七 起きたこと。やりたいこと。
さて、俺は一つ勘違いしていたことがある。
クリスマスとクリスマスイブは違う日では無い事だ。
出席してくれる人へのプレゼントを用意して、人生ゲームを鞄に詰め、簡単に飾りつけする準備をして、乃安さんの車に揺られて病院に向かう道中、そう指摘されて思わず「へぇ」と頷いた。
「そもそも、イブを前日って捉える人多いけど、実を言うと、イブはイブニング、つまり夕方って意味なんだ」
「なんで夕方なんですか?」
「私たちが今採用している太陽暦と違って、ユダヤ暦を継承した教会暦では日没が日付の変わり目、つまり本来のクリスマスは太陽暦でいうところの二十四日の夕方に始まって二十五日の日没で終わりなの。だからまぁ、二十四日を目指して準備していた君は間違いでは無いんだ」
文化の違いというものを感じる。
乃安さんの豆知識披露が終わる頃には病院は見えていて、もう見慣れてしまった光景を横目に病室へ。
マイはいた。
「あっ、来た。こんにちは。清明さん。乃安さん」
「こんにちはー。体調はどうかな?」
「おかげさまで。とても元気です」
マイの「元気です」はあまりあてにならないけど、そう言うならと、病室を見渡す。
「ツリーは、ここで良い?」
「はい。海を見ながら眺めるのも良いと思うので、そこで。よいしょ」
そう言いながら車椅子に危なっかしく乗り移る。
「私も、手伝いたいです」
真っすぐな目でそう言われるものだから、俺はツリーの飾りを渡した。
「ありがとうございます」
車椅子を滑るように移動させ、鼻歌を歌いながら飾りつけを始める後ろ姿を確認して、俺も俺で準備を始める。
乃安さんはテーブルにパーティー料理を並べ始める。ちゃんと許可は取ってあるらしく、病院に提出するために材料まで細かく記録していた。
「あれ……」
慌てて上を見て目元を拭った。
「どうしたの? 清明君」
「何でもありません」
乃安さんの言葉にそう答えた。
「天井の染みが気になっただけです」
目に映ったもので適当に誤魔化して、準備を進める。
セロテープで昨日せっせと作ったペーパーフラワーを張り付ける。節乃さんが教えてくれた。
「Xか、Cか」
「Xmasで良いと思うよ。どっちも正しいから。あっ、アポストロフィはいらないよ」
「詳しいですね」
「勉強したからねぇ」
ペーパーフラワーで文字を形作るという思い付きの遊びをすぐに察してくれるのは本当にありがたい。
バランスは悪いけど、芸術点ということで良いや。
「おーす。あっ、僕も手伝うよ。あっ、乃安さんも来たのですね。わ、凄い、食事まで」
南さんが来た。南さんも南さんで両手に荷物を持っていた。
「あっ、未久美ちゃん。いらっしゃい。あぁ、迎えに行けばよかったね」
「いえいえ、気にしないでください。体力は僕の誇れるものの一つです」
「そうだね、君は本当に体力馬鹿だ」
「誰が馬鹿よ、白井」
扉が開く、その向こうには本当に白井が立っていた。
「遅くなりましたかね?」
「まだ始まってないよ」
「それは良かった」
今日招待した人はこれで揃った。
「そろそろ母も来ると思うので、お待たせしてすいません」
「もう来てるわよ~。あら、いっぱい来ているわね」
マイのお母さんもそろった。
「ほら、主催者、挨拶しなさい」
乃安さんに後ろから小突かれる。
「挨拶って……?」
「主催者が開会の挨拶をするのは普通でしょう?」
「俺が、ですか?」
「君が」
みんなが俺を見ていた。
思わず口元が緩むのがわかる。
「それじゃあ、乾杯」
俺の合図に合わせて、紙コップが掲げられる。
後は大丈夫だ。
無意識にそう思った。
やり遂げた。
体の中心から広がる熱。背筋が伸びる。
「良い顔してるね」
目の前にスーッと現れるマイの顔はちゃんと笑顔だ。
「そうやって目の前にしゃがんでくれる優しさ、好きですよ」
