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死環  作者: 貴戸わたり
第一部
1/36

一、満月と捨てられた子供

 暖かい春の夜だった。広大な中国の、街から遠く離れた山のひとつを、氷灰(ひょうかい)は歩いていた。

 枯れ葉や枝、鳥の糞が柔らかな獣道をいくつも作っており、それを踏み締めながら散策をするのが彼の毎夜の楽しみだった。昨日はあの山、今日はこの山と毎日違う山へ跳んでいた。術によって若い肉体を保っているために、急な崖すら軽々と跳んだ。

 その夜も山の中を歩いていた。木々の枝が満月に照らされ不気味に浮かび上がり、星もよく見える澄んだ空を見上げた。もう何年も各国の王が争いを繰り返していたが、術師である氷灰は周王朝にも覇権の行方にも興味がなかった。実際街から一歩離れると桃源郷のように静かだった。だが決して桃源郷には成り得なかった。この山には何十年も前から子供が捨てられていたからだ。

 食い扶持に困ったため捨てられた子、不義の子、奇形の子。捨てられる理由は様々だ。親は子供が戻ってこないように、途中で白骨を見つけないように、夜に手を引いて山を登ってくる。不愉快でやり切れなかったが、氷灰はあえて夜にこの山に来ることがあった。弟子にする子供を探すためだった。


 中腹まで降りて倒木に腰掛け、氷灰は虫の鳴き声と微かな葉音に耳を澄ませた。意識を集中させ、山に掛けかけていた術を読む。術の網目に人間の反応が二つ掛かっていた。ひとつは弱々しく、もうひとつは健康な子供の気配だ。氷灰はまず最初の反応があった場所へ跳び、遠くからそれが女児であるのを認めるとすぐに踵を返し、もうひとつの方へ向かった。女児とは丁度山の反対側におり、大木の根に腰掛けていた。

 六歳ぐらいだろうか。氷灰は見つからないように木の影からそっと見た。項垂れ、体を前後に揺らして何かを訴えていた。長い間泣いていたのか、裂くような嗚咽に紛れて「お母さん」と聞こえた。

 月明かりの下で、子供がこうして一人泣くのを氷灰は嫌というほど見てきた。泣く元気があるだけまだ良かった。ぐったりとした子供を拾ったこともあった。氷灰は子供の髪がよく見えず性別が判別できないために、わざと足音を立てて影から出た。泣いていた子供は怯えたように顔を上げたが、逃げる素振りは見せなかった。

 子供は髪を両耳の上でそれぞれ結いまとめて丫角にしており、涙で顔が腫れていた。男児だった。真っ赤になった目が恐れながらもじっと氷灰から目を離さなかった。氷灰はその目を見つめ返しながら、ゆっくりと右手を差し出した。


 ■


 身震いをして、初めて寒いのだと気づいた。昨夜はあんなに暖かかったのに、日が昇っている今の方が寒いとはどういうことだろうと氷灰は思った。冷気が通る首元に布をきつく掛けたが、すぐに起き上がった。冷たくなった二の腕をさすりながら隣に目をやると、広げた衣服に覆われた小さな塊があった。塊から小さな頭と片足が出ている。

 氷灰は自分にかけていた布でその片足を覆ってやると、何という名前を付けようかと考えた。今まで持っていた名を捨てさせ、新しく一文字与えるのが彼ら術師のやり方だった。そして一人前になればもう一文字を与え、独立の証とした。氷灰は初めに氷の字を貰い、独立する際に灰の字を貰った。

 緩んだ衣服を直し帯を締めていると、小さな塊が動き子供が頭を出した。辺りを見回す後頭部に、氷灰は目が合う前にと口を開いた。

「私は氷灰という」

 子供は突然の背後の声に驚いて跳ねた。慌てて振り向いて距離を取り、この人は誰だろうという視線を向けた。氷灰はそれを無視して髪を結い直してからきちんと座り直した。子供はその落ち着いた様子に少し肩の力を抜いた。氷灰が身繕いを促すと、子供は目の前の不審な大人を観察し警戒しながらも服や髪を整えた。ある程度のしつけはされているのだな、と氷灰もまた子供を観察した。子供が緊張しているように、氷灰もまた緊張していた。だがそれを隠していた。

 顔立ちはこの辺のものではないが、服の色は街でよく見る色だった。指は汚れていない。遊牧民の出かもしれない。だが行儀の良い座り方をしているため、粗暴な家柄ではないようだった。もっとも、術師には家柄など関係ない。術師に必要なのはある程度の頑なさだ。この子供は、簡単には信用しないぞという目をしていた。

「お前は捨てられた。それはわかるな」

 子供は表情を変えなかった。捨てられる兆候があったのか、あるいは現実を受け入れたのか。俯いたので氷灰は続けて言った。

「今の名前は捨てなさい。私が新しく与える」

 陽が部屋の中に少しずつ入り、暖かくなった。少し開けていた窓から入ってきた日光に目を細めた。子供は床の木目を見つめたままだ。

「私は術師だ。お前を弟子にする」

 それを聞いた途端、子供は顔を上げて氷灰を直視した。腫れた瞼の奥で瞳が光った。探るような視線だった。

「本当?」

 氷灰は頷きながらも不審に思った。民間信仰のある神仙の存在はどんな村の子供でも知っている。だが術師は信仰対象ではないし、知られていても世捨て人の「隠者」として扱われている。何故この子供は術師を知っているのだろう。

