一 出会いは夕暮れの海と共に。
高校一年の秋、ぼんやりと黒い服に身を包んだ人たちを眺める。気がついたら終わっていた。父親がいない僕のために色々手配してくれた人、誰も僕に声をかけず、その人が窓口のようにあちこちで働いてくれた。
そんな中、俺の方へ歩いてくる男女がいた。細身の、黒髪に黒目が印象的な、穏やかな雰囲気を放つ男性に促され、背の低い、何の感情も浮かんでいない顔、葬式という場では異質な女の子が座り込む僕の目の前に立つ。
「辛い時こそ、笑いなさい。あなたのお母様は、あなたに笑っていて欲しいと願っていました。日頃から笑っていないと、私みたいに無愛想で下手くそな笑顔しかできなくなりますよ」
穏やかな声で紡がれた言葉に頭を上げると、その人は軽く僕の頭を撫でて、去って行った。ちらりと男の人が振り返り、女の子に何か声をかけている。
息を吐いて、僕は笑顔を顔に貼り付けることをイメージした。
降り立った場所は海沿いの温泉街の近くのとある駅。降り立つとすぐに冷たい風が冬の洗礼を与えた。
駅舎に入って、備え付けのストーブに当たりながら手紙と地図とにらめっこ。駅に近いとは聞いているけれど、初めての町、見慣れない景色、未知の世界とまではいかないが、それでも土地勘が無いという事実は俺の足を止めるのに十分な理由だった。
手紙には下宿先の電話番号も書いてあるけど、仕事中の可能性を考えると迎えを呼ぶのは憚られた。
ポケットに突っ込んでいたスマホ、地図アプリでナビゲートしてもらうかと思い、取り出す。
「あれ?」
電源が切れている。いつの間にか切ったのかなと思い、電源ボタンを長押しするとすぐに画面に光が灯るが、充電をしてくださいと言うメッセージと共に無情にも画面は暗転した。
途方に暮れて辺りを見回すけれど、見つかるのは何やら熱心に仕事している駅員さん。「修理中です」という張り紙がされた、今や珍しい公衆電話。
「ははっ」
意味も無く深く息を吐く。選択肢が最初から、地図を頼りに探索するしか残っていないかった。
「ははっ! よし、ピンチだ!」
頭を振る。思考を切り替える。笑顔を作る。よし、行くか。やけくそ気味に寒空の下に一歩踏み出す。
「わお、雪じゃん」
青空に雪景色。歩み出せば足跡が残る。一旦下宿先に行ってそれから転入手続きだ。今日中に済ませたいけど、うん。どうしよう、いや、わかりづらい場所にある筈が無いのだから、大丈夫。
「ねぇ、君。その手紙と封筒。もしかして君が矢田目清明君?」
「はい。そうですけど」
駅の駐車場から走って来た女性が、安心したように息を吐く。封筒をちらりと見る。そういえばこれ、独特な和風のデザインで旅館の名前、しっかりプリントされているな。
「やっぱり。良かった~間に合って。さてさて、ご案内しちゃいますか。あっ、その前に自己紹介。私、朝比奈乃安。君の下宿先になる旅館、『温故』で料理修行中の者です。君の荷物は届いているから。早速だけど学校行っちゃう?」
「ありがとうございます」
「じゃあ、こちらへどうぞ。車持ってきてるから」
そう言って駐車場を指で指し、思わずこっちまで口元が緩む、そんな笑顔を浮かべた。
最近では珍しいマニュアル車を鼻歌交じりに走らせ、雪道を駆け抜ける。
「携帯の充電切れちゃったんだ。大変だねぇ」
「どうして来てくれたのですか? 迎えは難しいと聞いていたのですが」
「今日の予約キャンセルなっちゃったから、弥助さんが行ってくれって」
「なるほど」
「弥助さんというのは、料理長さん。女将は節乃さん。覚えておいてね。後は私。三人で回しているの。あっ、ほら、もうすぐ着くよ。君が通う高校」
コンクリート製の校舎、耐震工事がしっかりされているところを見ると、最近改装したのか新しい校舎なのか。
「入学に必要な書類は持ってきているね? 日曜だけど、アポは入れてあるから誰かいてくれているはず」
「何から何まで、ありがとうございます」
「礼儀正しいね。良い子だ」
「子ども扱いですか。年、そう変わらないように見えますけど」
「うん? 私十九歳だけど。来年で二十歳」
「俺十六です。三歳しか違わないじゃないですか」
