三 少女は微笑む。
今日の最後の授業は担任の授業、古典だった。なぜ、古典の先生なのにジャージなのだろう。まぁ良いや。
「あぁ、そうだ。南!」
「はい」
「マイにプリント持って行ってくれ」
「わかりました」
「ついでに、矢田目も連れて行って紹介してやってくれ」
「はい。そんなわけだけど、矢田目君、予定、空いてる?」
「まぁ、連絡すれば」
「おっけ。じゃあ、今日行こっか」
「はい、なので、遅くなります」
『うん、弥助さんと節乃さんに伝えとく』
連絡はあっさり済んだ。
「どんな人なの? 今から会う人、マイって人」
「大人しい良い子だよ。いや、大人しいのかな? 病人にしては元気か」
南さんがこれから行くというのは病院らしい。ずっと入院している人に定期的にプリントを届ける役割を担っているそうだ。
「四月からずっと。彼女の高校生活はずっと始まってすらいないのに、時間ばかりが進んでいく」
思わず、マフラーで口元を隠した。どんな表情をすれば良いかわからなかったから。
「ねぇ、清明君」
「なに?」
「仲良くしてあげて」
「はい」
仲良くか。それはこれから会う人次第だと思うけど。
「大丈夫、君なら大丈夫だと思うから」
根拠のないそんな後押しも、南さんが取り持ってくれるならという条件付きで黙って受け止めた。
一日ぶりの病院。当然、何も変わっていない。平日の夕方だからか、そんなに人はいない。
南さんに連れられ、受付で手続きをして、そのまま案内される形で病院の中を歩いた。そして、一つの病室の前に止まる。
「ここ」
「個人用ですか」
「そう。彼女の家、お金持ちだから」
顎をクイっと動かして、先に行けと合図する。僕は首を横に振る。しょうがないなと苦笑いして、扉がガラリと開かれた。
「マイ、おひさ」
「南さん。入るならノックくらいしてください」
「あら、ごめんなさい」
その人は、ベッドに座って、本を読んでいた。
その人は、僕と会ったことがある人だった。
「また来てくださったのですね。まさか、同じ高校の生徒だったとは。木下海です。気軽に、マイと呼んでください」
薄い、儚い。でも、美しい。
僕はその子に、そんな印象を抱いた。
「何しているの? 座りなよ」
「あっ、あぁ。矢田目、清明です」
「よろしく。清明さん」
ほぼ初対面でも、緊張させない穏やかさがあった。包み込むような優しい微笑みがあった。それでも、すぐにでも消えてしまいそうな、だから、俺は目を離せなかった。
「仲良くしてくれたら嬉しいです。私、高校には行けていませんから。留年確定ですね。転校生という事でしょうか? どんなところから来たのですか?」
「普通だよ。特徴も、特段、話すことも無いような場所」
「素敵ですね」
素っ気ない答えだと思ったのに、お気に召したようで、クスクスと笑ってくれる。
「じゃあ、私帰るから、というか、部活に行くから」
「そうですか。また、いらしてくださいね」
「うん」
南さんが帰ると、病室には、僕とマイの二人になる。
当たり前だけど、それを意識すると、気恥ずかしい。だけど、彼女は気にしていないのか、むしろ、興味津々で何かを期待する目で、俺を見ている。
「あの」
「はい」
「ちょっと手伝ってもらえますか? 私を車いすに乗せてください」
「あっ、うん」
母さんのお世話をしていたこともあって、俺は車いすの操作は慣れていた。
「ナビは任せてください」
彼女の言う通りの道を行く。病院の中を進んでいく。一体どこに連れて行くというのか。まぁ良いや。とことん付き合おう。この時の俺はどうかしていて、旅館の事なんて頭から吹っ飛んでいた。
「あのさ、木下さん」
「マイと呼んでください。皆様、そう呼びます」
「……マイさん」
「マイです」
「……マイ」
ようやく決心がついて、そう呼ぶと、マイは眩しい笑顔を見せてくれる。
「はい」
そこだけが、一瞬明るくなったような、そんな錯覚を見た。
「それでさ、どこに連れて行くの?」
「私のお気に入りの場所です」
指示通りに車いすを操作して、彼女の言うお気に入りの場所へ向かう。エレベーターに乗って、暗い廊下を進む。そして、その先、光が差し込む場所があって、そして。
「止まって」
彼女はそう言った。
「ここ。私のお気に入りの場所。どうかな? 綺麗でしょ」
窓から夕日が差し込んでいた。海を赤く染めて照らしていた。綺麗だったけど、それだけだった。
そこから見える海は絵のようだった。写真のようだった。この町に来て最初の日に見た。あの海の、海そのものの感情が、感じられなかった。
だから、綺麗と言う言葉には頷けたけど、でも、綺麗だ、それだけだった。