「何か食べた?」
「まだ始まったばかりですよ。あなたの事だから、後は良いやって隅の方で見ている気がしました、けど、心配はいらないようですね」
「ははっ」
「ふふっ」
「取ってきて差し上げましょうか?」
「大丈夫」
手を取られている事に気づいた。
「君まで俺を子ども扱いか」
「子どもっぽいですよ。あなたは」
仕方がない。そのまま手を引かれて歩くとしよう。病室の中の狭い距離だけど。子どものように導かれて、みんなの輪に入った。
笑い方は不自然じゃないか? 今の言葉に問題は無いか? そんな風に自分に問いかける時間も長くは続かない。
自然に笑えた。口を開けば言葉はスラスラと出てきた。
人生ゲームは結構盛り上がった。
大量の借金を抱えさせられていたのは白井だ。
「約束手形ってさ、信用無いともらえないと思うんだ。有価証券だぜ。裏書譲渡して良い?」
「それは受け取る側ができることで払う側はできないと思うよ」
俺も俺で、ここからどう巻き返すかを悩みながらそう答えた。
そして返しきれないまま終わった。
「あははー」
ビリは乃安さんだった。最後の清算で苦笑い気味だった。
そんな楽しい時間も終わりがある。
「えっ、これ乃安さん作ったんすか? 男子共に自慢できるぜ」
「あはは、それほどでも、うん?」
「乃安さん、温泉街で結構有名じゃないですか」
「んー、そんな事、前聞いたなぁ」
前言ったなー。
「どうしたらそんな風に肌をすべすべに保てるのですか?」
「特に特別なことしてないし、むしろ私結構ぐうたらだよ。休みの日とかずっと寝てるし」
確かに。ずっととは言っても午前中には起きているが。
「羨ましい……コラ白井、こっち見るな」
「さーせん」
そんな風に盛り上がる様子を、マイとマイのお母さんと一緒に眺めていた。
「そういえば、お母様は……」
「ふふっ」
「……どうかしたのですか?」
「いえ、そういえばちゃんと自己紹介していなかったことを思い出しまして。なんて呼ぶかと思っていたら、お母様ですか」
「駄目でしたか?」
「いえ。むしろ嬉しいです。息子ができた気分です」
のほほんとそう言われた。
「それで、何を言おうとしたのですか?」
「あっ、はい。お母様は今こうして話していますが、お父様の方は?」
「海外出張中です」
「そうですか」
のほほんとそう答えられ、そして俺はこの人をお母様と呼ぶことが決定したらしい。
「マイ」
「何?」
「お母さんは一回帰りますからね」
「はいはい」
「皆さん、私はこれで失礼します。ありがとうございました」
こういうところは、確かに大人だと思う。
そしてそれが呼び水となって、白井が帰って、南さんも帰って行った。
これが祭りの後の静けさというものか。
「片付け、手伝います」
マイは早速飾りを外し始めた。
十分もすれば、壁も、テーブルも元通り。いつもの病室だ。
それでも一か所だけ、窓際のツリー。マイはそれをじっと眺めていた。
「それ、あげるよ」
だからそう声をかけた。
「良いです」
「あげる。大事にして」
飾り付けられたツリーを崩してしまうのは、もったいないと思った。マイらしい、控えめだけど、どこか芯が通った雰囲気だったから。
「うん、ありがとう。……なんですかその手は? 仕返しですか?」
「もちろん」
ポンポンと頭を撫でる。楽しい。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「うん。また」
マイは、「また」と言った。
「ふふっ。くふふっ」
「乃安さん、不気味です」
「だって、だってさー。くふふふふ」
帰りの車の中で乃安さんは延々と不気味な笑いを漏らし続ける。
だいたい片付け終わって、荷物を持って先に行ってると言ってたくせに見てたのか、乃安さんは病室のすぐ外にいた。
せめてコーヒーでも飲んで待っていれば良かったものを。
