十 手を繋いで歩いて。
緊張しているのがわかる。
マイと予定を確認して帰って来た夜。明日の事を思う。
俺はちゃんとできるのか。マイを失望させないか。俺のためではない。マイのためだ。そう言い聞かせる。俺のやりたいことだけど、これは、マイがずっと見たいと、行きたいと思っていた場所に連れて行くことだ。
諦めからくる決意。そんな言葉が頭をよぎった。
誰の言葉かは知らない。俺の中からきた言葉かもしれない。
「また、眠れない夜か」
いつまで待っても睡魔は来ない。
今日は早めに寝ようとして、結局失敗した。
窓を開ける。雲一つない、星空が広がっていた。
「おぉ」
空をちゃんと眺めたのは、いつ振りだろう。星座なんて、学校で習うものしか知らないけど、今この瞬間にその知識はいらない。美しいことはわかるから。
明日、晴れて欲しい。マイにも、この空を見せたい。いや、見てるかな、もしかしたら。
「一緒に見たい、か」
しっくりくる答えが降りてきた。
マイと一緒に海が見たい。マイと一緒に空を見たい。マイと一緒に美味しいものを食べたい。マイと一緒に、同じ時間を、過ごしたい。
「なんだよ、結局、俺がやりたいだけじゃないか」
不思議と、嫌な気持ちでは無い。自己嫌悪なんてしない。
「ははっ、あはは、はは」
笑ってしまった。思わず。おかしいな。なんで笑ってしまったのか。
布団に潜り込む。目を閉じる。視界を闇で満たす。
朝だ。良い朝だ。晴れている。透き通るような青空、そんなありきたりな表現がよく似合う、そんな天気。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「ふむ……」
そんな風に、廊下で会った陽菜さんに挨拶すると、腕組して悩み始めてしまった。
「どうか、しました?」
「いえ、すいません。おはようございます。ただ、清明さんは私をあくまで姉として扱わないのですね、と思って」
「実感湧きませんし。……家族がいないの、普通だと思ってしまって」
「そう、ですよね。すいません」
少し、意地悪な言い方をしてしまったと思う。
「普通は人それぞれ違いますから。そんなものだと思いますよ」
「はい。でも、家族は、良いものですよ。帰れる場所は、大事です」
実感がこもった、力のある言葉だ。
家族がいるのは当たり前だと理解はしている。
当たり前を実感するには、一度失うか、後から得るか。
「陽菜さんは、得たのですね」
「はい」
自信をもって頷いた。どこか羨ましく思う自分がいた。
「なので早速ですが清明さん。私を姉として見てみませんか?」
「えっ……何を、すれば良いですか?」
「呼び方を変えてみましょう」
会話が途切れる。いや、違う。陽菜さんは待っている。俺のアクションを。
「……おね……あね……姉さん」
色々考えて、落ち着いたのがこれだ。
思わず視線を逸らした。ものすごく恥ずかしい。
「はい。清明さん」
「そっちは変えないのですか?」
「姉特権ですね」
「陽菜先輩は厄介ですよ~」
後ろから頭をくしゃくしゃと撫でる手。
「ふふっ、後でお姉さんに髪を整えてもらってくださいね」
「……乃安さん」
「はい。二人も姉ができましたね」
何だ、これ。
俺はこの状況をどうすれば良いのだ。
嬉しいか嬉しくないかと聞かれれば俺は温かいと答えるだろう。
向けられる言葉、気持ち、すべてが温かい。
温かくて、涙が出そうになる。
「まだ時間に余裕はありますけど、朝ご飯、もらって良いですか?」
「どうぞどうぞ」
泣きたくは無かった。泣いたら、もっと弱くなりそうだから。
「お、おはよう。マイ」
「はい、おはようございます」
普段のパジャマのような服ではなく、お出かけ用の、寒さ対策なのか、もこもこした服装に身を包んだマイは病院の前で待っていた。
俺も俺で、鏡の前で陽菜s、姉さんが髪を整え、乃安さんに昨日選んでもらった服に身を包み、相馬先輩にその様子を散々笑われた。
「僕もよくやられるけど、端から見ると面白いね」とのことだ。
「よろしくね」
マイが手を差し出す。
「ん?」
「握って?」
「う、うん」
手を握ると、マイはゆっくりと立ち上がる。
「エスコートしてね」
「うん」
マイの歩幅に合わせて、倒れないように気をつけながら手を引く。
車の扉を開いてマイに乗ってもらう。
