟子たちは皆そうしていたからだ。
窓辺に増えていく木の実や葉を、氷灰はひとつも捨てなかった。白昼夢に耽る様子を見るよりずっと良かった。氷灰はできるだけ白昼夢に入らせないために、常に術の勉強か畑仕事、山で遊ぶことを促した。
芳諧道人が残していった死環のある葉を、氷灰は箱に入れておき、時々取り出しては考えを巡らした。やがて葉は枯れて粉々になって土に還った。
■
講義が思ったよりも早く終わったので、氷灰は羊を連れて散歩に出掛けた。山は賑やかで、羊も軽い声を上げながら山道を行った。近くに笹を見つけ、氷灰は遠くで走り回る弟子を手招き、葉に気を付けながら千切り取った。
簡単な草遊びだった。笹を組んで舟を作る。氷灰は一番初めにとった弟子に教えてもらった……その子は拾った時十歳だった。その子に教えてもらったことを氷灰は次の弟子にも教えて遊ばせた。街へ頻繁に下りず、氷灰以外に人のいないこの山中では、遊び相手も師も親も全て氷灰がこなさなければならなかった。
笹舟の作り方を教えてもらうと、羊は喜んで真似をした。指を何度も切っても、懸命に笹をいじり、出来上がると早く笹舟を流そうと氷灰を急かした。
家の前にある川まで戻り、二つの笹船を浮かせると、羊は歓声を上げて追いかけた。そのきゃあきゃあ騒ぐ後姿を眺めながら、氷灰は遊牧民をいくつか思い出した。随分遠くにまで捨てに来たものだ。暗い気持ちになりかけ、気持ちを切り替えようと水の流れに目を落とした。足音が近づいてきて顔を上げると、羊が顔を歪めて立っていた。
「痛い」
今まで笹舟に夢中で気にならなかったらしいが、切った指が痛いと今頃になって半泣きになっていた。笹による傷は一つでもかなり滲みる。氷灰が見てやると、羊は五か所も傷を作っていた。
「痛いし、何かかゆい。これ毒でもあるの?」
疑わしそうに口を歪めてそう責めた。騙されたという顔をしていた。
「笹に毒があってたまるか」
氷灰は内心笑いながら言い返した。羊は興味深そうに師の手に目をやった。
「お師匠様は切らなかったんですか?」
「笹の扱いには慣れているからな」
教えてもらった当初は指を切っていたが、忍耐強い「先生」のおかげで難なく作れるようになったのだ。羊は手を揺らしてまだ痛いと訴えた。
「お師匠様の他の弟子って、どんな子だったんですか?」
それは純粋な好奇心からだったが、氷灰のこれまでの経験から言うと、少しの嫉妬もあるはずだった。それを知っているために、あまり他の弟子について話さない方が良いということも知っていた。
「四人いたが、それぞれだな」
羊を拾ってから何度目かの満月が過ぎた。生活に大きな変わりはなく、窓から小さな畑を眺めながら、背後で籠を編む音を聞いていた。
山の中という事もあり五畝しかない畑だったが、種を播いた菜が成長していた。この分だとあと三日ほどで食べられるなと考えていると、後ろから「出来ましたー」と疲労困憊といった様子の声が聞こえた。
羊の周りには四つ籠が転がっており、その中で作り手が寝転んでいた。目を閉じて休んでいる羊を起こすと籠をひとつずつ確認していった。初めよりはかなり上手くなったが、それでもまだ売り物にはならなかった。よく見ると網目がまばらなうえ、真っ直ぐ立たなかった。
それでも、編む速さも出来栄えも初めての頃よりは充分上手くなっていた。氷灰が編み終わりの部分を確認していると、羊が大きく伸びをしながら聞いた。
「お師匠様は四人も弟子がいて……その人たち独り立ちしたんですよね、大人になって」
「そうだな、大体皆十九歳頃だな」
羊は十九……十九?と首を捻っていたが、何度か指折り計算し終わると竹ひごをまとめて片付け始めた。
「……お師匠様は何歳なんですか?」
「覚えていないな。私は自分に不老の術をかけている……体は三十ぐらいで止めた」
「そんな術もあるの?」
