五 リンゴのウサギ
結局、すぐに巡回してた看護師さんに見つかり、部屋に戻された。
ベッドに横になってもすぐに眠気は訪れない。ただひたすらに、冬の無音を感じる。点滴を眺める。
一滴一滴落ちてくる、俺の血管に直接流れ込んでくる栄養。口の中が甘い。
眺めていて、気がついたら眠っていた。そして、看護師さんに起こされて、体温を測られて、そして点滴が外された。
今日で退院らしい。
「やほー。迎えに来たよ」
乃安さんが来た。
俺はさっさと荷物を纏めた。一瞬、マイに挨拶していくか迷ったけど、しないことにした。何でだろう。
明日、ちゃんと学校に行こう。たった一回、授業をサボっただけなのに、この決断をするのに、凄い労力を要した。
会計も何もかもを乃安さんに任せる。
今日もここにはどこかに問題を抱えた人たちが列を成す。それは目に見える問題だったり、目に見えない問題だったり。俺には想像することすらできない物ばかりだ。あそこに座っている人も、受付の前で何やら話し込んでいる人も、みんな、何かを抱えている。
今そこで受付を済ませ、いそいそとエレベーターに乗り込むあの人も、身内が何らかの問題を抱えて入院している。という問題を抱えている。
結局、誰か一人が抱えている問題は、周りの人も一緒に、無理矢理、抱えさせられてしまう。そんな仕組みが出来上がってしまっている。
「終わったよ。それでさ、マイちゃんに挨拶して行かなくて良いの?」
「良いです。別に」
「寂しい事言わないの」
「結局、連れて行く気満々じゃないですか」
「まーねー。あの子の事結構好きかな」
「乃安さん、わりと誰でも好きになる事できそうじゃないですか」
「あはは、無理無理。私、結構冷たいよ」
慌てて、乃安さんの顔を見た。そこにはいつもの顔があった。あるのに、どうしてこうもぞっとしてし
まったのだろう。
「行こっ」
俺を引く手に黙って従う事にした。それが乃安さんの望んでいることだと、はっきりと理解したから。
マイは病室にいた。
「あー、本当に連れて来てくれたのですね。乃安さん」
「私にかかればこんなものよ」
二人は結構仲良くなっているみたいだ。喫茶店で少し話しただけの相手とよくもまぁ、ここまで打ち解けられる。
マイは乃安さんが持って来たお見舞いの品に目を輝かせて、乃安さんはその様子をニコニコと眺めている。
部屋に置いてあった椅子を窓際に寄せて、俺は二人が作り出す景色をただ眺める。それだけに徹する。
「清明君も食べようよ。折角作ったから、食べて欲しいな」
「えぇ? これ、乃安さんが作ったのですか?」
「そうだよー」
「すごいです! 弥助さんが良く褒めていらしたのですが、こうして食べる機会に恵まれるとは……いただきます!」
「大袈裟だなぁ」
俺も食べてみることにする。弥助さんの元で修行をしているとは聞いていたが、でも弥助さんって和食というイメージだし。
「……和風だ……」
「黒蜜と黄粉と抹茶って、合うよね」
抹茶のおかげで甘さも苦しくない。
「抹茶がちょこっと濃いかなって思ったけど」
「いえ、むしろ俺は抹茶のおかげで食べやすいです」
「良かった。和風料理は難しいなぁって、私も良い練習になったよ」
乃安さんの笑顔は魅力的だと思う。いや、普段から笑顔だけど、今の笑顔は心の底からの笑顔だと思う。
それはマイとは違う魅力だ。
何比べているんだ、俺は。
思考を追い払う。
ため息を吐きそうになったけど、堪えた。ケーキに失礼だ。
また、雪か。
匂いも、音も、真っ白に消し去ってくれる、ただ、綺麗なだけの存在。
「あっ、雪だ。清明君、そんなに見つめて、好きなの? 雪」
「うん」
容赦なく、降り注ぐ。
「この部屋からも見えるんだ」
「うん」
「何が?」
海が。海が見えた。
雪が降り積もる。
俺は無性に海に行きたくなった。心が呼び寄せられている気がする。
俺は海がこんなにも好きな男だっただろうか。いや、そんなことは無い。多分、きっと、マイの海に行きたいという気持ちを感じ取っただけだ。
「あぁ、海か」
乃安さんが納得したように呟く。
「良い部屋だね、ここ」
「はい。結構気に入っています」
「そんな、マンションみたいに……」
乃安さんが苦笑いで答える。
「住めば都ですよ。つまり私がマンションと思えばここはマンションです。どうぞ、我が家と思ってくつろいでください」
冗談めかしてそう言って、マイはニコリと笑った。
「……マイは……」
死ぬの? そう聞こうとした。でも、言えない。何でだ。
人が死ぬのは当たり前の事だから? それを聞くのは不謹慎だから?
