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死環  作者: 貴戸わたり
第一部
3/36

三、怒りと悲しみのこれから

 春が完全に山に足を入れ、草と木と土の匂いで胸がいっぱいになった。羊は山に慣れていないのか、あちこち歩いては木や岩に鼻を寄せた。

 羊の籠を編む速さは増し、術の理論も、起てるための糸の取り出し方も順調に覚えていった。癇癪を起こすと白昼夢に入り、氷灰に触れたがった。

 羊は大人びた目をすることもあったが、やはり子供は子供だった。はしゃぎ過ぎて壁を壊し、外へ出れば必ず傷を作り、毒があると教えたのに食べて中毒になったりした。上げればきりがなく、羊の場合は少々限度を超えていたが、実に子供らしい無頓着で考えなしの一面も持っていた。氷灰はその度に叱ったり青ざめたり安堵したりと忙しかった。


 その日の朝、氷灰が目を覚ますと、珍しく羊が枕元にいた。その足元に、団子虫が三十匹ほどいるのを見て目が冴えた。羊は無表情のまま言った。

「あげる」

「いらん」氷灰は即答した。「元の場所に返してきなさい」

 すると羊はいかにも残念だというようにため息を付き、団子虫を集めて椀に入れて外へ出ていった。氷灰は、ため息を付きたいのは私だと呆れ、食器に虫を入れたことを注意し忘れて頭を抱えた。

 晴れて陽が強かったが、氷灰が編んだ籠を二人がかりで抱えて家を出た。落としそうになりながら頼りなく籠を持つ羊に、街へ行くと告げた。

「店を出すんですか?」

「いや、卸すだけだ」

 街で品物を売り買いするというのは知っているが、街そのものを見たことはないようだった。羊は街について質問し、その返事を吟味してまた質問をした。それを東の山道を下って行く間ずっと続けた。余程楽しみなようだったが、氷灰はしゃべりすぎて疲れてしまい、途中大きな岩の前で休んだ。羊は籠を置いて足をほぐし、何度も伸びをすると苔生した岩へ登った。

「あっ、村が見える……街も!」

 そこから見えるだろう街が行く先だと教えると、遠いなぁと感嘆した。汗ばんだ肌に風が気持ちよく籠を抱え直して羊を呼んだ。

「術は使わないんですか? 前みたいに!」

「歩くことを忘れるからな」

 羊は少し残念そうにし、何より荷物が多いために無理もなかったが、言った通り、氷灰は時々こうしてあえて歩いた。畑仕事をしていても、竹を切り倒しても、人間なら歩くことを忘れてはいけない。そう師に教わったからだった。


 街へ近づいたのはもう日が高くなった頃だった。羊は遠くから見える無数の家と店に声を上げた。街の近くの大きな川の河原では子供たちが遊んでおり、岸にはいくつか船が繋がれていた。

 氷灰は羊に持たせていた籠を受け取ると、遠くからこちらを見ている子供たちを見ながら言った。

「遊んでいろ。私は店に行ってくる」

 羊は飛び上がらんばかりに驚いて氷灰を見上げた。

「えっ、い、いい。僕も行く」

「あぁ、わしが見とくから大丈夫だよ」

 子供たちから離れた場所にいた老人が笑って声をかけた。網を直しながら子供たちを見守っているようだった。

「お師匠様、僕も行く!」

「頼みます。後で迎えに来る」

 羊は見捨てられたような悲壮や顔をしていた。後ろ髪を引かたが、同年代と関わらせたかった氷灰はそれをあえて無視した。


 籠を卸し終わって布を買い、河原へ戻る頃には、きつい西日が辺りを照らしていた。子供たちは既に居らず、酒を飲む老人に見守られながら、羊は一人しゃがみ込んで草をむしっていた。むしられた草が辺りに散らばっている。

「羊」

 声をかけたが、羊は反応しなかった。恐らく足音で氷灰に気が付いているはすだが、無視していた。草のむしり方からすると、どうやら怒っているようだった。

「羊、帰るぞ」

 返答はなく、氷灰は羊の背後に立った。それでも羊は草むしりを止めなかった。氷灰はそのぐらいの熱心さで畑の草むしりをしてほしいととぼけたことを思った。

「返事はしなさい」

「置いてくなら家にいる」

 羊は突然叫ぶように責めた。その声に氷灰と老人は多少驚き、羊の怒りを知った。特に氷灰はしまった、やってしまったと唇を噛んだ。

「置いてくならもう行かない!」

「帰って来ただろう」

「置いて行った!」

 羊は非難し続けた。氷灰は自分の行動を後悔した。焦りすぎた。だがもう後には引けなかった。

「私は戻ると言った。実際戻ってきた。腹が立とうが返事は絶対にしなさい」

「僕を置いて行った!」

 羊は草むしりを止めたが、顔を上げなかった。氷灰は小さな体を見下ろしながら聞いた。

「じゃあ私はどうしてここにいる」

「僕を置いて行った!」

 氷灰は羊の左手を掴んで立たせ、そのまま引っ張って歩き出した。羊は手を振りほどこうとしながら暴れ、同じことを狂ったように叫んだ。

「僕を置いて行った!」

 術で帰る予定だったが、羊を落ち着かせるためにも少し河原を歩くことにした。羊の叫び声に何人かが振り向いた。

「私は拾ったものは捨てない」

「僕を捨てる気だったんだ!」

 捨てるという言葉に反応して羊は詰った。氷灰は振り返り、羊の顔を見た。怒りに顔を歪ませていたが、目が合うと涙を溢れさせた。氷灰はサッと前を向いてまた歩き出した。

「僕を捨てるんだろ!」

 羊は泣きながら怒り狂った。小さな腕で氷灰を叩き、足を踏みつけようとした。

「ここにいなさいって言って、騙して捨てるんだろ!」

 氷灰は殴りかかってくる羊の手首が痛まないよう手放し、肩に触れると術を起てて家へ戻った。羊はそこが家だと分かると丸くなって泣き喚いた。僕を置いていった、なんで、なんで、僕を捨てた。それは既に氷灰に向けてではないものだった。