身を乗り出した子供を落ち着かせるように手を上げたが、羊は無視して、あるいは気付かずに丸い目を更に丸くして興奮気味に呟いた。
「じゃあ、もしかして、本当に妖怪もいるんですか?」
氷灰は頷いた。神仙がいるように、妖怪も存在した。だが後者は仙人以上に人前には現れない。悪さをする妖怪の話を氷灰も羊も聞いていたが、見たことはなかった。彼らは人の背後でそっと悪事に耽るのだ。
自分から振った話題だったが、不毛な話になりかけていたので、氷灰は畑の草むしりをするように言った。
羊が渋々畑にいる間、氷灰は新しい術を作ることにした。街に降りた時にいなごに隣町がやられたと聞いたので、虫全般の大移動を察知する術を作るつもりだった。
隠者とも呼ばれる術師は攻撃性のある術を持たなかった。応用すれば可能といった程度で、ほとんどは無害な術が多かった。作ろうと思えば作れたが、氷灰も彼の師も弟子も作らなかった。誰かを攻撃する必要がない、というのが大きな理由だった。
氷灰は編んだ術に不備があったので、再び術の構築のために目を閉じた。
日が暮れる前、草むしりから帰ってきた羊は籠を引き摺りながら戻ってきた。それに気づいて氷灰は注意しようとし、弟子が泣いている事に気づいた。
「どうした、何を泣く」
それに答えようとせず、幼いながらぎゅっと口を結び顔を上げようとしなかった。声を立てず、鼻水を垂れさせ、戸口にじっと立ち尽くしていた。母親に捨てられたことを思い出したのか、それとも他の何かなのかわからなかったが、氷灰は黙って鼻をすする音を聞いていた。しばらくすると腹の鳴る音が聞こえ、氷灰は呆れるやらおかしいやらで気持ちが軽くなった。
「泣くな」
しかし羊は首を振り、その動きで籠が手からずり落ちた。羊はずるずると氷灰の傍に座り込み、顔を何度も拭った。やがて突然泣き止むと、虚ろな目をして体を前後に揺すりだした。
「僕を捨てる?」
氷灰は予期しなかったその言葉に一瞬詰まったが、羊の目を見てゆっくりと答えた。
「羊、私は捨てたりしない」
それでも俯いて体を揺らし続けた。羊ははっきり言葉にしないとわからない傾向があると感じ、氷灰は内心気乗りしなかったが口にした。
「私はお前に責任を持ってる。愛情もだ。お前は私の言うことを聞かなければいけないが、私はお前を守らなければならない」
羊は足で砂をかいた。そして不意に立ち上がり、浅く笑むと体を異様な程折り曲げた。腰から上体を折ってり、肘で支えていた。その異様な様子にぎょっとし、倒れるのかと体を支えようと腕を差し出したが、羊はその手を避けた。
「僕を守るの?」
不自然に体を捻ったまま、ぽつりと言った。氷灰はそうだと言った。羊は不気味な笑い声を上げると、また左右に体を捻った。
「じゃあ、僕を点検するの?」
羊は首を傾げると体を曲げたまま自分の裾を少し捲り上げた。その様子を見守りながら、また「点検」だ、と思案した。
点検とは注意深く確認することだ。羊の親は無事を何度も確認したのだろうか。そんな親が子供を捨てるとは考えられないし、そもそもそんな生易しい様子ではなかった。点検とは、何か羊にとって重要なことなのだろう。
「点検するの?」
返事がないためか再び問い、その声は責めるようだった。笑いを止めた目で氷灰を見上げた。体を折り曲げ、髪の下から大人のように、大人よりももっと達観した目が覗いていた。氷灰は注意深くそれを見返した。
「お前を点検はしない。気にはかけるがな」
その返事に首を傾げたものの、一先ず納得したようでまた俯いた。そのまま氷灰の手を探り、冷たい手で握るとやっとしゃがみ込んだ。あんな体勢でいたのだ、きっと腰が痛いだろうに、羊は師の膝に頭を寄せて甘えた。しかし、甘えるよりももっと、何かを切望していた。そっと顔を覗き込むと、羊は白昼夢に入っていた。あのひどく子供に不似合いな目を思い出しながら、点検という言葉に思いを巡らした。