「あんま、気に入ってくれなかったみたいだね」
彼女には、それがお見通しのようだった。
「でも、綺麗だとは、思う」
「うん。ありがと」
マイは、自分で操作して、窓際まで行った。僕はその様子をただ眺めていた。
「ねぇ、私の事、ちゃんと見て。そして、お友達になって」
俺は、思わず目を逸らした。辛かったから。彼女を見るのが。
視線を感じる。圧のある視線だ。彼女が見苦しいわけでも、醜いわけでも無い。ただ、辛いんだ。
彼女は、もうすぐ死ぬ人の雰囲気をまとっているから。僕の母さんもまとっていた、独特な雰囲気だ。自分で死ぬのがわかっている人の雰囲気だ。
「ねぇ、見てよ」
俯く俺の視界に入って来たのは、また、眩しい笑顔だった。
両手に、顔が挟まれた。目を逸らせなかった。
「どう? 私、自分でも結構可愛い方だと思うんだ」
「そうだね」
整った顔立ちだとは思う。
細い体はあまりにも頼りない。ピンク色のパジャマでは隠し切れない弱々しい、けど、芯のある雰囲気も感じだ。
長い黒髪は、細くて、無邪気な表情は、眺めているだけで、思わず手を伸ばしたくなってしまった。
頬に手を添えても、抵抗も、嫌な顔もされなかった。
「私の姿、ちゃんと見てる?」
「見せられてる」
「それで良いよ。今は。わざわざ会いに来てくれた人には、私の事、忘れないようにしてほしいから。酷いでしょ?」
「そうだね」
「そこは、同意して欲しくないかな」
さっぱりとした、憂いも無い、子どものような、純粋な笑顔だった。
「ただいま戻りました」
「やぁ、おかえり。晩御飯食べる?」
「いただきます」
裏口から入ると、乃安さんが大きなゴミ袋をゴミ庫に放り込んでいた。
「ふぅ、じゃあ、手洗ってうがいして。寒かったでしょ」
「いえ、平気です」
自分に宛がわれた部屋は、今日も綺麗に掃除されていた。元々、俺の荷物は少ないが、それでも、どんなに使っても、俺の味が出ない部屋。あぁ、あの子も学校に行ったらこんな気分になるのかな。
ここに棲み付いて、そんなに時間が経ってないというのに、何を言っているんだ。
机に勉強道具を広げながら、俺は明日も行こう、と思った。
あの笑顔が、また見たいと思った。
「また寝てる……どうしてあげよう」
「あれ……?」
体を起こして、頭を振る。
「寝てました?」
「うん」
乃安さんは仕事着を脱いで、ラフな格好で僕の横に座っていた。
「今日も勉強見てあげようと思ったんだけど。疲れてる?」
「平気です」
頭が痛いわけでも、調子が悪いわけでも無い。だから、平気だ。
「……ふぅん。まぁ、良いや。じゃあ、今日は、古典やろっか」
「はい」
古典の教科書は、あれ、無い。
「何やっているの? ほら、これで良いよ」
「でも、テスト……」
「まずは、文法覚えよっか。動詞の活用と助動詞、助詞。これだね。こればかりは、暗記してね」
「はい」
乃安さんが用意したそれを見る。古典の教科書についているのをよく見る、活用表、仕事中にこれを作ったのかと思うと、しかも手書きで。恐ろしい。
「これ、覚えてなきゃ話にならないからね」
「はい」
「あと、古文単語も」
「はい」
単語帳は、鞄に入っていた。うん。
「本番の文章が初見の可能性だってあるんだから。確かに、いろんな文章に触れておくのは大事だよ、もしかしたらラッキーで読んだことある文章が出るかもしれないけど。清明君、進学?」
「とりあえずは」
そう、とりあえずは。やりたいこと無いから、四年間を買う予定だ。
「うん。だから、任せて。手伝ってあげるから、お勉強」
乃安さんは頬杖をついて、ぼくが勉強しているところを眺めている。やりづらい。
動詞と助動詞は覚えているけど、助詞は確かに怪しい。はぁ、覚える事多すぎるなぁ、何でもかんでも。
「役に立たないと思っている?」
「まぁ、正直」
「でもさ、役に立つことしかしないってさ、寂しくない? それに、こういうのも発想の源泉になるし、それに、使えねぇマニュアル野郎になるよ、役に立つことしかしないって」
にこっと笑ってさらっと暴言を吐く。
「ほらほら、頑張って」
ため息をついた。
冬は、嫌いだ。温かさが際立つから。
目が覚めた。冷たいし寒い。何でだ。
頭を振る。学校の廊下。そういえば、強烈に眠かったのは覚えている。あぁ、またか。最近、あまりなかったのに。
唐突に強烈な眠気に襲われる体験。授業中とかこうして歩いている時とか。困ったものだと思う。
授業は始まっていた。今から行ってクラスの注目を集めるか、それともこのままバックレるか悩んだ。
バックレよう。
結論を出すまでに、それほど時間はかからなかった。