 拾ってからこうして感情を露わにしたのは初めてだった。氷灰はその様子をじっと黙って見守った。

 しばらくすると、泣き声が小さくなっていき、何も聞こえなくなった。やがて羊はむくりと体を起こし、顔を拭った。ひどい顔をしていた。

「僕を捨てた」

 枯れた声が訴えた。氷灰は買ってきた布に目を落としながら答えた。

「私は拾った」

 腫れて赤くなった顔で氷灰をじっと見つめた。

「私は拾ったものは捨てない。だからお前はこうしてここにいる」

 羊はそれに対してもう何も言わなかった。


それからも氷灰は無理矢理にでも羊を連れていき、河原に置いて出掛け、迎えに戻った。羊はその度に怒り狂って泣いたが、徐々に慣れていき、執拗に確認するだけになった。

「戻って来るんですよね?」

「夕方には戻る」

「ほんとに? 絶対?」

「忘れて帰ったことはないだろう」

 そんなことを繰り返している間も、羊は白昼夢を見ることを止めなかった。何とかして心の均衡を保とうとしていることに、氷灰は何も言わないことにした。

 一方で、羊はどうやら同年代の子供たちと遊んでいないようだった。氷灰は一度、こっそり子供の一人に声をかけたことがあった。

「あの青色の服の子供とは遊ばないのか」

 子供は少し困った顔をして肩をすくめた。

「あの子はね、すぐ怒ったり拗ねたりするんだよ。一人で草触ってるのが好きな子なんだ」

 別に仲間はずれにしてる訳じゃないよ、と子供は弁解した。氷灰は恐らく事実だろうと思った。他の子供たちを馬鹿馬鹿しそうに見ているのを、一度見たことがあった。元々そういう性格だったのか、捨てられたことが影響しているのかは分からなかったが、やはりこれも見守ることしかできなかった。


 ■


 静かな夜には千の鳥獣が眠るという。氷灰はその寝息一つひとつを数え、存在を把握した。鳥が眠り、虫が眠り、小動物が眠る。時々夜行性の生物が歩く音がする。膨大な数の命の音を聞いている後ろで、布団の中にいる羊が大きな欠伸をした。

「もう寝なさい」

 そう言って蝋燭を消すと、羊は目を擦り、暗闇の中でゆっくりと笑った。

「お師匠様は何をなさるんですか?」

 目が慣れてくると氷灰は立ち上がり、布団を無理矢理頭まで被せると、羊は渋々ながら大人しく眠った。

 外に出て壁を背に座り目を瞑ると、そのまま一つ増えた寝息に耳を澄ませた。規則的なそれぞれが持つ本来の呼吸を感じていると、氷灰はちっぽけな存在だと思えて心地良かった。小さい生命がそれぞれ懸命に生きている。

 遠くの山に転移し、一本の立派な木に手を当てた。氷灰が両手を回しても届かないほどの大木だった。その木が風を受けてざわめくのを、氷灰は目を閉じて聞いた。その音は悲しさを誘発させたが、それを振り払って氷灰は家へ戻った。


 三日月が動き頂上を越えた時、寝息に混じって呻き声が聞こえた。家へ入ると羊は汗をにじませ、夢見が悪いようだった。日中の夢は幸せで夜間の本来見るべき夢は悪夢なのか。氷灰は何か末恐ろしく思った。

 少し迷ったが、揺り起こすと小さな悲鳴を上げて体を震わせて目を開いた。

「羊」

 羊は体を硬直させたまま目だけを恐怖に走らせ、口を開き、何か言おうとしていたが言葉は出てこなかった。早い息だけが部屋に響く。

「羊、夢だ」

 見ていたのは確かに悪夢だった。だがその内容を羊は言わなかったし、氷灰も聞き出さなかった。氷灰は体を強張らせている肩を抱え起こそうとすると、羊は悲鳴を上げて体を捩った。

 羊は呻き、泣きそうな顔で突然自分の体を殴りだした。まるでそこに何かがいるように、腹や太ももを拳で殴った。氷灰は慌てて手を掴んで止めさせ、もう一度夢だと声をかけた。

 何か虫の夢でも見たのだろうか。氷灰は内心首を捻った。バッタを集めいなごを集める羊が虫の夢を怖がるかといえば疑問であり、なぜ自分の体を殴るのかも分からなかった。

 嫌悪感は消えないようで、羊は氷灰に涙声で言った。

「点検する?」

 氷灰は羊が何かの折に「点検」という言葉を口にするのを聞いてきたが、やはり何のことか分からなかった。

「点検する?」

 羊はまた体を殴り始めた。氷灰はまた掴んで止めさせ、しないと言った。そしてまた聞いた。

「点検とは何のことだ」

 やはり羊は答えず、ただ荒い息で身を捩るだけだった。


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