「ありがとう」
トランクに車椅子を乗せて出発。
海までの少しの距離。車は走り始める。
景色が流れて行く。マイは夢中で外を眺めている。
「凄い! 人がいっぱい!」
「病院もいっぱいいるじゃん」
「そうなんだけど、なんだろう。普通」
「普通ね」
「えへへ」
海までの距離。車ならあっという間の時間。
流れる日常の間を駆け抜ける。
青空の下、海に。マイの行きたかった場所に。
「もうすぐだよ。マイ」
「うん」
海沿いの駐車場に、車が停まる。マイは下を向いていた。
「どうしたの?」
「まだ見たくない。清明さん」
差し出される手。何を求められているかはすぐにわかる。
「おっけ」
優しく手を握る。しっとりした柔らかい、壊さないように優しく握る。
「ありがとう」
歩いて、近づいて行って、あぁ、こんな季節でもサーファーはいるんだな。
マイは見ていた。海を。
遠く、遠くを見ていた。
「砂浜、行く?」
「うん」
ゆっくり、ゆっくり、歩いて行く。
陽菜さんが慌てて車椅子を用意していたけど、それよりも、マイの気持ちが前に、早く早くと急かしていた。
だから俺は、その気持ちに応える事を選んだ。
「ありがとう」
マイはそう言った。
「自分の足で歩きたい。そうでしょ」
「うん。私の足で、私の身体で、私の目で、私の鼻で、すべてを感じたい」
砂浜に降りる階段。砂の感触。
「どう?」
思わずそう聞いた。
「最高。波打ち際まで行きたいな」
「よし」
雪と砂、冬の海が今日は優しく見える。
母なる海、命が生まれ還る場所。マイが海に行きたがったのって……いや、やめよう。
靴が濡れるのも構わず、マイは静かに海を眺めていた。
青空の下、手袋越しの手の感触。
「痛いよ」
「ごめん」
強く握り過ぎていたのに気づいた。
「大丈夫、今は何処にも行かないから」
たなびく髪を抑えながらそう言った。
どこまで遠くが見えるのだろうと思いながら俺も海を見た。何度か見た光景なのに、不思議と新鮮に見える。
「もう少し歩きたいな」
「良いよ」
「寒くない?」
「マイは?」
「私は全然。むしろ、温かいし、楽しいや」
マフラーを口元まで上げる。笑顔を向けられて視線を逸らした。
「どうしたの?」
「いや。何でもない。こっち、ベンチあるよ」
「良いね」
「どんな気分?」
「最高だって。こんなに外に出るの、どれくらいぶりだろう。あっ、高校の入学式以来か。わりと最近だ」
「そうなんだ」
マイは歩き続けた。一歩一歩を、噛みしめるように歩いている。
「小学生の時はね、入院しながらも行ってはいたんだよ。体育とかは見学だったけど」
「うん」
「中学生の時も、受験もちゃんと行ったし。まぁ、せっかく受けたのに、行けてないけど。あはは……また強く握っちゃって。痛いよ」
「ごめん」
「おーい」
声のした方を見ると、南さんが手を振っていた。
「マイ―! 退院したのー!」
「違うよー!」
思いのほか大きな声でマイはそう返した。
南さんが駆け寄ってくる。
「おぉ、本当にマイと矢田目君だ」
「他に誰がいるんだよ」
「マイに関しては今でも目を疑ってる」
南さんはマイをしげしげと眺める。
「なんか新鮮。マイと一緒に外にいるの」
「いつも病室だからね。あっ、南さんのお家って喫茶店でしたよね? 行ってもよろしいですか?」
「よろしいよ~、すぐそこだから、行こっ」
また、お客さんがほとんどいない。
マイと二人で向かい合って座る。
「そういえば、マイも喫茶店で働いているよね」
「うん。楽しいよ。色んな人がいて。酷いお客様も、優しいお客様も。優しいお客様の方が多いのはきっと私に同情してくれるからで、酷いお客様がいるのは、そんな同情を引くような私が気に食わないから。でしょうね」
俺はコーヒー、マイは紅茶。
空が紅く染まって行く。優しい色だ。海も同じように染まって行く。
「そろそろ行かなきゃね」
「どこに?」
マイは腕時計を覗く。
「まだ時間、余裕あるよ」
「うん。旅館。弥助さんのじゃないけど、乃安さんが旅館の料理出してくれるって」
「本当?」
「うん」
目を輝かせるってこんな感じの事言うのだなって気づいた。
どこか落ち着かなくなる様子が微笑ましい。頼んで良かった。頼み込んで良かった。
「清明君、旅館を閉じる事も考えているんだよね、私たち」