「三歳は大分大きいと思うけどなぁ」
日曜でも部活はやっているようで、体育館は賑やかだ。音楽室からは吹奏楽部が演奏している音が聞こえる。
「職員室は、どこだ?」
「どこだろうね。あっ、こっちか」
乃安さんの先導に従い階段を昇り、昇った先に現れた事務室にて手続きをする。事務の人が呼んでくれたようで、ジャージ姿の男性が廊下の端から駆けてきた。
「わざわざご足労頂きありがとうございます。担任の荒井です。えっと、保護者様ですか?」
「彼の下宿先の者です。保護者の代理として来ました」
「あぁ、温故でしたっけ? わかりました。こちらへお願いします」
手続きと言っても簡単なもので、ほとんどの時間は学校の案内や前の学校での事を聞かれた。成績も中の上程度、むしろ前の学校の方が、偏差値が高いために妙な期待をされて少し戸惑った。
「それじゃあ、明日からになるが大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
「そうか。じゃあ、明日はまず職員室に来てくれ。私が教室まで連れていく。そこで簡単な自己紹介してもらうから。それと、この封筒にある書類は明日までに書いておいてくれ」
「はい」
「なんかあっさり終わったね。どうしようか。そうだ、じゃあ、町、案内するね。一旦旅館に車置いて」
「ありがとうございます」
車が通るには少し狭い、温泉街の道路に入る。雪が道路の端に積み上げられ、さらに狭くなっているが、和風な建物が並び、建物から湯気が上がる光景は風情がある。
「一旦挨拶してから行こう。清明君も荷物置きたいでしょ?」
「わかりました」
旅館の中は落ち着きのある雰囲気と高級感が合わさっているけれど、緊張感を促すものではない。
ロビーの奥から出て来る、恐らく乃安さんが行ってた節乃さんという人だろう。すっかりおばあちゃんだが、年齢を感じさせない足取りだ。
緊張する。けれど、笑え! 朝、鏡の前で練習した笑顔を作り上げる。
「初めまして。矢田目清明です。今日からよろしくお願いします」
「はい。私はこの旅館の女将、節乃でございます。料理長の弥助は今出てこれません」
「節乃さん、私今から清明君に町を案内しようと思うんだけど、良いかな?」
「そうね。予定の時間にはまだ早いから、弥助さんの病院には間に合うでしょう。行っておいで」
「はい、いってきます。行くよ、清明君」
「はい」
建物を出る。石畳の道、何も知らない道。これからは毎日歩く道を行く。
「ほら、こっち。まずはね、足湯」
「それなら車に乗っている時もちょくちょく見ましたけど」
「ノリが悪い! もう、じゃあ真面目にやるけど」
「乃安さんは大学とか通っているのですか?」
「通ってないよ。高校卒業してから旅館で弥助さんに弟子入りさせてもらったの。いつかお店とか持ちたいなぁって思って。はいここ、コンビニ。君はよく利用することになるでしょう。私はよく利用します。覚えておくように」
「はい」
「何だか暗いね、君。もしかして私の運転で酔っちゃった?」
「大丈夫です。ご心配なく」
暗く、見えていたのか。戸惑う、顔の感覚は笑顔を作っている時のもの、暗く見えている筈が無い。
「そう」
探るような目つきで、そうして小さく笑うと。ポンと頭に手を乗せて来る。
「どうしたのですか?」
「んー、何だか懐かしくなっちゃって」
「弟でもいたのですか?」
「いないよ。ただ、頼れるけど無理しがちな先輩がいてね。その人思い出しちゃった」
「はぁ」
道のど真ん中で、高校生の男が自分より背の低い女に頭を撫でられる。しかもほぼ初対面の。それは意識すると少し恥ずかしい。
「大人しいね。抵抗されると思った」
「考えもしませんでした」
「ここでの生活、不安?」
「……正直。旅館の手伝いをする条件で下宿させてもらう事になりましたけど、役に立つかどうか、上手くできるかどうか」
「あはは、最初から期待なんてしてないよ。私も節乃さんもちゃんと教えるから。でも、嬉しいな、正直に不安を教えてくれて」
「嘘を吐いても仕方ありませんから。見抜かれてしまったなら」
