八 生まれた時からの友達。
「あの……」
「ん? 食べないの?」
「いただきます」
海鮮丼だ。美味しそう。
相馬さんの狙いが読めない。
「どうした?」
「いえ」
食べることに集中する。美味しい。いくらとか、マグロとか、サーモンとか。
男二人の間に会話も無く、無言の交流も無い。ただ二人で黙々と食事をする。たまたま居合わせただけの二人と言われても違和感は無い。
「僕は、ここから見える景色が好きでね」
先に声を上げたのは相馬さんだ。
「みんな結構楽しそうに仕事しているからさ」
聞こえてはいたけど別に聞いていたわけでは無い、そんな風景を指して彼は言う。
「俺は」
「ん?」
「あなたが何を言いたいのかがわかりません。遠回し過ぎて」
「冷たいなー」
自分でもそう思った。
「言いたい事なんて無いよ。今の僕の言葉に深い意味なんて無い。うっ、ワサビ多かったなって程度の気持ちしかこもってないよ」
「はぁ」
俺は相馬さんの目を見た。
視線が受け流されるという体験を初めてした。
やりづらい。睨もうと強張る顔の力をどうにか収めようと、多分、鏡を見たら百面相しているだろう。
だから誤魔化せる筈もなく、相馬さんはどこか申し訳なさそうな表情になる。
食べ終わった。あまり味の事は、その時には覚えていなかった。
旅館に活気が無い。静かすぎる。
「お帰りなさい。相馬君。晴明さん」
「ただいま」
「どうも」
あ……陽菜さんがいた。
陽菜さんは旅館の制服を着ていた。
「手伝うよ、何すれば良い?」
「そうですね。では、買い出しをお願いします。車の鍵は乃安さんから借りてください」
「わかった」
そんな会話を後ろに聞きながら俺は部屋へ向かう。
吐きそうな気分だ。他人の家のような居心地の悪さ。
自分の部屋なのに……。
外に出る支度をもう一回し直して、再び旅館を出る。もうほぼ毎日歩いている道を行って、坂を上る。
「あの」
「あっ、君。忘れ物?」
「いえ、まぁ、そんなところです」
「木下さんは今検査中だから、会いたいなら少し待ちなさいよ」
すっかり顔馴染みになってしまった受付さん。
嫌いな場所であるはずの病院に、衝動的に来てしまった。
いや、ほぼ毎日来ていたと考えれば十分に可笑しな話だ。
「そうかそうか、君はそんなに私に会いたかったのかー」
「うるせぇ」
「と言いつつ、私の膝を枕にするんだもん」
「……すまん」
「素直に甘えてくれるのは、まぁ、嬉しいけどね」
「そりゃ、どうも」
我ながら何しているんだとは思う。でも、こうしていたい。
膝に頭を預けて、存在を存分に感じる。触れ合う事で感じられる事は、あると思う。
「もうこのままここに住むのもありかな」
「えーっ、そんなにここ気に入ったの?」
「まぁ」
「ふーん、まぁ、できなくもないけどさ。なんで? それが君のやりたいこと?」
そういえば、そんな話をしていた気がする。
でも、それがやりたいことかと言われると、素直に頷けなかった。もっと、まだ、もっと他にある気がする。
これがやりたい、そんな風に思えることでは無い。
また、この問題か。
「マイはすごいよ。マイが、これから生きていけば良いのに」
「どうしたの急に?」
「俺が代わりになるよ。マイの病気、俺に、僕に、くれよ」
「ヤダよ」
「マイは、やりたいこと、あるじゃん」
「あるね」
こんな漠然と、だらだらと生きる人間よりも、もっと。
「マイみたいな子に、俺は生きて欲しい」
「ありがと。でも、人は死ぬよ。私も、君も」
帰って来たのは当たり前の事実だった。
「君が明日死なない、そんな保証、ある?」
前も、同じやり取りをした気がする。
でも、その時とは違う。マイは冗談めかして無い。本気だった。本気のマイが怖くて、顔を上げられなかった。
頭を膝に預けたまま。マイの言葉に耳を傾ける。
「私はたまたまもうすぐ尽きる、それがわかっているだけなの。もし、君の代わりに私が生きる事ができても、それはもしかしたら明日までの命かもしれない。代わりに生きるなんて、できるわけないよ。私はまだ生きていたい」
確実にわかる終わりの命。いつまで続くかわからない。未確定な命。
「死はね、友達だよ。生まれた瞬間から、ずっと一緒。いつでも見守ってくれている」
「怖くないんだ」
「怖いよ。でも、良いの。その日が来るのが近いってわかっているだけ、みんなより得してる」
諦めとは違う、そんな感情を感じた。
「だから、私のために、代わりに生きて何て言わないで。私も、君に私の分まで生きて、なんて言わないから」
