九 夜の海
出される料理は今日も美味しい。温泉は、芯まで温まるのを感じる。
布団には湯たんぽが入っていて、静かな夜を過ごす。
夢を見た。
それは、俺が前いた町の病院。
母さんが入院していた病院。
母さんの病室に行こうと思って、二人の男女が入って行くのを見て、そのまま来た道を戻って行く俺。会おうとはしなかった。会いたくなかった。あの母親が、嬉しそうにしているのを見たくなかった。
急に帰って来たと思ったら、そのまま入院してしまうような人だから。迷惑だと思っていた。
場面が変わった。
葬式だ。母さんの。
あの二人が、陽菜さんと、相馬さん。
「辛い時こそ、笑いなさい。あなたのお母様は、あなたに笑っていて欲しいと願っていました。日頃から笑っていないと、私みたいに無愛想で下手くそな笑顔しかできなくなりますよ」
そう言われた。そういえば、笑顔、ちゃんとできているのかな。
あの優しい声に、俺は素直に従おうと思った。思えた。
一度だけ、母さんと話した。陽菜さんと、相馬さんの事。
俺は知っていた、姉がいる事。従兄弟とも言える存在がいること。母さんは、いつか紹介したいと、言っていた。
俺は自分の父親を知らない。気がついたら、一人だった。
夜中、目が覚めて窓の外を見ると、雪が降っていた。
冬は美しい。
美しさが、あちこちにある。そういえば、商店街に大きなツリーが設置されているらしい。クリスマスはもう終わったけど。
頭にちらつく女の子を振り払おうとして、やめた。
意地になっているだけじゃないか。
居心地の良さは確かに感じていただろ。
「眠れないのなら、こちらに来ては? 温かいお湯でも飲みましょう」
眠気が飛んでしまい、散歩に行こうと思った所で声をかけられた。
陽菜さんは旅館のロビーのソファに座って、ストーブにやかんを乗せてお湯を沸かしていた。
「なんでここにいるのですか?」
「あなたと同じですよ。眠れないので出てきました」
「何かあったのですか?」
「ありましたよ」
目の前に座ると湯呑を渡された。
「冷ましながら飲んでください」
持ってると熱かったので、机に置く。座ったことが無かったロビーのソファ、結構ふかふかで、しばらくは座っていられそうだ。
「散歩にでも行きたかったのですか?」
「まぁ」
「確かに、気持ちはわかりますよ。今の私も、どこか、遠くに行きたい気分ではありますから。遠くに行って、私ではない誰かになった気分で、なんて気持ちは、隅の方にはあります」
「多分、違いますよ。俺と、あなたでは」
「えぇ、当然です。私とあなたは違う人ですから。でも、何もかもを放り出して、どこかに行ってしまいたい気分になるという気持ちは、理解できると思いますよ」
ただのお湯をすする。少し飲みやすくなっていた。それだけだ。美味しくも不味くも無い。お湯はお湯だ。
自分よりも年下に見える女性に言い負かされるというのは不思議な気分であるけど、年上らしいからおかしくは無い。口に出せば矛盾していそうな状況が今この場に実現している。
「行ってみますか? 散歩。お姉ちゃんと」
「いきなり姉面されても……」
「決定です。行きますよ」
予想外に強い力に捕まれる。慌てて白湯を流し込み、ついて行く。ぬるくなっていてよかった。
寒くない。体がちゃんと温まっていた証拠だ。
雪はまだ降り続いている。俺と陽菜さんの足音だけが聞こえる。街灯も消え、夜の闇がすっかり支配していた。
足跡は付けた傍から少しずつ埋まっていく。
「陽菜さんは、その、やりたい事があるかと言われたら、答えられますか?」
「はい。今は、相馬君の夢を応援したいです」
「夢、ですか?」
「乃安さんのお店を出す事、彼の今の夢です」
「乃安さんの、お店?」
「乃安さんは自分のレストランを出したいと思っていますから」
修行中とは、そういうことか。今更理解した。
だとすれば、あの旅館も、ずっとそのままではいられない。いや、今でも十分、危うい。
「陽菜さんは、乃安さんの夢を応援する人を、応援したいということですか?」
「そういう事になりますね。性分ですよ、完全に」
自嘲気に少しだけ口元を吊り上げる。
「でも、それが私のやりたいことだと、心が言っています。あなたの心は、何て言っていますか?」
足が止まった。そして、横を見た。
夜の海は闇だ
底の見えない闇だ
心が恐怖した 闇を怖がるのは本能だ
飲み込まれると思った 白い雪は次々と黒い海に飲まれた
