十一 祈って願う。
この旅館の温泉は一応、従業員のお風呂としても利用されている。だから俺もここに来てからは温泉に毎日浸かっている。ありがたみも薄れるというものだ。
でも今は、当たり前のことがどうしても愛おしくなる。
好きだと言った。
目に焼き付いたのは、悲し気に笑うマイの顔だ。
別れがあるとわかっているのに、どうして俺は好きになったんだ。
誰もいない温泉だから、なんて思いながら泳いでみる。浅いし、狭いし、蹴伸び一回で端にすぐにたどり着く。
内風呂と露天風呂。いつも露天を使っている。寒い季節なのに、俺は俺がわからない。
好きだと言った。
どう取られたのだろう。マイは俺の言葉を、どう受け取ったのだろう。
病院に送り届けるまで、俺は何も話せなかった。決して、嫌な気持ちにはさせていないと思うけど。
明日会いに行けるだろうか、俺は。行きたいな。会いに。
そろそろ、ぽかぽか温まって来た。
「もう出られるのですか?」
「陽菜さん?」
「はい」
「何かあるのですか?」
「ここに残られるのですね」
そういえば、俺はここに残る旨を、陽菜さんに伝えていなかった。
「はい」
「たまには会いに来ますから。何かあったら連絡ください」
「……ありがとうございます」
残念とか、そういう感情を微塵も感じさせなかった。
この人はとても優しい人だ。やっぱり。この人の言葉は、いつでも本気だと思わせる。本気で、俺のことを心配している。
お風呂で温まった体のさらに奥が温まるのを感じた。じんわりと広がる、そんな温もりだ。
「あれ?」
「どうかされましたか?」
「いえ」
ぽろっと目から何かが零れた。
「なんでもありません」
頭を振る。お風呂に入っていたんだ、水滴の一つくらい、落ちてくるだろう。
タオルで頭を拭いてドライヤーをすればやっぱり何も無い。俺は大丈夫だ。大丈夫だ。
明日、ちゃんと行こう。会いに行こう。強く自分に言い聞かせる。ここで引いたら駄目な気がしたから。
「なんか具合悪そうだね。帰ろうかな?」
「だめ」
来て早々、俺はマイに手を握られてどこかに行くことが許されなかった。
何を話すわけでも、何かするわけでもなく、ただ隣に座る事を求められた。
「膝貸す? 私手借りてるし」
「じゃあ、借りる」
遠慮なく、マイの膝を枕にする。すぐに頭の上に優しく手が置かれた。
「何なんだろうね、この気持ち。清明さんが来てくれて、とても安心しちゃった」
「うん」
俺もマイも、昨日の事を触れようとはしない。
それは決してマイナスの意味では無くて、むしろ、今この時を一秒でも全力で過ごしたい、過去に気持ちを向ける余裕はないという意味で。
それは俺もマイも、今を生きているという事だ。
なんて、都合よく解釈してみたけど、ぶっちゃけ、マイの答えを聞きたい。
「ちなみに……具合はどうなの?」
「大丈夫だよ。いつも通りの私。木下海です」
今頭の上でニコッと笑うマイが容易に想像できた。
顔をあげて見ようとして頭がグッと押さえつけられた。
「ダメでーす。見せませーん」
「なんで」
「んー? ほら、一度捕まえたら離したくないじゃん?」「よくわからない」
まぁ良いや。
マイが見せたくないと言うなら、無理に見ようとするのは、駄目だろう。
「マイ、俺、ここにいて良いの?」
「良いからこうして捕まえているんじゃん」
「良かった」
「変な事聞いて良い?」
「何?」
「私と出会えて、良かったって思える?」
「思うよ。当たり前じゃん」
頭に何か、温かい滴が降って来た感触がした。わざわざ確かめようとは思わなかった。気づかなかった事にしよう。
無理に見ようとするのは、駄目だろう。
きっと理由がある。マイはきっと、その時が来たら、教えてくれる。
旅館の仕事はわりと忙しい。
