白い国へ
ぼくはね、とおる。6さいになったばかりでようちえんの年長さんだ。走り回るのが大好きで、よくママにおとなしくしていなさいとしかられる。そんなこと言ったって、じっとなんかしていられないよ。足が勝手に動き出して、気づいたら風をきっている。目の前で景色が二手に分かれるのは、とても気持ちいいんだ。はじめは目をつぶってしまうけれど、すぐに慣れてこわくなんかなくなるからね。上手に物をよけられれば、もう一人前だ。ママはぼくを目で追えなくて、すぐにあきらめてしまうけれど。
ようちえんから帰ってきて、手を洗っておやつを食べた。今日のおやつはチョコチップクッキー。ママの手作りだよ。朝パパといっしょにぼくがようちえんに出かけると、ママは部屋のそうじとせんたくを大急ぎですませて、それからクッキーを焼くんだ。チョコチップじゃなくて、メープルシロップやフルーツが入っていることもあるよ。ぼくはブルーベリーのクッキーが一番好き。その次に好きなのが、チョコチップクッキーなんだ。おやつを食べながら、ママにようちえんであったことを話すけれど、たいていママはうなずくだけで、ぼくばかりおしゃべりする。時どきちゃんと聞いてる?って確認しながらね。やっとようちえんであったことを話し終わると、クッキーもちょうど食べ終わって、もう体がうずうずしてね。公園で遊んでくるって言うか言わないうちに、ドアを開けて飛び出している。
近所には公園が二つあって、どちらも家のすぐそばにあるんだ。一つはブランコやすべり台があって、小さい子が多い公園。もう一つはかなり広い原っぱで、小学生が野球やサッカーをしている公園。今日は広い公園に行くつもりだ。どうせあとでママがむかえにくるけれど、それまで思いっきり走り回るぞ。何本か植わっている木の幹にタッチしながらね。あれ?だれかいる。女の子。小学生かな。木の幹に寄りかかって、スカートを広げてはじっこをつまんでいる。近づいて、広げたスカートの上にあるものをのぞきこんだ。
「きれいでしょ?」
女の子はうっとりとながめながら言った。赤や黄色やオレンジ色の葉っぱがふわりとスカートの上にかさなっている。しかも形がどれもちがって、確かに見とれてしまう。
「ここで拾ったの?」
とおるはあたりをきょろきょろと見回した。スカートの上の葉っぱと周りに落ちているかれ葉が同じようには見えなかった。
「特別きれいなのだけ集めたの。あたし、すず。この近くの小学校の一年生」
すずは、とおるの目をまっすぐに見て言った。
「すずちゃん?ぼくはとおる。6さいだよ」
とおるは走り回るのをすっかり忘れて、すずのふんいきを味わっていた。この原っぱの景色にすっかりなじんでいるような、今日初めて会ったのにいつもここにいるような感じだった。
「ぼくは走るのが大好きなんだ」
そう言うと、とおるは思いっきりかけ出した。原っぱの周りをぐるんぐるんと何度もまわって、とちゅうの木の間も根っこをよけたり、落ち葉を気にしながら、かみをなびかせて走った。すずはとおるを遠くぼんやりとながめていた。
どれくらい走っただろう。苦しくても走り続けて、心が体からはなれそうになってやっと、とおるは歩き始めた。歩きながら、すぐにすずのそばまできた。
「すずちゃん、ぼくもきれいな落ち葉みつける」
すずちゃんは今度はすっかりうれしくて、スカートの葉っぱをみんなベンチの上に置いた。それからとおるの手を引いて二本並んで立っている木と木の間をくぐりぬけた。
「え?ここはどこ?」
とおるはもう体がカチンコチンにこおりそうだった。なんといってもとにかく寒い。それにすずちゃんはどこに行ったんだろう。あたり一面まっ白だ。
「すずちゃーん」
とおるはすずちゃんを呼んでみたけれど、となりにいるのは…。え?白くま?わっ、助けて。とおるはあとずさりしていた。
「とおるくん、わたしたち白くまになってる」
とおるは目の前にいる白くまがすずちゃんだなんて、とても信じられなかった。でも自分の足と手を見て、もう飛び上がりそうになった。
「ぼくも白くまになってる。うそでしょ!」
とおるは悪い夢を見ているんだと自分に言い聞かせた。さっきあんなに寒いと思ったのに、今はもう平気だった。あたたかい毛皮におおわれているせいなのかな。ふうーっと息をはくと、そこらじゅう白いけむりがたった。
「すずちゃん、ここ氷の上だよ」
とおるは足元の氷を確かめるように、腹ばいになった。それから勢いをつけてすべってみた。白くまになっても、とおるはじっとしていられない。
「どこからか、いいにおいがする」
すずは氷の穴に鼻をつっこみしきりとにおいをかいでいる。どうやら食べ物のにおいらしい。すずがくいしんぼうだと知って、とおるはおかしくなった。