「なあに?」
マイは無邪気な目を向けて来る。
「体調、良いの?」
「ふふっ、良くないよ。年中体調不良さ」
「そりゃ、そうだよね」
結局、内容を濁して、当たり前な馬鹿な質問をしてしまった。
あぁ、俺は馬鹿だ。
「そろそろ、帰るよ」
「うん。また来てね」
俺は病室を出た。
振り返ると乃安さんも付いてきた。
「仲、良いのですね。マイと」
「それ、私の台詞だよ」
「? 何がですか」
「私置いてけぼりで、二人だけの空間作り出してたじゃん」
「そうでしょうか?」
乃安さんはどこか拗ねたような横顔を覗かせる。そんな表情をすることが、俺にとっては意外な事だった。
「俺は別に、そんな……」
「はいはい。ほら、帰ろう。弥助さんたちも心配してるし」
「わかりました」
はぐらかされたけど、受け入れよう。俺だって別に議論したいわけでは無い。
海に行きたい、そんな不思議な衝動はこの時には消えていた。
「あっ、そうだ。後で南さんの所にお礼言いに行こうか」
「……何でですか?」
「プリント届けに来てくれているし。行かなきゃね」
「いや、えっ? それは……」
「だって君、学校じゃ多分言わないでしょ」
「う、それは、そうですけど」
乃安さんがにやりと笑う。車のギアを切り替えてアクセルを踏みなおして。
「それじゃあ、決定! 行こうか!」
このお姉さん、手強い。
白い砂浜。それは夏の海に訪れた時によく使われる表現だろう。でも、今俺の目の前には文字通り、雪によって白く染められた砂浜がある。
「どうしたの? 清明君」
「……なんでも、ありません」
頭にちらつくのはマイの事だった。
俺の直感が言っている。マイの先は、もう長く無いって。
マイは、何で、それなのに、あんな、夜中に、一人で。
俺は思考を無理矢理追い払って乃安さんの方に振り返る。乃安さんは頷いて喫茶店の扉を開いた。ドアベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませー」
南さんだ。
「あっ、乃安さん。それと……転校生。あなた、具合悪いなら言ってから帰りなさいよ。軽くパニックだったんだからね」
「えっ……」
唐突にギュッと手がつねられて、耳元で「しっ」と息が吐かれた。
ちらりと見ると乃安さんが片目をつぶっていて、人差し指を唇に立てていた。それも一瞬で、南さんも一瞬怪訝そうな顔をしたけど、でもすぐに営業モードに入ったみたいで。
「では、こちらへどうぞ」
とすぐに席に案内した。
「とりあえず、コーヒーお願いします。ホットで」
「畏まりました」
「戻りやすいでしょ」
「まぁ、そうですけど」
しれっと乃安さんがやったことは、確かにつじつまが合ってるし、俺の実情よりも説得力がある事だろう。
はぁ。
雪は止んでいた。雲の隙間から太陽の光が差し込む。差し込んだ光は柱になって海を照らす。
素直に美しいと思った。でも、そんな風景も少し条件が狂えば、すぐに崩壊してしまう。俺は、それを知っている。きっとみんなも、無意識の中でわかっている。意識していないだけで。
「清明君」
「はい」
「どうして、そんなに悲しそうな顔しているの?」
「えっ……」
「なんで、泣いているの?」
「えっ……」
「嘘、君は泣いていないよ」
慌てて目元を拭ったけど、確かに濡れてはいなかった。
「でも、悲しそうだよ」
「なんでですかね」
「さぁ、それは君にしかわからないよ」
「じゃあ、誰にもわかりませんね」
だって、俺にすらわからないんだから。
「お待たせしました」
とんと、コーヒーカップが二つ、テーブルに置かれた。
一口飲んで、不思議なことに、ざわついていた俺の中の何かが、落ち着いた。わからない。どうしてだろう。
「温かい飲み物はね、落ち着くよね」
そんな俺を見透かしたように、乃安さんは一言呟いた。
「乃安さんは、どうしてそんなに落ち着いていられるのですか」
「どうでも良いからだよ。私は、私と私の大好きな人が幸せなら、それで良いから」
「ほぼ初対面な人間によく話せますね。そんな事」
「清明君はいつまで私と他人気分なのかな? まっ、それもまた付き合い方か」
唐突に、雰囲気が弛緩したような気がした。
そして今まで自分が、また緊張していた事に気がついた。
乃安さんの、冷たさを感じた気がした。
それでも向けられる視線には温かさがあって。
俺は、どうやら乃安さんに悪く思われていないことがわかった。