「うん、良い子。どんどん頼ってね」
パッと手を離し、踊るように温泉街の中を歩いて行く乃安さんを追う。その様子は白いコートと相まって雪の妖精にも見えた。
「ほら、見えてきた。感じるでしょ?」
一瞬、何を言っているかわからなかった。でも、すぐに気がついた。潮風に、潮騒に。
「なーんて、案内するほどの場所じゃないけど。海なんて。でも、ね?」
人間の世界から、自然の世界に視界が早変わりした。冬の海は残酷に見えた。あらゆるものを飲み込む絶対者に見えた。けれどそれが美しかった。何者にも侵されず、包み込むその在り方が美しかった。
「ほら、こっち。何か飲まない? 海を眺めながら雰囲気の良い喫茶店でお茶を飲む。男の子なら、良いデートスポットの一つや二つ、覚えておこうよ」
「余計なお世話です」
ドアベルの特徴的な音。すぐに店員さんが入り口まで迎えに来る。明るい印象を感じる店内、僕らの他に客はいない。
「いらっしゃいませ。お席までご案内します」
女性店員に先導され、窓際の席に座る。
「ここはね、コーヒーが美味しいよ。あ、店長さん。また来ちゃいました」
「やあ、乃安ちゃん。今日はデートかい?」
「えへへ、そんなところです」
店長さんと呼ばれた中年男性とそんな会話をして、コーヒーとチョコレートケーキをそれぞれ二つ注文。湯気を立てて出てきたそれを一口。渋みの少ないまろやかな、ミルクも砂糖もいらない、飲みやすい味だ。
「チョコと合いそうだ」
「清明君もそう思う? 良かった。チョコケーキ注文して」
「あの、お代」
「あはは、私が持つよ。年下に奢られるなんてね。それに私、修行中とはいえ、きちんとお給金貰ってる社会人だし」
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして。うーん、そろそろかな」
窓際をちらりと見て、手でそっちを見るように促す。
「良い時間に来たなぁって。この時間に来るとさ」
乃安さんの顔が、茜色に照らさられる。窓の外の景色を眺めると、海もまた同じ色で照らされていた。優しい色だ。それは先程までの厳しさと雄大さでは無い、見守られている、そんな気がした。
「ようこそ、清明君。今日からよろしくね。困った事があったらお姉さんに頼って」
差し出された手を見る。そして乃安さんの顔を見上げる。
それは、名前も知らない誰かを思い出させる、優しい雰囲気をまとっていた。
俺は、その手を握った。温かかった。人の体温だった。
「乃安さん、意外とこういう演出するの、好きなんですね」
「うん。どう? 良かったでしょ、今の」
「そう言われてしまうと、素直に良かったとは言いたくないです」
「あはは。共感できてしまうのが辛い」
困ったように笑ってマグカップを手で包む。一瞬目が合うけど、気恥ずかしくなって外を見る。
「ふふっ」
何が面白いのか。そんな風に笑って、頬を突っついてくる。まだほぼ初対面のはずなのに、馴れ馴れしいとは思う。
「本当、君、嫌がらないね」
「別に、嫌ではないので」
「そうなんだぁ。へぇ」
からかうような口調でニヤニヤしている。手のひらの上で転がされているような気がして、どうにか一矢報いたい。
「変な意味はありません」
「そうかそうか。大丈夫、お姉さんはちゃんとわかっているよ」
「な、何をわかっているのですか?」
「君がとても照れ屋さんだってこと」
「はぁ」
「えっ、どうしてため息! 何か変なこと言った?」
何をどう思えばそうなるのだろう。どうやら簡単にリベンジを果たせたようだ。
「さぁ、どうでしょうか。胸に手を当てて考えてみてはどうでしょうか?」
「意地悪。清明君意地悪。教えてよ」
言えるわけがない。人間関係も不安だったと。それを一気に吹き飛ばしてくれて感謝しているというのは、気恥ずかしくて言いにくい。
「もう。まぁ、良いや。そろそろ弥助さんを病院に連れて行かないと。ついでに君に病院の場所教えるね」
「はい、ありがとうございます」
車から降りて、見上げた建物は少し高台にある大きい病院だ。中に入ると特徴的な消毒液の匂い。苦手な匂いだ。