それは俺とマイの間にひかれた明確な境界線だ。
外はすっかり暗くなっていた。
どこにも行きたくないけど、どこかに行きたかった。
雪が解けるように、儚く消えることができれば、楽なのに。
どこに行こうか、考える前に歩き出した。
雪が降っている。夜空に雪が舞う。
寒いけど、平気だ。
死ねよ。
自分に命じた。
俺の足は止まらない。
死ねってば。
体は前に進む。
死んでしまえ。
風が吹いて体に雪が吹き付ける。冷たくて、不快だ。
それでも、体は平然と前に進んだ。人が死ぬのは、簡単ではない。
駅だ。駅に着いた。ポケットに入れた財布には、千円入っていた。これでは、そこまで遠くには、行けない。
あぁ、でも、母さんが死んでから、どこからかお金振り込まれてたな。
下を向いたら、髪から水が滴り落ちた。前髪を後ろ向きに撫でつけた。
「どこに行く気ですか? お供しましょうか?」
「……何しているのですか、陽菜さん」
「それはこちらの台詞ですよ」
「放っておいてください。帰ったらどうですか。寒いですよ」
「そうは言いましても、私はあなたを放っておくわけにはいかないので」
「なんでですか」
声が震えるのがわかる。
聞き覚えのある声だ。この優しい声。
嫌だ。
「ごめんなさい」
謝らないでくれ。
俺は、知っている。
駄目だ。
眠い。
母さんが嬉しそうにしている顔が浮かんだ。
「なんで、いまさら」
顔を上げた。目の前に陽菜さんがいる。
澄んだ瞳には、俺が映っている。
「……ふざけるな」
ふわりと、金木犀の香りが鼻をくすぐった。
体を慌てて起こした。
周りを見渡して、自分がどこにいるのかを確認した。
「駅の待合室ですよ。職員の方のご厚意でしばらく置いてもらいました」
「また、俺は倒れたのですか」
「はい」
体をまた倒す。けど柔らかい感触に気づいてまた慌てて起こした。
「陽菜さん!」
「はい? 大丈夫ですよ。頭なら拭いておきました」
「あっ、そうですか」
ストーブの温かみが心地良い。
頭が上手く回らない。だから今はこの状況に甘んじることにした。
「ごめんなさい。甘えていました」
陽菜さんは、そう言った。
「すいません。なんで謝られているのか、よくわかりません」
「私は、姉なのに」
「……俺の、ですか」
「はい。父は、違いますけど。ここにいれば、あなたは大丈夫だと、思っていました」
「どうして、俺がここにいると思ったのですか?」
「心配だったので、ずっとつけていました」
当たり前のようにそう言った。だからそれのおかしさに一瞬気づけなかった。
「お葬式で会った時、あなたとどう接すれば良いか、わかりませんでした。だから、逃げてしまいました。私たちが引き取るという選択肢を、選べませんでした」
あの時の、俺に唯一声をかけてくれた女の人、それがこの人だと、ようやく気付いた。
「私が、あなたの姉だと、実感が持てなくて、ごめんなさい。傍に、いられなくて」
「俺も、あなた達を避けていたので、その、母さんに面会に来ているの知っていましたから」
途切れ途切れの、つながりの無い会話だと思う。
それが、俺と陽菜さんの距離感だ。
「ここでの生活は、楽しいですか?」
「……ここに、俺の居場所は無いと、思って」
「それで、駅に?」
「はい」
陽菜さんはこっちを見ない。ストーブの赤い光を、じっと見ていた。
「怒っていますか?」
「どうして、ですか?」
「そう思ったので」
「……はい、怒っているのかもしれません」
そうだ。俺は。
「俺にとって、母が死んだのも、転校して旅館に下宿させてもらうのも、今自分の身に起きている普通の事です。なのに、どこか腫物を触るように扱われている気がしました」
だから俺は。
「弥助さんの事が隠されていたのも、だから、結構、その、ショックでした」
俺がマイの所に通い詰めていたのも。
必要にされているような気がして、心地よかった。
優しさだと、わかってはいる。でも、俺にとっては毒だったのかもしれない。
「そうですか……清明さんは、あの女の子、あなたが会いに行ったあの女の子と、どういう関係なのですか?」
「どうして急に」
「姉として気になります」
「ただの、友達ですよ」
「なるほど。その割には、大分距離が近かったと思います」
「放っておいてください」
陽菜さんは小さく微笑む。ほのかな赤い光に照らされて、綺麗な顔だなと思った。
「相馬さんと、お付き合いされているのですか?」
「いえ、相馬君の彼女は乃安さんですよ」
「えぇっ!」
ま、マジか……。相馬さんにとってこの町は危険な場所じゃないか。