「人は、一人では生きていけない」
乃安さんはそう呟く。
「一人の力では生きてはいけない、そんな仕組みなんだ、この世界は」
乃安さんは続ける。
「誰にも迷惑をかけず、誰にも頼らず、誰にも関わらず生きて行くなんて、誰にもできないんだよ。もう。君も。もう君は、例えば私と出会って、関わった。君はもう、一人じゃいられないよ」
誤魔化すようにカップに口を付ける。深い苦味だ。コーヒーの渋みが苦手な俺にとって、渋みが少ないこのコーヒーは美味しいものだった。
けれども、そんなコーヒーでも、俺が感じている気まずさを誤魔化すには至らず、店の中を見回す。南さんがこちらを見ていることに気づいた。
そして、乃安さんはニコニコ笑っていた。
「そろそろ行く?」
「はい」
席を立って二人レジまで、レジに立った南さんを見る。
口の中がカラカラに乾くのを感じる。息を吸って吐く。
「あ、あのさ……」
「はい」
「あ、ありがとう」
「? どういたしまして」
店を出て、俺は驚いた。
世界が広く見えたから。
雲が流れて行く。茜色の空。
思わず、立ち止まった。さっきまでの悲しい景色ではない。吸い込まれるような、そんな景色だった。
「どうかした?」
「いえ」
「おはよう。清明君」
久し振りの登校は、晴れた雪道だった。
「おはよう。南さん」
「もう体調は良いの?」
「うん」
何故か流れている嘘、俺はそれを訂正する気は無かった。心苦しくも無いし、訂正する理由もない。流れているなら流れているで、とことん利用してやろうと思ったのだ。
結局僕も、汚い人間だ。
俺が席に着いても、特に誰も何も言わない。
校庭では雪かきしている、多分、サッカー部だろうか。その奥では野球部がキャッチボールをしていた。
教室は賑やかなもので。そんな中でも慌ただしく化粧したり髪を巻いたりしている女子、今秋どこかに出かける計画を立てるグループ。部活の道具に手入れをしてる男子と、過ごし方は様々。
「何を見ているのかな?」
「えっと……白井君だっけ?」
「イエス。それで、何を見ているのかな?」
「みんな賑やかだなって」
「そりゃあ、今週で冬休みだから、短いけど盛り上がるものでありましょう」
「へぇ」
「反応薄っ。って、そんなものか。むしろ、転校してきたばかりだから実感も何もあったものじゃないか」
「まぁね。俺としてはクラスメイトの名前くらい覚えてから休みたいものだよ」
「ははっ、違いない。転校してすぐに長期休みで、久々に学校に来たら忘れられてるってパターンも君にとってはあり得る事か」
すんなりと、口から「名前を覚えて」と出てきたこと。それが驚きだった。何を思ったのだろう。俺は。
はぁ。
俺は何がしたいのだろう。
改めて、校庭を見る。この学校の部活動は強制ではない。彼らがあそこにいるのは、様々な形があるだろうけど、好きで所属しているはずだ。
憧れではない、疑問だ。
彼らに俺が向ける感情は、疑問だ。
でも俺が抱いている疑問を、上手く言葉にすることなんてできなかった。めんどくさい奴だ。
何で空は、こんなにも、どんな時でも、俺には綺麗だと思わせる。
「ねぇ、清明さん」
ここにはいないはずの声が、聞こえる。
会いたい。
あの子に。会いたい。
「へぇ、弁当派なんだね」
「そういう君こそ、足りるの?」
「小食なもので」
「というか、何で今日に限って俺と昼休みを共にしようと思ったんだ?」
「そりゃあ、お前、全然誰にも寄って行かないじゃん?」
む、この卵焼き、美味しい。
「だとしたらまぁ、気になるわけよ」
焼き加減が絶妙だな。これ。
「おい……聞いているのか?」
「うん。転校して早々、既に出来上がっている関係に突っ込んでいく勇気とか、無いから」
「あー。そうだな。確かにそれはそうだ」
「君はそう見えないけど」
俺は時計を見る。昼休みもすぐに終わる。この学校の昼休みは本当に短い。弁当食ったらそれで終わり。それくらいしか時間は無い。
だからまぁ、そこまで会話の時間も無いわけで。
「次、体育だっけ?」
「あぁ。あっ、やべっ、着替えなきゃな」
「うん」
だから彼とのちょっとした交流もそれでお開きになる。
午後の授業、教室にいる四十人程度の頭上に、眠気を誘う装置があるかの如く、体育が終わってからの二コマ分の授業は、どこか弛緩した雰囲気の中で行われた。
俺もその例外ではなく、気がつけば授業の終わりを告げる号令がかけられ、慌てて立ち上がり、そして帰る。