「頭ポンポンかー。君も結構大胆なことするねー。マイちゃん可愛いもんねー」
「……うるさいです」
延々とマウント取られるのも気分が悪いので俺はどうにか仕返ししたい……諦めた。思いつかない。
窓の外を眺めることにしよう。雪、雪、雪、住宅街の筈なのにな。
まぁ、空は晴れてるけど。
「はぁ」
「どうかした?」
「いえ」
楽しい雰囲気からの落差のためなのか、心臓が苦しかった。
マイの病気が治るわけじゃない。その事実が、重く俺の中にある。
「がんばったね」
そんな俺に、乃安さんはそんな事を言った。
「俺は、企画しただけです」
「それだけでも、立派だよ。君が言わなきゃ、誰も動かなかったのだから」
ゆったりとした口調でそう言われて、何も言えなくなる。
「わかった?」
「……はい」
乃安さんの言っていることは正しい、でも、俺は、誇れない。
もどかしい。
マイに迫るものを取り除けない、何もできない。そんな自分が、もどかしい。
こんな気分に浸るのは、楽しい時間からの落差のせいだと思う。我ながら、めんどくさい奴だ。
昨日の今日だけど、マイに会いに行こうと思った。
でも、旅館が慌ただしい事に気づいた。出かける支度を済ませて外に出ようと思った時、乃安さんが珍しく慌てて鞄に物を詰めているのを見て、足を止めた。
「乃安さん、何かあったのですか?」
「あっ……」
動きが止まる。邪魔をしたのかなと思った。でも違った。
「清明君……」
「はい」
「ちょこっと……」
何かを言いかけて目を逸らされる。乃安さんのそんな気まずい様子を初めて見た。
乃安さんらしくない。飄々としていて、大人で、でもたまに子どもっぽくて、それでも敵わない、そんな。
「乃安さん、何しているのですか、もう隠すのは無理なのはあなたにもわかるでしょ」
「あっ、で、でも……」
「わかりました。あなたは車を出しなさい。私から説明します」
節乃さんが普段の温厚な様子からは想像つかない、毅然とした口調でそう言った。
ちらちらと振り返りながら、しかし指示された通り、駆け足で外に向かって行く。
「清明君、まずは謝らせていただきます」
「……何を、ですか?」
「私たちは、あなたに一つ隠し事をしていました」
「……」
同じ問いを繰り返す、そんな事はしたくなくて、口をつぐむ。
「弥助さん、当旅館の料理長は、今、この旅館にはいないことです」
歯を食いしばって、溢れそうになる疑問を飲み込む。話はまだ終わっていない、そう思ったから。
「今朝、病院から連絡がありました。入院していた弥助さんは、亡くなったそうです」
世界が揺れた。頭をぶん殴られた気分だった。
それと同時に、無駄に働き者の頭が今までの違和感をつじつまが合うようにつなぎ合わせる。
そういうことか、そういうことだったのか。
「乃安さんたちは、俺に部屋で食事を取らせ、そして旅館の仕事を手伝わせないことによって、弥助さんと俺が会わないことに違和感を持たせないようにした。多分、入院して無事退院でもしたらその時は万々歳、そして、その、もし亡くなった時も、あまり関わっていない俺にはショックが少ないようにした。ってことですか?」
「……うん」
ハンドルを握り、前を向きながらも、乃安さんはそうやって頷いた。
狙いは功を奏している。俺は確かに、あまりショックを受けていない。
驚きはしたけど、それでも、今の俺は、落ち着いている。落ち着いているだけ。
見慣れた受付も、暗い廊下も、消毒液の匂いも、どこか遠い世界の情報のように、淡々と感じている。
今にも動きそうな、寝ているように見えた。
難しい話は二人に任せて、俺は廊下に出た。
缶コーヒーを買った。間違えて無糖を押した。苦かった。
それから葬式があった。短期間に二回も経験するとは思っていなかった。
あとは何も覚えていない。
朝起きた。
