四 冷たい雪と温かさ。
病院を出ると、ぼた雪が降っていた。傘を持っていないから困った。
仕方ないから濡れて帰ろう。旅館に帰ったらドライヤーだな。
結局、旅館を手伝った経験がない。罪悪感が段々薄れて行くのを感じる。それは良くないけど、でも、現状を許しつつある自分がいる。良くないと言い聞かせつつも、それでも周りの大人たちに許されてしまっている現状。
服の隙間から雪が入り込んで、物凄く気持ちが悪い。冷たいし濡れる。折りたたみ傘の一本くらい持ってくれば良かった。
旅館に着く頃にはすっかり濡れ鼠。
俺の姿を見た乃安さんがタオルを持ってきてくれた。
コートはヒータの前にぶら下げて、服は着替えた。
「はい、ココア。飲むでしょ?」
「いただきます」
乃安さんが俺の目の前に座った。何か言いたげな目でじっと見ている。
ヤバいと思った。俺が授業をサボった事バレたのか。
「どうしたのですか?」
先制を打つ。怒られるのなら、さっさと怒られたい。
「んー。何だかなぁって。私としては、何があったのか教えて欲しいなぁって」
意地悪だ。乃安さんは。
乃安さんはニコニコと待っている。僕が話すのを。
「……最近、突然、眠くなります」
俺は。嘘を吐けない人間みたいだ。
いくらでも誤魔化すことはできたはずだ。でも、何で、話してしまったのだろう。
乃安さんの不思議な空気にやられたのだろう。
「たまに。抗い難い眠気で、今日も廊下で寝てしまい。授業が始まっていました。今更入りづらいし、遅刻の言い訳が廊下で寝ていたなんて、言いづらいので、サボってしまいました」
「そうなんだ。うんうん」
乃安さんはどうしてかウィンクして答えた。
「正直に言ってくれて嬉しいよ。お姉さんだからね、許しましょう。でもね、私ぶっちゃけて言うと、君に何かがあったのはわかったけど、何があったかまで知らなかったよ」
「自爆ですか」
「自爆だね。そうするように仕向けはしたけど」
得意げに笑う。この人には敵わないことを思い知らされる。
誤魔化すように湯呑に口を付けた。
「君は優しいから。それと悪い人に成りきれない人だから。ちょっと罪悪感をくすぐるように仕向ければ、ね?」
「酷い人です」
「あはは」
誤魔化すように笑う乃安さんを軽く睨む。
でも、別に怒ってはいない。
横になった。体が温まってきたことに気づいた。それと、俺は体が先ほどまで冷えていたことに気づいた。
冬は好きだ。どこか優しいから。
「はい、ココアおかわり」
「欲しいとは言っていません」
「でも、目が欲してたもん」
「何ですかそれ?」
「何だろうね」
飄々としていて、どこか冷たくて、でも優しい人。それが乃安さんだ。
でも、そんな定義付けも、彼女にとっては何の意味も無いのだろうなと、直感もしている。
温かい、優しい味だ。
「そうだ。今日弥助さん病院に行っているんだよね。節乃さんも付き添い。後で迎えに行くんだけど、一緒に来る?」
「良いです」
「ふぅん。会いたくないの? マイちゃんに」
「今日はもう良いです」
「もうって事は、さっきまで会ってたんだ」
また自爆した。
乃安さんがとてもニヤニヤしていた。思わずため息を吐いた。
「酷い人です」
そう呟くことが精一杯の抵抗だった。
「放っておけない人だね、君は」
ウィンクと共に、悪びれることなくそう言って乃安さんは出て行った。
ココアは早めにカップを洗わないと駄目だけど、体を動かす気にならなかった。体に水がしみ込んだかのように、動かなかった。重かった。
その日、俺は熱を出した。
「はい、あーん」
「自分で、食べられます」
差し出される蓮華を思わず疎ましく眺める。
「良いから、栄養を取りなさい」
「……はい」
別に、具合が悪いからと食欲が落ちることは無い、そんな僕の性質を初めてありがたく思った。