でも、美しい
足が竦む 心が惹かれる
本能と欲求は別だと気づいた
「俺は、マイに、見せたいと思いました。海を」
「マイ……一昨日会っていた人ですね」
「はい」
「ご病気なのですか?」
「そうです。海を、近くで見たこと無いと、遠くからしか眺めた事無いと言っていました」
陽菜さんは、静かに続きを待っていた。
「マイは、俺のことを、必要とはしていなかった。でも、俺は、マイのために、何かしたいんです。海を見せたい、弥助さんの作る料理を食べたいと言っていた、それはもうできないけど、どうにか、したい……」
子どものように、涙をこらえてそうこぼす俺を、陽菜さんは静かに眺めている。
「でも、俺に、何ができると言うのですか?」
「協力しますよ」
「えっ?」
「お姉ちゃんも手伝います」
「どうして……?」
「姉ですから。弟の我儘の一つや二つくらい、手伝わせてください」
言葉とは裏腹に、どこか悲し気に、けれど嬉しそうに呟くように、そう言い切った。
「さて、では明日行きましょうか。まずは連れ出したい本人を説得しない事には始まりません。じゃあ、帰りますよ」
手を掴まれて引っ張られるように歩く。
手袋越しに小さな手を感じる。
陽菜さんは優しい。姉という実感なんて無いし、唐突に現れてここまで優しくされて、正直、意味不明だ。
でも、それでも、温かい。
陽菜さんが向けてくれる言葉、感情が、温かい。この温かさは、確かに感じているものだ。
「陽菜さんと相馬さんは、どういう関係なのですか?」
「あの人は私に色々なものをくれました。誰かを本気で大切にするという事を、教えてくれました」
「大切な人、なのですね」
「はい。とても、大切な人です」
俺にとって、マイは、大切な人、なのだろう。
「あの人がいなければ、今頃私は、黙々と誰かに仕える人形だったと思いますよ」
「凄い例えですね」
陽菜さんは冗談めかして言っていないのが気になる。
「今の私は、あの二人が夢を実現する日が楽しみで仕方ありません」
旅館が見えてくる。雪は止んでいた。
「清明さん。人は、残酷ですけど。でも、優しくなれるのです。気づいていないだけで」
「はい」
旅館の手前、陽菜さんは足を止めて、俺の方に振り返る。
「居場所は作るもの、なんて強者の論理を、あなたに押し付けません。でも、忘れないでください。あなたが関わった人の中には、既に、あなたがいますから」
ザクザクと足音が、温泉街に小さく響いた。
次の日、陽菜さんの運転する車に俺は乗っていた。
「マジで行くのですか?」
「気まずさを乗り越えてください。目的のために多少の犠牲はつきものです。代償無しの成果なんてありえません」
「悪役っぽい台詞ですね」
「事実ですから。正義の味方が振りかざすのが理想論。悪役が振りかざすのは現実。大衆が望むのは理想論の勝利ですから」
半ば拉致されるように車に乗せられ、ここまで連れてこられた。
相馬さんが一瞬で俺を捕獲した。
旅館の廊下の端と端にいたはずなのに、気がついたら距離を詰められ、そのまま気がつけば肩に担がれていた。
「ごめん。陽菜に頼まれちゃって」
助手席に座る相馬さんに手を合わせて謝られる。なんでついてきているのだ。
坂道もあっという間に登り終え、病院の駐車場。
日数で数えれば二日ぶり。なのだけど、もっと久しぶりな気がした。
「行きましょう。清明さん。案内お願いします」
「う、うん」
「相馬君みたいな反応しますね」
「知りませんよ」
「僕そんな反応したっけ?」
この二人の間にいるのが、物凄く変な気分だ。
「久しぶりだね」
「君もそう思うんだ」
「うん。来てくれて嬉しいよ」
マイはうっとりと窓の外を眺める。
いつも通りの反応に俺は安心する。忘れられていなかったことに、安心する。
「座りなよ。今日も膝貸す?」
「いや、今日は良い」
「『今日は』って……」
陽菜さんと相馬さんは今頃紅茶でも飲んでいるだろう。しばらく放っておいてマイとどうでも良い話がしたくなった。現金なものだ。昨日までは、あんなに会いに行くのを躊躇っていたのに。
今こうしてマイを目の前にすると、俺の何もかもを、さらけ出したくなる。
「マイってさ、外に出られるの?」
「温かい時期は、たまに病院の中庭に行くよ。って、結局膝の上に寝るの?」
「やっぱり借ります」
やっぱり、落ち着く。
「海、近くで見たいよね」
「見れるなら、見たいかな」
「見に、行かない?」
「海を?」