今日から営業を再開するとのことで、俺は早速仕事を覚えにかかった。とは言っても、流石に初日から予約は入っていない。だから今日は乃安さんが俺の教官だ。
「割と手慣れてるね、掃除」
「家事はやっていたので」
流石にこんな広い浴場を掃除したことは無いけど。バイトはしていたけど接客業を半年していた程度だ。
でも掃除って、ノッてくると凝り始めてしまうな。
お湯を全部抜いてぬめりを取って貯め直す。
「これだけ広いと銭湯としてもやって行けそうですね」
「ん? あー、持ち回りで、月一くらいで開放する日もあるよ」
「そうなんですか?」
「うん。ロビーに券売機あるよ」
中腰で仕事をしていると、気がついたら結構腰にくる。
体をほぐして掃除道具を片付けて、溜まっていく温泉を眺めながらしばらく休憩。
「どう? やっていけそう?」
「まだ初日なので、これからですよ」
「頼もしい。前向きだね」
「はい」
覚える事の量にくらっとは来たけど、一人で仕事するわけでは無い。覚えて行こう。そう、一人では無いんだ。
「明日は客室かなー。まだ予約来ないんだよねぇ。弥助さんの存在、大きかったんだよね……」
「有名、だったそうですね」
「うん。弟子とはいえ、クオリティは信用できないから」
調べてみたら、凄かった。有名ホテルの料理長を務め、コンテストとかで賞を貰い、その積み重ねがこの温泉街で開いた旅館だった。お客さんが安定してくる要因だった。
「節乃さんとの出会いもホテル時代だからね。そう聞いた」
「うん」
「どうすれば良いと思う?」
「わかりません」
「あはは、意地悪な質問だったね」
「乃安さん。清明さん。そろそろ昼食にしましょう」「はーい。先輩」
乃安さんは暗に勧めている。陽菜さん達とこの旅館を去る事を。これからどうなるかわからないから。
論理的に、冷静に考えれば、きっとそれは正しい。でも、正しいだけだ。俺がこの町にいたい理由には、これから会いに行くのだから。
今日はちゃんと聞きたい、マイの俺の気持ちに対する答え。
その勇気があれば。そうだ、ほんの少しの勇気だ。
勇気、勇気か。
「マイ?」
「うん?」
来るのには慣れたけど、ちゃんとノックして、返事をもらって入ると、何やら検査中だったみたいだ。
「入って良かったの?」
「良いよ、すぐに終わるし」
「はい、良いですよ」
本当にその通りで、看護師さんはすぐに出て行った。
はだけた服を直してマイは目で座るように促す。ていうか、そう、服がはだけていた。
「女の子がそんな簡単に肌を見せるな」
「なんかお父さんみたいなこと言うね。別に良いじゃん、もう誰かに披露する機会なんて無いし。病院の中だから生活は基本的に健康なんだよ、だから結構肌は綺麗だと思うけどなぁ」
そう言って手を掴んで自分の頬に持っていた。確かにすべすべで、柔らかくて、でも。
「清明さん、私の事好きって言ったじゃん。あれってあれでしょ、告白ってやつ。違うかな?」
純粋で真っ直ぐな、邪気の欠片も無い目が突き刺さる。
そうだ。と言いたい。いや、言え、うじうじするな。
「好きなものを好きと言えない世界なら、俺はいらない」
「おぉ、唐突にカッコいい」
「そうだ。俺は、マイが、好きだ」
よし、言った。言ってしまった。もう後戻りはできない。
告白なんて初めてだ。ここまで深く誰かを好きになったのも、初めてだ。ずっと、そんな余裕は無かったから。
「でも私死ぬよ。もうすぐ。いつかはわからないけど近いうちに」
「うん。わかっている」
わかっているのに、好きだって、思ってしまったんだ。
「思ってしまったんだよ」
「そう。ごめん。君が毎日来てくれるの、嬉しくてさ。私もわかっているのに、清明さんのこれからのこと、考えてなかった。辛いじゃん、仲良くなった人が死ぬって。麻痺してたんだよね、そこら辺の感覚。でも海を目の前にして、これ見るの最後なんだって思うと何か、私も辛くなってきてさ」