転校早々、授業をサボるだけでなく、休むとはな。
はぁ。
旅館の天井の木目を眺める。綺麗だ。よく手入れされている。
「乃安さん、仕事は良いのですか?」
「シーズンじゃないからねー、予約が無いんだよー。たまにおじいさんたちが宴会に来るけど」
「そうですか」
疲れてきたから横になる。瞼が重くなってくる。氷枕、気持ちが良い。
水分補給はしっかりしろと、弥助さんが大量にスポーツドリンクを買ってきた。そして乃安さんに飲まされた。
「素直になりなよ。まぁ良いけど。ほら、寝なさい」
「はい」
その言葉には甘えることにした。僕は寝る。眠気に任せて。改めて目を閉じる。素直になりなさいという言葉に従ったからか、さっき瞼を閉じた時よりも強い眠気に襲われる。心地が良い。
寝苦しさで目が覚めた。汗だくだった。氷枕は冷たくて、交換されていることがわかった。
体を起こす。時計をちらりと見る。そして窓の方を見る。
外は雪が降って行って、時間なんてわからなかったけど、時計は夕方である事を教えてくれる。
「はぁ」
学校、行き辛くなってきたな。
何て言われるのだろう。
まぁ、良いや。他人何て、どうでも、良い。
「一人なんて、当たり前だろ」
自分に言い聞かせる。
母さんが僕のために働いていて、ほぼほぼ一人暮らしで。たまに帰ってくる程度だったのに。
「はぁ」
立ち上がる。体に怠さは無かった。
「あっ、起きちゃ駄目だよ。まだ休んでいなさい」
「大丈夫ですよ」
「いいえ。薬が効いているだけかもしれないし」
「そうですかね」
沈黙が流れる。乃安さんは布団のシーツを交換していた。
「それくらい、自分でやりますよ」
「良いの。甘えなさい。具合が悪い時くらい」
「旅館の仕事、手伝わせてくれませんし」
「そ、それは、気にしないで……えへっ」
片目を閉じて、あぁ、これは美人とか言われるわと思わされる笑顔を見せて来る。
誤魔化されることにした。
「はぁ」
またため息。自分でも呆れて来る。ため息が多すぎるな。
無意識のうちに、布団に横になった。一人でいる時は、大抵横になっていたから、その癖が出たんだ。でも、乃安さんにはそう映らなかったみたいで、素直でよろしい。とかそんな事を目で言っていてる気がした。
「あっ、そうそう、プリント届けてくれた人がいてさ」
「誰ですか?」
「南さん。ほら、一緒に行った喫茶店の娘さんだよ」
「あっ、あの人ですか」
「知ってるの? というか、同じクラスだね。じゃなかったら届けに来ないよね……」
ウィンク一つ残して乃安さんは今度こそ部屋を出て行った。机の上を確認すると、確かに封筒にまとめられたプリントの束が目に入った。中身は、授業で使った物、連絡事項が書かれたもの、色々だ。
布団に横たわって耳を澄ませる。何も聞こえない。
ストーブは消されても、旅館のヒーターは稼働していて、部屋の温度は一定に保たれている。だから、寒さなんて感じないし、湯たんぽや電気毛布がむしろ暑かった。
「汗もかくよな、そりゃ」
せめて汗だけは流したくて、部屋の備え付けの浴室でシャワーだけでも浴びることにした。
「ふわぁ」
今日一日寝ていたけど、俺の体は寝足りないらしく、欠伸が出た。
明日には学校に行けるだろう。そう思っていたけど、次の日になっても熱は下がらなかった。
「ふんふんふーん」
「なんで鼻歌交じりなのですか?」
「車の運転は楽しいからねぇ」
乃安さんに連れられ病院に行くことになった。
最近、病院に行く機会が多いなと思いながら俺はすっかり見慣れてしまった入口を潜った。
診察を待っている間、することが無くてひたすら暇で、具合も悪いから本を読んでも頭に入ってこない。
けれどなかなか順番は訪れない。結構待っている人が多いのだろうと思ったけど、辺りを見回してもお年寄りが十人程度いるくらい。大きな病院ならすぐに回ってくるはずだ。