「うん」
「先生、OKしてくれるかな……」
「一緒に頼んでみようよ」
俺の提案は、無責任だろうか。ただの自己満足では無いだろうか。自分を探る。自分を探っても、俺は今、そうしろと言う言葉しか、そのまま行けと言う心の声しか聞こえない。
「マイに、海、見せたい。そう思ったんだ」
「それが君のやりたい事?」
「うん」
何度も答えを迷った問いかけに、はっきりと頷けた。
「そう。じゃあ、頑張っちゃおっかな。私。先生に頼もう」
差し出された手を握って、車椅子に移動するのを手伝って。
「それで、先生は何処にいるの?」
「もうすぐ検査だから、迎えに来ると思うよ」
付き添いとして一緒にいることは、マイが話すと許された。意外だった。
「君は、最近よく来る子だね」
「はい」
白髪交じりの、優しい目をした先生。きっと良い先生なのだろう。
「木下さんから聞いているよ。海を見せたいらしいじゃないか」
「はい」
もう、マイから話してあるのか。
今マイは別室にいる。何の検査なのか俺は知らない。
「はっきり言って、木下さんは長くは無い。延命することはできるが、恐らく彼女は望んでは無いだろう」
「そうですね」
それは、わかる。俺でも。
「だから、やりたいことをやらせるのは、一つの選択肢ではある。そういう意味ではこの提案を尊重したい。が、問題は、君が信用に足るかだ。一人の医師として患者を預けるのだ、疑う事を許してくれ」
「いえ、当然の事だと思います」
マイと知り合ってそんなに長くない。それは客観的な時間が証明している。
「ありがとう。木下さんは君の事をとても気に入っている。それは事実だ。私が疑っているのは、木下さんの体調を気遣い、適切な状態に置き、無事に連れ帰る事ができるか。要するに安全上の問題だな」
「はい。それは、大丈夫です」
俺は、頷く。
「根拠を示せるかな」
「今日、一緒に来てもらいました。呼んでも良いですか?」
「構わないよ」
診察室の外で待たせていた二人を呼ぶ。
「初めまして、朝野陽菜と申します。こちらは日暮相馬です」
「この二人に協力してもらいます。旅館の車を借りれば、車椅子も問題なく乗るので」
「……ふむ」
真剣に患者の事を考える、そういう人だとわかったから、悩む時間が長くてもイライラはしなかった。
むしろ、こういう人に今までマイは診てもらえていた事が、どうしてか嬉しかった。マイはマイの事を真剣に考えてくれる人に囲まれている。それがうらやましかった。
「わかった。許可を出そう」
「ありがとうございます」
「頼んだよ」
「はい」
もっと話し合うと思った。陽菜さんと相馬さんを出しても信用されないと思ったから。乃安さんの方が良いのではないかとか、直前まで考えていたけど、忙しい乃安さんの手を煩わせたくもなかった。
それに、乃安さんには別の事を頼みたい。
「どうしますか? マイさんと話していくのであれば、私たちは待っていますけど」
「いえ、むしろ二人も会ってください。当日が初めましてだと、不安があるかもしれません」
「そうですね。失念していました」
達成感を感じるのはまだ早い。けど、一番の難関を超えたという安心は感じても良いだろう。
「はぁ」
思わず、そんな息が漏れるくらいには、緊張していたのだから。
「僕は待ってるよ」
「何を言っているのですか? 相馬君も会うのですよ」
「……はい」
困ったちゃんとお世話係に見えてきた、この二人。
そんなやり取りの間に、検査室からマイが出てきた。
「お待たせしました」
「おかえり」
「……そちらの方は?」
「海を見に行くのに協力してもらう事にしたんだ」
「はぁ……ありがとうございます。よろしくお願いします」
マイは、許可が取れたのかは聞かなかった。多分、わかっていたのだと思う。不思議と鋭い部分がある子だから。
「よろしくお願いします。マイさん」
陽菜さんは車椅子の前にしゃがみ込んで話す。
頭の中に過ぎった映像は、中庭で母さんの座る車椅子を押しながら話す陽菜さんだ。俺は、遠くから見ていた。
「はい。よろしくお願いします」
不思議な気分だった。徹底的に避けていた二人に、今は頼っているのだから。そんな事も、あるものなのか。
マイを病室まで送って、その日は帰った。早速明日とは言えないから、明後日行くことになった。
乃安さんは厨房にいた。
「どうしたんだい? 清明君」
「乃安さん、あの、明後日、旅館、一人お客さんの予約をお願いしたいです」