今日最後の授業だし、見つからないように帰ろう。そう思ったけど、よく考えれば、旅館に帰れば弥助さんや節乃さん、乃安さんに何て言われることやら。
どこかで時間を潰すのもなぁ。この町の事なんてよく知らない。
いや、一か所知っている場所があるじゃないか。
えっ、行くの? いや、行こう。行ってしまおう。
俺は駆け出した。
「もう、来ないと思っていた。でも、来てくれたことは歓迎するよ」
マイは、喫茶店にいた。看護師さんが教えてくれた。
「来て欲しくなかった?」
「全然。驚いただけ。だって、口ではまた会おうねって言っても、全く来ない人ばかりだから。そりゃそうだよね。入学してすぐだもん。私が入院したの」
にこっと笑う。その顔に俺はぎゅっと胸が締まるような感覚を覚えた。同情しているのか? 僕は。この子に。
同情なんて、一番いらない物なのに。
息を吐いて吸った。でも失敗した。新鮮な空気を取り込もうとしたのに、余計に胸が詰まっただけだった。コーヒーの香りすら、今の僕には苦しい。
「マイ」
「何?」
「マイは、どうしてここで働くんだ?」
「恩返しかな。少しでも。こんな私の面倒をずっと見てくれる、この病院に」
「そう」
車いすが背を向けて遠ざかって行く。
しばらくして、コーヒーを持って再び僕の前に来た。
「どうぞ」
「注文してないよ」
「私の奢り。お小遣いなんて、貰っても使わないもん。弥助さんには悪いけど」
「病院の売店でお菓子とかは?」
「ママが買ってくれるし。そもそも、病人だもん、そこら辺まで管理されちゃってるから、あまり食べないんだよね」
「そっか」
気まずいと一瞬思ったけど、マイは柔らかく笑って背を向けて仕事に戻って行った。
苦味の強いコーヒーだ。正直、美味しいとは思わない。
頭の中に、マイから貰った栞の事が頭に浮かんだ。あれは、今は部屋の机の上だ。本を読む習慣なんて無いから、何に使うか悩んでいた所だ。
時計を見た。そろそろ放課後だ。俺は怒られるのだろうか。
コーヒーを飲み終えて外に出た。
「お待ちくださいな」
「どうかした?」
「暇そうなので、私を病室まで届けていただけますか?」
考える。頷く。
「良いよ、そのくらい」
「ありがとうございます」
隠そうとしない嬉しさを表現して、彼女は僕の前に車いすで移動する。
「では、お願いしますね」
俺は車いすを押した。
エレベーターまで連れて行って乗り込む。
「手慣れているね。初めて押してもらった時も思ったけど」
「そうかな?」
「そうだよ」
「押したことはあるけど。そっか、そう言ってもらえるなら、嬉しいかな」
彼女を病室まで送り届けた。俺はそのまま背を向ける。そのまま帰ろうと思ったら、服の袖口がグッと掴まれた。
「白状、していただけますよね? 何でこの時間に、あなたがいるのか」
「白状? 別に、何も無いよ」
「おかしいですね……この時間はまだ放課後にようやく入ったくらいだと思ったのですが」
「気のせいだ」
俺は振り払って帰ろうとするが、意外なことにマイの手は離れない。俺が手をぬいているのか、それとも、マイの力が思いのほか強いのか。
「誤魔化そうとしても無駄ですよ。あなたがそんな風に笑う時は嘘ですから」
「会ったばかりだぞ、俺ら。なんでそんな風に言える」
「そうですね。それは……勘ですね。女の」
思わずため息を吐いた。何だそりゃ。
「帰る」
「駄目です」
俺は手を振りほどいて扉をぴしゃりと閉めた。
ため息を吐いた。彼女は追って来ようとはしなかった。それが逆に気になってしまう。けど、それもまた彼女の策略だと思うと、戻るのも癪だった。
「はぁ」
でも、俺の足はマイの病室の方を向いた。
それは、ちょっとした情けなのか。
俺の直感は、マイは先長くないと言っている。
でも、だからこそ、マイの言う事を少しでも聞こうと思えた。
思い出すのは今年の夏の事。母さんの元に二人の大学生がよく訪れるようになった。俺はその二人を避けるようにしていたから、会う事は無かった。
あの二人が来ると、母さんはいつも嬉しそうだった。
「はぁ」
またため息を吐く。俺も弱いなぁ。
扉をノックする。
「はい。どうぞ」
すぐに、返事が来た。扉を開ける。マイは、ベッドの上にいた。
「来ると思っていました。白状する気になりましたか?」
本当に困る。マイの、たまに見せる、どこか儚くて、美しくて、見ていて泣いてしまいそうになる、そんな雰囲気は。
「うん。なったよ。廊下で寝てたら授業始まってた」
「えぇ? 寒く無いのそれ?」
「床が冷たくて気持ちよくてさ」
思わず、素が出てしまう。そんな優しい雰囲気が。