「お年寄りは話好きだからねぇ」
乃安さんはのほほんとそう言う。
「きついなら、膝貸すよ?」
「結構です」
ここでそんな風に寝るなんて、あの車椅子の子、マイがいつ通るかわからない状況でそんな無謀な事ができるわけ無かった。
「残念」
乃安さんは舌を出してウィンク。何でこの人はいつも余裕を醸し出せるんだ。
また、十分ほど時間が経ったのだろうか。不意に乃安さんに手を引かれた。
「ほら、呼ばれたよ」
「えっ、はい」
ボーっとしていたようで、呼ばれたことに気づかなかった。
白髪交じりの中年の人が診察室で待っていた。
質問されたことも上の空で答えて、採血とか、何か色々されて、そして。
どうしてか僕は入院することになった。
「あはは、荷物後で持ってくるよ」
「すいません」
熱の原因は不明。インフルエンザでは無いけど、インフルエンザっぽいとのこと。はっきりしろや。
口の中が甘い。点滴のせいだ。
やる事が無くて、枕に頭を預けて点滴がぽたぽたと落ちる様子を眺めることに注力する。そうすればきっと眠くなって、すぐに退院できる気がしたから。
病院は嫌いだ。母さんを思い出すから。
病室の扉が開かれた。六人部屋の一番窓際が僕のベッドだから、どんな人が北鎌ではわからないけど、どうせ関係の無い人だから、僕は点滴を眺めるのをやめない。
そうしていたら、唐突にカーテンが開かれた。
「こんにちは、清明さん」
「……マイ……何でここに」
「先ほど、喫茶店の方で乃安さんに会いまして、聞きました。きっと大変退屈しているだろうから会いに行ってあげて欲しいと言われまして」
「無理に来なくても良いのに」
「それは無理な相談です。退屈しているのは私も同じですから」
口に手を当てて上品に笑う。そんな大人びた一面と、少女のような一面がころころ切り替わるから、僕は混乱する。
「熱があってね」
「とは言いますけど、眠くないから寝るのに困っている感じじゃないですか」
「よくわかるね」
「わかりますとも。それでさ、聞いてよ、さっき凄い客がいてさ、車いすの子を働かせるとは、何たることだとか。障害者雇用促進法があるような時代なのにね」
口調が急に変わる。
その変化に、僕はどうにかついて行った。
「へぇ。まぁ、病院だし」
「関係ないよ、そんなこと。私は、残りの人生をやりたいことに費やすって決めているんだ。あんな名前も知らない人に邪魔されて堪るものですか」
マイはぼやく。つまらなさそうに。
「具体的に、やりたい事って?」
「海が見たい」
「そこから見えるよ」
「ちがーう。間近で見たいの」
「この町に住んでいるなら、見に行けたと思うけど」
「行った事無いよ」
「なんで?」
「私、昔から体弱くて、小学生の頃はずっと入院してたし、中学校も休みがちだったし。高校も、まともに通えてないし。折角受験合格したのにな」
僕は何も言えなくなって、窓の方を見る。
海は、ここからでもその存在感を強く感じさせる。でも、確かに、どこかそれは他人事だった。
あの日、乃安さんに連れられて見た海は、もっと、包み込むような、飲み込むような偉大さを感じさせた。
「そっか」
「ん? どうしたの?」
「いや」
俺は納得した。それだけだ。
枕にまた頭を預けると、彼女が少しだけ笑った気がした。
「では、おやすみなさいませ」
車いすに乗った小さな背が遠ざかって行く。俺は、目を閉じてただじっとしていた。眠気は訪れない。
しばらくして、乃安さんが来た。気づいたけど、寝たふりを続けた。
「ふ~ん。そっか~」
頬をツンツンと突く指を感じる。そして額に手が乗せられる。心地の良い冷たさだ。
「熱、まだあるね」
どうせ明日には下がっている。
「お大事に。ご飯、ちゃんと食べるんだよ」