「良いんだよ。君の人生だ。俺の人生は、俺が、どうにかするさ」
俺だって、自分の気持ちでマイを縛ろうとしているようにだって、取れるんだから。
「それよりもさ、答え、聞かせてよ」
「答え?」
「告白には、答えが付き物じゃん」
マイの目を見た。マイも俺を見ていた。
「察してよ。ここまでしてくれる人を嫌いになれるわけ無いって」
「いや、好きだけどそういう目で見れないとかあるもんじゃない?」
「わからないよ。だって、普通の人間関係とか、あんまりしたことないし。だからさ。うん。はい。おわり」
「終わりって……」
「うるさい」
そっぽ向いて顔を伏せてしばらくこちらを見ようとはしなかった。
「なんか喋ってよ」
ようやくこちらを見て最初の一言がそれだった。
「んー? 俺は俺で楽しんでたけど」
「何を?」
「ずっと手、握ってるじゃん。女の子の手って柔らかいなって」
「変態」
「そりゃどうも」
「……なんか変わったね」
「何が?」
「前向きになった?」
「わからない」
意識したことなんてない。
マイには、前から結構素直に気持ちを向けられていたと思っているから。
「旅館の仕事手伝っているんでしょ?」
「まぁ。うん」
「大変?」
「いや」
「もっとリハビリして、一人で歩けるようになったら、私もやってみたいな」
えっ……? いや。
「そうだね。良いと思う。じゃあ、教えられるように俺も覚えるよ、頑張って」
「うん」
変わったのは、マイもじゃないか。
「そろそろ行くよ」
「うん。また来てよ。その……うん」
「わかった」
笑顔で手を振ってくれる。振り返す。それだけでも、ぽかぽかと温まってくる気がした。
「今年も終わるか……」
正月は祝えないけど、そこまで思い入れも無いから、良いかな。
陽菜さん達は正月明けに帰ると言っていた。
素直に空を見上げられるなら、それは心に余裕があるという事だ。何て言葉を俺は誰から受け取ったのだろう。
今の俺の目には、澄んだ冬の空が広く見える。
「君、矢田目君だよね」
「はい」
病院の廊下、マイの病室を目指して歩いていた俺を呼び止める人……あっ。
「確か、あの……」
「マイの主治医の白井です」
そうだ、あの時は必死過ぎて名前まで気にしていなかった。
「今木下さんは検査中だから。少し話さないか?」
「はい」
検査という言葉に少し身構える。俺には何の検査なのか、これクリアの頻度は普通なのかわからない。
でも、いや、主治医の人がこうして出歩いているんだ、悪いというわけでは無いのだろう。
それは喫茶店でコーヒーが二つ、テーブルに置かれるまで頭の中をぐるぐると否定と否定がぶつかり合っていた。
「どうなんですか? マイは」
「正直……春まではもたないでしょう」
奥歯を噛みしめた。ぎりっと音が鳴った。あらゆる衝動を堪えた。
「外出許可も、体調を崩さず無事に帰って来た事さえ、正直驚いています」
「そう、ですか」
「君の責任ではない。むしろ、マイはリハビリも、元々熱心だったのだが、ことさら熱を入れるようになった。が、正直もう意味は無いと思う」
奥歯が砕けなかったのが不思議だ。吐き出しそうになった言葉を無理矢理抑え込むのに、それだけの力が必要だった。
「君には伝えておきたかった」
「そ、うで、すか」
「それでは失礼する」
白井氏は二人分のコーヒー代を置いて立ち上がった。カップは既に空だった。
もうそんなに時間が経ったのか。
「あつっ」
コーヒーはまだ熱かった。
「マイ、大丈夫? 検査って聞いたけど」
「簡単なものだよ。もう終わった」
「そう……」
ベッドに半身だけ起こしているマイを抱きしめた。
「どうしたのさ……」
「ずっと、一緒にいたい……」
「嬉しこと言ってくれるね。よしよし、大丈夫ですよ~ここにいますよ~」
そんな風に茶化すけど、でも、それがどうしても無理してるようにしか聞こえなくて、腕に力がこもって行くのがわかった。