帰ろうとは思ったけど、足は病院の方に向いた。マイに会いたいという自分でも理解できない、そんな衝動があったからだ。
その衝動に、抗い難い衝動に駆られて、俺は彼女の姿を探し、そして、彼女の病室まで来た。
ノックをする。耳を澄ます。
「どうぞ~」
すぐに、そんな緩い声が聞こえた。その承諾の返事が終わるか終わらないか、そんなタイミングで俺は扉を開く。けれどその事に対して彼女は別に何の反応も示す事無く、いつものようにベッドの上でニコニコと笑っていた。
「あっ、清明さん、こんにちは」
俺はそこで、お見舞いに来たのに、何も持参していないことに気づいた。俺は部屋の扉を閉めた。
「ちょっとー! 部屋を間違えたみたいな反応しないでよ!」
そしてすぐに呼び戻された。
「それでは改めて。こんにちは」
「こんにちは」
挨拶を返せば満足気に頷く。
「それで、今日はどうしたのかな?」
そう聞かれて、俺は答えられなかつた。
だって理由がただ会いたかっただけだから。
「体調は、どうかなぁって」
「悪いよ。とっても悪い」
彼女はにこりと笑って見せながらそう答えた。
「そう」
何て返せば良いのだろう。わからない。
「まぁ、でも。それが普通になっちゃったから。いつも通りというのが、正しいかな」
マイは窓の外に目を向ける。
「いつも表情を変えてくれる。そんなんだったら、私も楽しめるのに」
「それは結構きついと思うけど」
「ふふっ、それもそうね」
あぁ、そうだ。この表情が見たかった。
無邪気に、何の憂いも感じさせない。そんな笑顔。
「マイは……何で、歩く練習していたの?」
『また誤魔化した』
自分の中の自分が、嘲笑うように同時に言った。
「なんでって、歩けた方が良いじゃん。意外と不便なんだよねぇ、車椅子」
「見るからに不便だけど」
マイはじっと目を見つめて来る。見つめ返そうとマイの目を見るけど。吸い込まれる、そんな考えが頭の中にちらりと浮かび、慌てて目を逸らした。
深い目。表現として聞いたことはあったけど、そう思える目を見たのは、初めてだった。
「どうかした?」
「それはこっちが聞きたいよ」
「うん。ごめん。何か、言いたいことを言えてなさそうだから、言えば良いのにって思って」
「……別に」
マイは唐突にベッドから下りようと動き始めたから、それを手伝った。
「あー。トイレ行きたいだけだから、ここで待ってて。流石に、手伝ってもらうわけにはいかないし」
「わかった」
病室の外へ消えるマイを見送る。手持無沙汰になってしまった。
部屋を見回して、改めてその殺風景さを実感した。
「はぁ」
今でも、思い出せる。
マイは、手すりにつかまり、必死になって足を前に出していた。彼女は、その先に何を求めていたのだろう。
……母さんは、ある時から、満足したように毎日を穏やかに、必死に退院しようとするのを辞めた。
「違う!」
「うわっ、びっくりした」
「えっ?」
「あれっ? どなた様ですか? 海のお友達? でも、見たこと無い顔ですねぇ」
若い女性がいつの間にか入って来ていた。
「あっ、えっ……」
言葉が出てこない。こんなところで人間関係の経験値不足を発揮することになるとは。
「あれ? そもそも海は?」
「マイは、トイレです」
「あら、そうなのね」
相手の女性も冷静さを取り戻したようで、会話が成立するようになる。
「あなたは?」
「俺は矢田目清明です」
「清明君ですね。了解です」
そしてベッドのわきの机の前に座ると、そのままリンゴの皮を剥き始めた。
「あの……」
「あなたリンゴ好き? マイは好きなんだけど。あなたも食べるかしら?」
「いえ、お構いなく」
うさぎに生まれ変わったリンゴが皿の上に並んでいく。シャリシャリと子気味の良い音が病室に微かに響く。
シャリシャリと。
その女性はマイの母親らしい。らしいというのは、見た目がどう見ても高校生の娘がいる母親に見えないからだ。
二十代とかそこらだろ、この人。
「お母さん、来るなんて聞いてないんだけど」
「母が娘に会いに来るのに都合とかあるのかしら?」
「ありますー」
会話も、親子というより姉妹とかの方が近いと思う。
「全くもう」
マイがむくれる。その姿は可愛いと思った。年相応で、儚さとか、薄さとか、そういうマイの持っていた雰囲気を忘れさせた。
思わず、微笑ましく眺めている自分がいた。
「清明君、リンゴはいるかしら?」
「……いただきます」