どうせ味が薄くて消化に良さそうな料理が出てくるよ。
「じゃあ、また来るね」
そんな無理して構わなくて良いのに。
俺は一人で良い。
一人で良いのに。
「どうしてそんなに構うんだよ」
「あは、やっぱり起きてた」
「乃安さん」
「私の先輩に似てるから」
「そんな理由ですか?」
「大好きな先輩だから、そんな理由でも、大事な理由」
体を起こす。目を閉じていただけなのに、少しだけ楽になった気がする。
「よくわかりません」
俺は正直な感想を言った。乃安さんは別に気にしていないようで、点滴を見て、頷いて、それから既に服が入っている洗濯ネットを取り出した。
「これ、着替えだから」
「はい」
「後で体拭いてあげる」
「自分でできます」
「背中とか、無理でしょ」
「……風呂で背中を洗う要領で」
「点滴付けたまま?」
痛い所を容赦なく突いてくる人だった。
「何とかなりますよ」
俺はまた横になる。少しだけ疲れたから。
病院すら一人で来れないガキが、何を言っているのだろうか。自分でもそう思う。けど、こればかりは意地だった。
何の意地なのだろう。自分でもよくわからないのに、何を反発しているのだろう。馬鹿だ。馬鹿だ。
乃安さんがじーっとこちらを見つめる視線を感じる。僕が一番苦手な事、それがわかっている。なんでこんな短期間にこんなにも弄ばれなければならないのだろう。
「なんですか」
背中を向けながらそう聞くと。
「可愛いなぁって」
「病院を出てお手元のスマホで猫とでも検索すれば良いじゃないですか。可愛いの具現化がいっぱい出てきますよ」
「そうじゃないんだよなぁ」
小さく笑う声が聞こえる。
怒る気にもならない。ただ、疲れる。
「ほら、大人しく背中を出しなさい」
容赦なく布団をはぎ取られ、背中が優しく拭かれた。結構汗をかいてたみたいで、下着濡れていることに驚いた。
「……ありがとうございます」
「うん。素直でよろしい」
素直というより、言うべきだから言っただけなんだけど。
「あっ、そうそう。さっき聞いた話なんだけど、この病院、座敷童が出るんだって」
そんな、奇妙な事というか、首を捻りたくなるようなそんな噂話を残して、乃安さんが帰った。入れ替わるように夕飯が運ばれてきた。
「薄味だなぁ」
それに、量も、お腹に溜まるほどでは無い。
そして夜中、何故か目が覚めた。
「トイレ行きたい」
そう思い、消灯された病院の暗い廊下に出た。
すぐ近くにあったトイレで用を済ませ、ふと、妙な音に気付いた。
ひた、ひた、ひた。
最初は、看護師さんかと思ったけど、よく聞いたら、スリッパの音でも、普通の靴の音でもない。はだしの足音だ。えっ? 乃安さんが教えてくれた噂話が、瞬時に頭をよぎった。
好奇心と恐怖心が闘い、病室にもその音の発生源の方にも動けない。ただ、頭の中がリスクとリターンを測る事に忙しく働く。
気がつけば、俺の足は、ひた、ひた、と音のなる方へ歩いていた。点滴台を引く音がやけに響いて聞こえた。
巡回に来た看護師さんに見つかればすぐに連れ戻されるだろうな。
そして、それを見つけた。
「車椅子?」
そう、無人の車椅子が廊下に放置されていた。
そして、その先を見る。
廊下の手すりにつかまり、引きずるように歩く儚い背中があった。
「何してるの?」
「えっ?」
マイがいた。
「もう消灯時間だよ」
「お互い様だろ」
車いすをマイの方に持って行く。マイは疲れたように座り込んだ。
「えへへ、歩く練習してたんだ」
子どものように笑いながら、ちょっと自慢気にマイは言う。
「それで? 君は何してたの?」
「トイレに起きた」
「ふぅん。知らないんだ。この病院にはね、夜中になるとひた、ひた、ひたって裸足の子どもの足音が……」
「それ、どう考えても君でしょ」
「あれま」