乃安さんは、俺の頼みに対して、最初はこう返した。
「弥助さんが帰ってくるかもしれないから私たちは頑張って回したけど、正直、節乃さんもショックで大分弱っているんだ」
「お願いします」
ひたすら頭を下げた。有効な反論も、立派な理屈も俺は持っていなかったから。
「マイちゃんを連れて来るのはね、私も気持ちだけはそうしたいとは思うけど、ただ、マイさんを受け入れるという事はこれからも旅館を続けるということを意味すると思うんだ。狭い温泉街だからね、一人受け入れるだけでも経営再開したって思われるから」
誰か一人だけを特別扱いするのは、客商売として許されることだろうか。
乃安さんはそう問いかけていた。
「俺は、商売とか、よくわかりません。でも、俺はここに来るとき、最初はこの旅館を手伝う条件も、ありました」
「うん」
「俺は、働けます」
「それは相馬先輩達と一緒に帰る事を選ばないって事?」
「はい」
乃安さんは俺の目をわざわざ下からじっと覗き込んだ。
「ビシバシ指導するけど、でも、辛い時は頼りなさい。お姉ちゃんだと思って」
悪戯っぽい微笑みに返すものは持ち合わせていなかった。
俺は選んだ。
マイを言い訳にしたつもりはない。海に連れて行くだけで良かった。そこから先は、俺がやりたいと思った事だから。
こんな決め方で良かったのだろうか。悩みたくないと思っても悩んでしまうのが人だと思う。でも、乃安さんに頭を下げた時の俺は、そうしたいと思ったのだ。陽菜さんや相馬さんと一緒にいることは気がつけばそこまで苦痛ではなくなっていた。むしろ、陽菜さんと居るのは結構居心地は良かった。
どこかぎこちない陽菜さんと俺は似た者同士で確かに俺の姉なんだと思った。
「南さん。ごちそうさま」
「お粗末様」
財布を出そうとしたら既にマイがお代を出していた。
「マイ?」
「入院生活で、私のお年玉とかお小遣いとか使う機会あまりありませんから。喫茶店のお手伝いのお給料とか溜まりっぱなしで、お金が可哀想です」
喫茶店の前に車が停まる。
「楽しめましたか?」
「はい。とても楽しかったです」
陽菜さんの問いかけに、マイは即答で屈託なく笑ってそう答えた。
夕焼けに染まる海を、もう一度焼き付けるようにマイは眺めていた。
「いらっしゃい。マイちゃん」
「乃安さん。本日はお招きいただきありがとうございます」
「いえいえ。誰かさんが頼み込むものだから、私も張りきっちゃったよ」
節乃さんだけかと思っていたら乃安さんも出迎えに出ていた。
「それでは、ご案内いたします。こちらです」
流れで俺も案内されることになる。
階段で二階の宴会場へ。
広い空間の中心に、料理は二人分用意されていた。
「ん?」
「何やってるの清明君、早くマイちゃんをエスコートしなさいよ。流石に畳に車椅子は厳しいから」
「あれ、俺の分ですか?」
「当たり前じゃない。マイちゃんに一人でご飯食べさせるの? 二人で過ごしなよ」
小声の会話。ポンと背中を押されてマイの横へ。
「じゃ、じゃあ」
誤魔化しは効かないので手を差し出すことを選んだ。
「ありがとうございます」
転ばないように、ちゃんと座れるように。
俺たちが座ったのを見計らって、乃安さんが手早く固形燃料に火をつけて、料理の解説を始める。
マイの事を気づかってなのか、マイの料理は俺が知っているメニューとは違った。いや、俺が言えることでは無い。まだ旅館の仕事に携わったことは無いから。でも、一度だけ、弥助さんが俺に旅館の料理を振舞ってくれたこと。
「いただきます」
一緒に手を合わせた。
「えっ……これ……」
俺の反応に気づいた乃安さんが、宴会場から出ようとする足を止めて一瞬振り返る。
にやりと笑ってそのまま出て行く。
「弥助さんの……」
じゃあ、きっと今マイが食べている料理も。
マイは顔をほころばせ、微笑む。これが、もしかしたら俺の見たかった光景なのかもしれない。
「ありがとう。乃安さん」
夜の砂浜を、またマイの手を握って歩いていた。
「湯冷めしないうちに戻るからね」
「わかっています」
月の光に照らされる。遠くから見たら深い闇も、近くで見れば海だとちゃんとわかった。
料理を食べ終わって、マイに温泉も体験してもらおうと陽菜さんに預けた。マイを待つ間、俺は乃安さんと話す時間ができた。
「乃安さん、あの料理って」