「アザラシみたい」
しばらくしてすずが言った。
「つかまえようよ」
とおるも、かりをする気まんまんで言った。
すずととおるはおたがい向かい合ってあとずさりしていった。それから息を合わせて、氷の穴から海にもぐった。不思議だ。ぼくこんなに水にうくの上手かったっけ。遠くですずも水をかいている。おいしそうなアザラシが目の前にいた。にがさないぞ。
「すずちゃん、やったね」
とおるはしとめたアザラシを氷の上に引き上げ、すずと喜び合った。これでひとまず、すずととおるはうえ死にしなくてすみそうだ。おなかがすいたらえものを探し、おなかいっぱい食べた。ねむくなったらいつまでもねむり続けた。どうやら白くまにはあまりおそれる相手がいないらしい。食べてねむる以外にあまりすることもなく、一日が長い。海の氷がとけてしまう季節は、かりができなくておなかがすく。だからあまり動き回らないようにするけれど、それにしてもたいくつだ。
そんな時とおるは、ようちえんに通っていたころのことをほんの少しだけ思い出してみた。まったく思い出せないわけではないけれど、きおくがあやふやになってきているみたいだ。仲のよかった友達の名前も思い出せない。朝パパがようちえんに送ってくれるとちゅうでどんなおしゃべりをしていたか、思い出せない。ママが作ってくれるクッキーの味や色が思い出せない。そんなことを考えながら、とおるは気づいた。今自分がいる世界はまっ白だけれど、あのころはちがった。どんなところにもあたたかい色があふれていた。そう思うと、なぜだかあのころがなつかしくなった。絵の具やクレヨンで、作りたいと思う色はどんな色も作っていたあのころを、もうすっかり手ばなしてしまったような気がした。
「それで?じゃあ、白くまになった今は幸せじゃないの?」
とおるは自分に聞いてみた。白くまになってからというもの、わき起こる欲求にただ素直に従って生きている。といっても、おなかがすいたなとかねむくなってきたなとか、そのくらいのことだけれど。不思議なことに、それ以外に何の不満もない。ということは、もちろん幸せのはずだ。
「ぼくは今、幸せだ」
とおるは自分の声を聞いて、やっと幸せを信じられる気がした。白くまになったって、幸せなんだ。すずだって、毎日わかりやすく食べてねむり、おだやかな顔をしている。ある日とおるはすずに聞いてみた。
「すずちゃんは白くまになる前と今とどっちがいい?」
すずはそんなこと考えたこともなかったという風に、しばらく考えこんでいた。そしてきっぱりと答えた。
「今のままでいい」
とおるの答えも同じだった。白くまになる前のことは少しずつ忘れてきているし、今に不満もないのだから。
それなのに、それなのに…。なぜ?海にもぐって、すずとぶつかりそうなくらいそばですれちがってはスリルを味わったその時…。あの広い公園の並んだ木の下に、もどってきてしまった。元のとおるとすずになっていた。二人は顔を見合わせ、しばらく体を動かせずにいた。どれくらいの時間がたったのだろう。夕日が西の空にかたむいて、風が強くふき始めた。
「と、お、る。もう帰る時間ですよ」
聞き覚えのある声が遠くから近づいてきた。
「ママ。ぼく覚えてるよ」
ママはきょとんとしてぼくをみた。
「何を?」
ぼくは何と答えたらよいのかわからなかったから、にっこりわらってママを見た。そしてとなりにいるすずをしょうかいした。
「すずちゃんだよ。一年生」
ママもにっこり笑ってすずちゃんに話しかけた。
「今度のお休みにうちに遊びにいらっしゃい。おいしいクッキーを焼いておくわ」
すずもうなずいて、ベンチの上に置いた色とりどりの落ち葉を拾いあげ、そのうちの一枚をとおるにわたした。
「約束ね」
とおるとママは、すずに手をふり見送った。それから手をつないでゆっくりと家の方に歩き始めた。ママはどんなクッキーにしようかって今から考えている。とおるはブルーベリークッキーをリクエストした。
またようちえんに通うとおると、小学校に通うすずにもどった。おなかがすいた時に食べ、ねむりたい時にねむる以外に、することがとても多い。でも、もっとこうしたいという望みもわいてくる。白くまだった時はそんなこと考えなかったのに、不思議だ。サッカーをやってみたいとか、将来はこんな大人になりたいとか、サンタさんにお願いするクリスマスのプレゼントをそろそろ考えとかなきゃとか。人間は複雑ってことか。でも複雑って味わい深いんじゃないか。少しづつちがう色や形の葉っぱが、今はとても楽しい。
すずは放課後に公園で変わらず落ち葉や木の実を拾っている。もちろんとおるは走り回っている。