旅館は今閉店状態。
廊下に出た。ボーっとするのがわかる。顔は洗ったのに、いまいちシャキッとしない。
「おはようございます。あなたが矢田目清明さんですね」
「あっ、えっと」
唐突に後ろからかけられた声に、しどろもどろの対応になる。
「申し遅れました。私は朝野陽菜と申します。乃安さんの高校の先輩です。弥助さんにもお世話になりました」
「はぁ、どうも」
頭を下げる。俺よりも低い位置から向けられる目は、思わず吸い込まれそうな、澄んだ目だ。
「なるほど、乃安さんの言っていることは、頷けますね」
「何がですか?」
「こちらの話です。朝食は間もなくできるとのことなので、今日はみんなで食べようと節乃さんからの伝言です。宴会場に来てください」
「わかりました。ありがとうございます」
朝野さんは俺を追い越して歩いて行った。
感情が読み取れない人だ。そういう人はやりづらい。
心の奥底で感じた苦手意識、でも、悪い人では無いと直感で感じた。
「何をしているのですか? 行きましょう」
「あっ、はい」
朝野さんはいつの間にか立ち止まり、待っていた。慌てて追いかける。
「もしかして、迎えに来たのですか?」
「はい。乃安さんが、そろそろ起きていると思う。とのことだったので」
「はぁ」
宴会場に来るのは初めてだ。
広めの畳の部屋。そこに机が並べられ、豪勢な料理が湯気を立てて待っていた。
乃安さんは男の人と話していた。その人は入ってきた俺達ちらりと目を向ける。
「陽菜、ありがとう」
「いえ、お待たせしました」
朝野さんは何というか、つかみどころのない男の人の横に座った。
「初めまして。日暮相馬です」
「……矢田目清明です」
先制するように出された手を握る。
この人も、色んな意味で読みづらい。
人間味が少しだけ薄い気がした。
うどん、納豆ご飯、漬物、鮭、味噌汁。
すぐにお腹いっぱいになった。
一体いつからなのだろう。
弥助さんがいないということは、乃安さんがずっと代わりに仕事していた事になる。
「ごちそうさまでした」
そう手を合わせて、宴会場を出た。
「弥助さんの事、聞いたよ」
「そう」
マイはいつも通りそこにいた。
「弥助さんの料理、食べたかったな。いつか食わせてやるって言ってて、結構楽しみにしてた」
無意識のうちにマイの手を握っていた。マイは何も言わない。
悲しみは感じない。マイから、悲しみの感情を感じない。
マイは近づきすぎた。死ぬことに。
「マイは、やりたいこと、ある?」
「あるよ、そりゃ」
「例えば?」
「うーん、学校行って、どうでもいい事話して、帰り道真っ直ぐ帰らずにだらだら寄り道して帰るとか」
「うん」
「砂浜を裸足で歩くとか」
「うん」
「私昔から体弱くて、だから連れて行ってもらった事ないんだよね。こんなに近くに住んでるのに。きっと物心つく前は近くには行ったと思うけど」
「うん」
マイが楽しそうに話す様子を眺めている自分を、冷たく眺めている自分がいた。
冷たい奴だ、そう言われている気がする。
「清明さん?」
「何?」
マイは俺の目をじっと覗き込んでいた。
深くて綺麗な目だと思う。逸らせない。
「私に散々語らせたんだから、君も私に教えてよ、やりたい事」
考える。
俺の、やりたいこと。
「わからない……今日は、帰るよ」
絞り出した答えはそれだった。
「? わかった」
きょとんとしているマイを残して走り出る。
走り出て、病院を出て、そのまま、苦しくなっていく肺があげる悲鳴を無視して、雪に取られる足を無理矢理前に出して。
そしてようやく足を止める。
嫌でも感じる生臭さ、波の音。
マイはこれを知らない。
「やぁ」
聞き慣れない声だけど、一応知っている声だった。
「こんにちは。奇遇だね」
「……日暮さん」
「相馬で良いよ。陽菜も陽菜って呼ばれた方がやりやすそうだから、呼んであげて」