「清明さん。私と相馬君はあと一週間ほどこの町にいます。考えておいてください。私と一緒に行くか、この町に留まるか」
選択肢が目の前に提示された。初めて、自分の身の振り方を選ぶ機会が、与えられた。
「悪い選択肢では無いと思います。あなたは、相馬君の家から元居た高校に通う事になりますが、私もいますから。それに、相馬君のお父さんは、あなたの叔父にあたる人です」
決して、他人では無い人に囲まれる生活……。
「家族ですよ。私たちは」
立ち上がる陽菜さんに続いて立ち上がる。
旅館に帰るという選択肢以外、目の前には提示されていなかった。
翌朝、俺はマイの所に行かなかった。
熱が冷めたように、病院までの道のキツさに気づいた。
部屋に籠って、陽菜さんに提示された選択肢を悩んだ。
とても魅力的な選択肢だ。そう思うなら、それを取れば良いのにと思う。なのに、取りたいと思わない。
頭にちらつくのはやっぱりあの子だ。あの子の温もりだ。静かにもうすぐ訪れる死を迎えようとしている、あの子だ。
あの子は、俺を必要とはしなかった。
やっぱり行こうと思って立ち上がったけど、結局腰を下ろした。
「はぁ」
トントンと扉が叩かれた。
「どうぞ」
入って来たのは相馬さんだ。
「やぁ」
相変わらず、つかみどころがない。けれど飄々としているわけでは無い。
「陽菜と話せた?」
「はい」
「そう、良かった」
本気で安心したように、息を漏らす。
「好きな方、選びなよ」
「そうですね」
「君の選択、尊重するから」
「相馬さんは、いったいどうしてここに……」
「僕は孫だよ、弥助さんの」
「おじいちゃんということですか?」
「うん。まぁ、色々あって、実感としては無いけど」
相馬さんはそんな言葉を残して出て行った。意味はよくわからなかった。
マイの所にいなければ、俺はこんなにも暇なのか。暇故に、考える余裕があった。
旅館は再開するのか、乃安さんと節乃さんの二人でできるのか。
俺は、どちらにいた方が、都合が良いのか。
考えて、考えて、気がついたら眠っていた。
今日はそれだけだ、もうすぐ年が変わる。
「矢田目君が一人は珍しいね」
「店番?」
暇そうに本を読んでいた南さんは、顔をあげてこちらをちらりと見る。
「そんな感じ。コーヒーくらい淹れるよ」
「お願い」
時間のせいか、俺と南さんしかいなかった。
カウンターに座り、立ち上る湯気をボーっと眺める。
「弥助さんの事、お悔やみ申し上げます」
「うん」
南さんの所も葬式に来ていたのは、知っている。
知っているだけ。
「マイの所、行ってる?」
「うん」
嘘ではない。昨日はたまたま行っていないだけだ。
「そう。好きなの?」
「みんなそれ聞くよね。別に、居やすいだけだよ、あそこが」
「そう」
話題が尽きたのか、南さんはコーヒーを二人分出して本を読み始めた。
俺も飲む。やっぱり、良い豆を使っているのか、それとも南さんが純粋にコーヒーを淹れるのが上手いのか。すんなりと飲める味だった。
静かな店だ。俺が行くときいつも人が少ないのは、謎だけど。売り上げは大丈夫なのだろうか。オムライスかサンドイッチか頼もうかと思ったけど、財布の中身が少ない事を思い出した。
「ごちそうさま」
「お粗末様」
コーヒー二杯分の小銭を置いて店をでた。俺はここに何をしに来たのだろう。
よくよく考えれば、何の本を読んでいるのとか聞けば、多少は会話が続いた気がする。部活休み? とかも。
下手くそだなと思わずつぶやいた。そこまで会話を求める必要性は無いけど。
誰に言い訳しているんだ、俺は。
その足で砂浜に降り立つ。
雪が積もる砂浜。夏はきっと賑わう場所なのだろう。
曇っている、でも、今の俺にとってはとても落ち着く天気だ。
しばらく歩いていると、ベンチを見つけた。雪を落として腰を下ろす。
「マイに、見せたいな」
この景色、雪の中にある海。
何で、そう思った? 自分に問いかけてみるけど、答えを出したくないと思ったから考えるのを辞めた。
考えるのを辞めると、楽になる。
頭に余裕ができる。
景色を気持ちよく楽しめるようになる。
頭がひんやりとしていく。
視界が広くなっていく気がする。曇ってるけど。晴れないかな。晴れないな。今日はずっと曇りの予報だと思い出した。
雪すら降らない、中途半端な天気だ。
嫌いだなと思っていたのに、今はとてもしっくりくる天気だ。
マフラーを口元まで引き上げる。風が強くなってきた。
「そろそろ、帰ろう」
誰に言うわけでも無くそう呟いた。