「清明君、一度しか食べたこと無い筈なのに、よく気づいたね」
「乃安さんの料理はほぼ毎日食べていたという事ですよ、逆に」
「なるほど……誰かの真似をすることが嫌だった時期もあったんだよね、私」
「真似、ですか?」
「誰でも欲しいじゃん、オリジナリティ。でもね、必要なんだよ、真似する人」
食器を洗っていた手が止まる。意味ありげに視線を向けた方向にはノートが一冊置いてあった。
手に取って開いて見ると、ごちゃごちゃと隅々まで何か書かれていた。
「レシピメモ、ですか?」
「そう。弥助さん、教えるの下手だから、でも律儀な人でメモは残してあって、修行始めた頃はそれを勝手に読んだり、仕事を見たりして覚えたんだ。今の、現代の私たちは誰かのコピーにしかなれないんだよ。それが劣化コピーか、進化かの違い。私はこの真似事を進化させることしか道が無い。じゃなきゃ、オリジナリティは手に入らないから」
蛇口をひねる音、乃安さんはようやくこちらに顔を向けた。
見たこと無い真剣な目。思わず射抜かれると錯覚してしまう、そんな目だ。
「今日は特別。私は私じゃない料理を出した。需要に応えるのもプロだよ」
「清明さん」
「あっ、あぁ」
マイが俺を見ていた。大きな澄んだ瞳に俺が映っていた。
「ぼんやりして、疲れてしまいましたか?」
「全然。むしろ楽しいよ。マイとこうしているの」
ずっと、こうしていられた良いのに。
口からそう出かけた。慌てて飲み込んだ。
そろそろマイを病院に帰さなきゃいけない。マイをまたあの病室に。
「……マイ」
「はい」
マイの手を強く握らないように、左手を強く握りしめる。
駄目だ。これ以上は。
マイの顔が近づいてくる。違う、俺が近づいて行く。
「うん。ふふっ。確かに、少し冷えてきたので、温かいのは歓迎です」
ほのかな温泉の香りがした。
マイは温かい。その熱を逃がしたくなかった。
少しでも、マイの香りを、温もりを残したかった。
「ごめん。しばらく」
「確かに立っていては膝も貸せませんしね。とはいえ、急に抱きしめられてびっくりしました。とてもドキドキしてます。晴明さんの心臓も、少し早いです」
「マイは寂しく無いの?」
「私は大丈夫です」
「嘘だ。口調がお淑やかだ」
「お淑やかって。変かな?」
「マイって、どうすれば良いかわからないとき、そんな風になる気がする」
「あは、確かに……ねぇ、星がとっても綺麗」
「そうだね」
お互いの肩越しに、星を眺める、そんな、変な恰好。
「あれ何て星座かな」
「聞かれてもわからないし、そもそも見えないよ」
「なんか、真ん中に三つ並んでる」
「もしかして、オリオン座?」
「わかんない」
でも、そんな時間も長くは続けられない。
ちらりと腕時計を確認した。そろそろ行かないと。
行かないといけないのに。
「泣かないでね。絶対に」
耳元で囁かれる。
「私が死んでも、泣かないでね」
「無理だよ」
腕に力が入るのがわかった。でも、マイは痛いとは言わない。
「お願い。だって私、こうしてやりたいことできたんだから。もう悔いはない。だからさ、笑って送り出して欲しいな」
「そんな風に、言うなよ。マイはまだ、生きていてくれよ!」
「それが君の本音かな?」
「当たり前だ」
「嬉しい。私、ちゃんと誰かの心に残る事、できたんだ。なら、本当に、悔いは無いよ」
するりと俺の腕からマイは逃れる。
マイは笑っていた。でも、体に力が入っているようには見えなかった。足は覚束なくて、ゆっくりと砂浜に落ちて行く。
「あっ」
「マイ!」
「えへへ、ありがと」
掴めた。ちゃんと。しっかりとマイの手を掴めた。
「ちょっと疲れちゃった。はしゃぎ過ぎたかな」
車の方を見ると、陽菜さんがこちらを見ていた。
そろそろ限界という合図だと判断した。
「行こう」
「うん。あっ、ちょっと待って」
そう言って深呼吸を始める。
「これが、ここの空気。生き物の匂い。とっても生臭い」
「うん。おぶるよ、疲れたでしょ」
「お願い」
マイは軽かった。軽すぎた。それでも背中に感じる体温は、マイがいる事を教えてくれるのは。
大丈夫、俺は泣いていない。
「マイ、あのさ」
「うん」
止められなかった。涙は止めても、気持ちは、止められなかった。
「俺、マイの事、好きだ」
「ありがと」
風が吹いた。冬の冷たい風だ。