 一方子供は興味を隠せないといった様子で、無遠慮な視線で氷灰を上から下まで眺めていた。

「仙人とどう違うの」

「術師はあくまでも人間だ。隠者とも呼ばれる。仙人は人と神の間にいる。扱う術も違う」

 しかしこれはさすがに理解できなかったようで、曖昧に頷いただけだった。

 親に捨てられ見知らぬ大人に初めて聞くだろうことを言われ、それでもこの子供は対処している方だった。籠や板が積まれた小さな家をぐるりと見渡し、狭い窓から外を見た。

「ここはお前がいた山よりかなり南の方だ」

 窓を大きく開けてやったが、子供は口の中で何かを言っただけだった。目が合うとすぐに逸らして体を背けた。氷灰は平たい籠を取り、子供には桶を持たせた。

「まず水を汲んできなさい。食事をして、詳しいことはその後だ」

 子供は桶をじっと見つめて適当な距離を保ったまま家の近くの小川までついて行った。不安気に家の外観や周りを眺めている。家の周りにも籠が積まれており、裏手には畑があった。その向こうには崖がある。川と家の間に山を下る道があるのに気づき、少し安心したようだった。氷灰は子供の刺さるような視線を感じつつ、川に着くと左へ足を向けた。

「私はこちらにいる。先に戻っていなさい」

 子供は返事をしなかった。上流を見、下流を見る。そうやってしばらく川を眺めていたが、氷灰をもう一度見上げると川を跨いで桶を沈めた。氷灰は山の中へ入って行き、小さな菊花をいくつか見つけると籠に入れた。茎を千切りながら名前をどうしようかと考えたが、やはり良い字が思い浮かばなかった。悩みながら家に戻ると、当の子供がいなかった。

 逃げたのだろうか。考えられるのはまずそれだ。氷灰は本人の意思を確認したかった。だからあえて一人にした。少し残念に思いながら、桶は捨ててあるだろうかと拾いに川に行くと、子供が昨晩のように木の根にしゃがみ込んでいた。

 氷灰に気づくと子供は小首を傾げて妙な笑い方た。それに足を止めた。

「どうした」

「僕、捨てられたの?」

氷灰は一瞬、間を置いてから答えた。

「そうだ」

 子供は目を逸らして生返事をすると、また自分の足元を見つめだした。氷灰は桶に水が入っているのを確認して、声をかけた。

「帰るぞ」

 子供は桶を掴むと水をこぼしながら少し後をついて歩いた。一日三度、水を汲みに行くのはお前の仕事だと言うと嫌がるだろうなと、氷灰は内心笑った。今まで四人の弟子のうち二人は嫌がったものだ。そんなことは知らない子供は持ちにくさを何とかしようと試行錯誤していた。家に着き、皿を眺める小さい頭に水汲みの話をすると、案の定新しい弟子は顔を思い切りしかめたが、何も言わなかった。


 ■


 元来子供とは順応が早いもので、この子供も例にもれず、食事が終わる頃には無遠慮に部屋を歩き周り、箱を覗くようになっていた。

 子供はとにかく様々なものを見て回った。氷灰の衣服を勝手に広げ、無数にある竹ひごを探り、籠をひとつひとつ覗き込んだりしていた。氷灰はそれを知りながら外に出て裏手に回った。小さな畑に腰を下して枝を拾い、葉物の虫を取った。一列目の手入れが終わり、二列目に掛かろうした時、子供が小さな板を一枚持って傍に来た。

「これって文字?」

 板には無数の文字が隙間なく書かれていた。壁に何枚か立てかけていたもののひとつだ。氷灰は持っていた枝切れを捨てると、板を子供から受け取った。

「私はお前の師になる。師がどういうものか知っているか」

「知らない」

 子供はどう反応していいか分からないようだった。氷灰は家に戻り、子供を前に座らせると、壁に立てかけてある袂ほどの大きさの板を何枚か見せ、籠もいくつか置いた。

 熱心に文字を見ている。氷灰はここでの生活を説明した。術について学、籠を編む。畑の世話をして山や竹林に行き食物や竹を得る。

「文字も教えてくれるの?」

 氷灰が頷くと、子供は目を見開いて輝かせた。目の前に突然現れた大人を無害かどうか判断しかねていたが、どうやら文字を教えることがかなりの安心の材料になったようで、子供は初めて笑顔を見せた。膨らんだ頬を見てつい微笑むと、子供は更に笑った。

 そのまま何枚か板を見せ、説明し、山を勝手に下りてはいけないと教えた。子供は大人しく頷き続けた。夜も更けると寝床を用意し、氷灰も寝ようと帯を緩めた。子供は布と服の山に潜り込んでから顔を出し、囁くように話しかけた。

「点検する?」

 何のことか分からなかった氷灰は聞き返したが、子供はじっと見つめ返すばかりだった。窓のことかと思い、支えを外して閉め切ると、子供はまだ怪訝そうな顔をしていたが、氷灰が早く寝ろと言うと布を頭まで被った。

 その後も何度も寝返りを打っていたが、夜半にやっと静かになった。氷灰は起こさないようそっと家を出て、いつものように山を歩き回った。

 新しい弟子。

 氷灰は笑みを我慢しなかった。子供の服や靴など、入り用のものを考えて歩き続けた。最後の弟子が独り立ちしてから八年経っている。今頃になってまた弟子を取るとは、自身でも思ってもみなかった。だがしようと思った。

 不安もある。後悔もするだろう。だがそれを超えて見たいものがあった。

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[良い点] こんにちは。 昔この作品を貴戸さんのホームページで何度も読み返していました。 サイトが無くなってしまったようで大変残念に思っていましたが、ずっと忘れられずにいました。 あの美しい情景描写、…
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