「ふぅ。ほら、そろそろ離して。そうだ、中庭に散歩に連れて行ってよ」
「まだ寒いよ」
「お願い」
春までもたない。でも、ここであらゆることに気をつければもう少し、ほんの少し、一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも延びるかもしれないと思った。
「連れて行ってよ。どうしたの? そんなに怖い顔して」
「マイ、俺は……」
「嫌だよ。そんなさ、ほんの少し長く生きるために今を犠牲にするのは。私は今、中庭から見える景色が見たい」
それに素直に頷けるほど、俺は決して大人ではなかった。
いや、これにあっさり頷けるのが大人なら、俺は、大人にならなくて良い。
「マイと、いたいんだ」
「無理だよ。それをわかっていても、好きになったんじゃないの?」
何も言えなかった。
何もわからなくなった。
前を向けても、自分の居場所がわかっても、受け入れられないことが、あった。
「マイ」
「ん?」
「俺も一緒に、駄目かな」
「駄目に決まってんじゃん」
即答だった。
「私の分まで生きてとか言うつもりないけどさ、でもさ、駄目だよ。まぁ、目的の無い人生が無理だって言うなら別に私の分まで生きてもらうのも悪くは無いけど。縛りたくないな」
「なんで……」
「なんでってそりゃ、じゃあ教えてあげるから中庭連れて行ってよ」
「ずるいよ」
「私とっても我儘な女の子でもあるから」
悪魔の契約のような、そんな、手を握るという事にここまで躊躇う日が来るとは。
「ありがと」
車椅子に座ったマイを連れて、俺はのろのろと歩き出す。
「私、謝らないからね」
「大丈夫。俺は、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。だから、連れて行って」
エレベーターに乗り、マイに言われるがまま、歩いて行く。
病院の建物に囲まれた、どこか閉塞感を感じるその場所。雪が積もり、とても車椅子で進めるような場所では無かった。
「ちゃんと雪片づけて欲しいよね」
「うん」
「どうかな?」
「雪だね」
結局、外には出られなくて、ガラス越しに眺めている。
「私ね、喫茶店辞めさせられちゃった。ドクターストップ」
「うん」
「リハビリももう駄目だって」
「うん」
「聞いたんでしょ、春までもたないって。……病院の前はね、春になると綺麗な桜並木になるの。夏になると緑に染まって、秋になれば綺麗に紅く染まる。中庭も同じ、あの中央の木も」
積もっていた雪はさらに降り積もって行く。
「できること、減っていっちゃう。はぁ、少し前の私のまま終われれば良いのに」
「うん」
「清明さん、恋人らしいこともさ、やれるうちにやりたいな」
マイの綺麗な顔がこちらに向いていた。目を閉じて、俺に何か求めていた。いや、わからないほど俺は鈍くない。
柔らかい。薄い唇だと思っていたのに、不思議だ。甘くなんてない。でも、俺の奥底の部分が晴れていく気がした。
「病室戻ろっか。ちょっと、疲れてきた」
「うん」
間抜けな返事しかできない自分が情けない。
「海、綺麗だったな。ご飯、美味しかったな」
「うん」
「デリバリーとかしてないの?」
「食べに来てよ」
「それができたら、良いな。頑張ってみようかな」
今を生きようとしている。決まっている終わりまでの時間を自分のために使い切ろうとしている。
「恋人っぽい事って、あと何があるかな?」
「そんな焦らなくても良いよ」
「焦るよ。私だって、君となるべく過ごしたいし。変だよね、今になってもまだ、やりたいことが、溢れて来る」
「変じゃないよ」
願っても、祈っても、俺は、何も、できないのか。
違う。違う。
そうだ。
「マイ、俺に、時間を、チャンスを、ください」
「ん?」
「やるよ、俺」