「弥助さんの検査、ちょっと長くなるって。別に悪いわけじゃないけど、せっかく今日は何も無いからって念入りにするって」
「はい」
「病院にも一応、ゆっくりお茶飲める所あるけど、行く?」
「そうさせてもらいます」
病院の一角に設けられたそのスペースは、そこだけ異質だった。扉を開ければ茶葉やコーヒーの匂いが漂い、木を基調としたデザインはここが病院である事を忘れさせた。
「お待たせしました」
紅茶を注文して数分、その声の方向を見る。声の主である女の子はお盆を持ち、器用に車いすを操作していた。
紅茶を置き、ちらりとこちらを見ると、驚いたように目を見開いた。
「あっ、弥助お爺様とよく一緒にいらっしゃる。あっ、申し訳ございません。初対面の方に」
「いえいえ、弥助さんご存じなのですか?」
「はい、入院される時は話し相手になってくださり。お小遣いを頂くことも。ご家族の方にはお礼をしたいと常々思っておりました」
ニッコリと微笑み、肩に下げたポーチから何かを取り出す。
「押し花で作った栞でございます。どうぞ、受け取ってください」
「ありがとうございます」
乃安さんに渡すと、俺の方にも向く。
「はい、あなたにも。あなたには見覚えがありませんが、これも何かの縁です」
「ありがとう、ございます」
四葉のクローバーがラミネートされ、文庫本の栞に丁度良いサイズになっている。
「では、ごゆっくりどうぞ。また機会がありましたら」
店の奥に消えていく背中を眺める。
薄い、儚い、そんな印象を持った。
「清明君、どうしたのかな? 一目惚れでもしちゃったのかな?」
その言葉と、それと同時に放たれたデコピンで、俺はようやくぼんやりしていることに気がついた。
「恋愛相談、いつでも受け付けるよ。夜通し聞いてあげる」
「そう言う自分はどうなんですか?」
「んー、秘密」
「はぁ」
「あー、今絶対寂しい女とか思ったでしょ」
「思ってないですよ」
「言っておくけど、高校の頃は彼氏の一人くらい。っていうか、い……」
「どうしてそんなに必死なんですか」
めんどくさくなってきたので打ち切る。
「むー、別に―、頼りない奴って思われたら悔しいなぁって」
「そんな事は思いません。まだ判断するほど過ごしてませんから」
会話が途切れ、僕は病院備え付けの雑誌を開き、乃安さんは鞄から紙の束を取り出して読み始めた。何なのだろう、気になりはするけど、乃安さんがうっとりとした目で夢中で読んでいるのを見ると、声をかけるのが憚られた。
「二人とも悪いな。検査終わった」
「あっ、弥助さん。どうでした?」
「何ともない。ほれ、帰って夕飯だ。今日は豪勢だぞ」
外の世界はすっかり夜が町を染め、家々には明かりが灯る。
車に揺られて、また一つ表情を変えた町を進む。
「清明君、で良いのだよな?」
「はい」
「よろしく頼むよ」
振り返った弥助さんの顔は、微笑んでいた。それは、とても大切なものを見るような、そんな感じがした。
「よぅし、新作も試すか」
「という事は、本日はお任せしても良いと?」
「そういう事だ。任せておけ」
誰かと囲む食卓は、居心地が良いものだった。弥助さんの料理は深い、今まで食べた料理の中で一番深い。そんな味だった。食べ物で言葉を失うなんて初めてだ。
俺にあてがわれた一室。そこそこ広い。元々は客室だった部分を俺のために開けてくれたそうだ。
冬の夜は静かだ。夕食前に敷いておいた布団の中は、乃安さんから借りた湯たんぽが入っている。「電気毛布よりも健康的で家計にも優しい」との事だ。
そういえばと起き上がる。学校で貰った封筒の中身は明日までとか言っていたな。
「中身は、えっと、俺の住所と電話番号を教えてくれと。あぁ、緊急連絡先って事か。あと、進路希望調査、ふぅん」
とりあえず進学の欄にチェックしておく。まだ二年ある。最悪、どこか適当な大学に行けば四年ある。
そう言い聞かせると、この希望調査も適当に済ませる気になった。真面目に考えるのが可笑しい気がしてきた。
布団にもぐって電気を消す。段々と暗闇に慣れていく。そして、同化するように僕の意識も沈んでいく。
寝付けないと思っていたけど、意外と俺は落ち着いていた。